団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。
そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。
昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。
「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。
「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。
そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。
第14回は、引き続き戦国時代の「辞世」です。
1.伊達政宗(だてまさむね)
曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
これは「先のわからないこの世だが、夜に月の光を頼りに道を進むように、自分が信じた道を頼りにただひたすら歩いてきた」という意味です。
伊達政宗の人生を振り返ると、母親から毒殺されそうになったり、父親を敵と一緒に鉄砲で撃たざるを得なかったり、豊臣秀吉に屈せざるを得なかったりと苦難の連続でした。「関ヶ原の戦い」で豊臣勢が敗れて好機と見たものの、結局は徳川家康に押さえつけられました。
本当に、伊達政宗は、大将でありながら命の危機を何度もくぐり抜けて来ました。一寸先は闇という混沌とした時代を歩いてきたからこそ、このような姿勢を持たざるを得なかったということでしょう。
行動の指針となるものが「自分」しかない、しかしその「自分」は、移ろいやすく、いつでも堕落してしまう自己だからこそ、「心の月」を自分で作らねばなりませんでした。
そしてまた、政宗にとっての「曇りなき心の月」は、虎哉禅師(こさいぜんじ)(1530年~1611年)による厳しい薫陶によって鍛えられた「心の月」であったのでしょう。
伊達政宗(1567年~1636年)は、「独眼竜(どくがんりゅう)」で知られる東北地方に覇を唱えた戦国大名です。仙台城並びに仙台城下を建設して仙台藩62万石を作り、現在の仙台市の礎を築き上げました。伊達政宗は自身の健康に気遣ったことでも知られ、当時としては長寿といえる68歳で病没(一説には食道がん)しました。
2.織田信孝(おだのぶたか)
昔より 主(あるじ)を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前
これは「主君を討ったその身には、必ずその報いを受ける日が来るだろう。秀吉よ、非業の最期を待つが良い」という意味です。
主家である織田家を乗っ取った秀吉に 対する「恨み骨髄に徹す」心情を、怒りと憎しみを込めて名指しで吐露した呪いのような辞世です。
織田信孝(1558年~1583年)は、安土桃山時代の武将・大名で、織田信長の三男です。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸信孝(かんべ のぶたか)とも名乗りました。
天正11年(1583年)、「賤ヶ岳の戦い」が起きると、信孝は再度挙兵しました。しかし兄・織田信雄(おだのぶかつ)によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの柴田勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏しました。
信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)に送られ、自害させられました。切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけ言われているいます。その血のあとは、今なお掛け軸に残っています(自害の際の短刀と共に非公開)。
首は神戸城では受け取りを拒否され、検視大塚俄左衛門が伊勢関町の福蔵寺に持ち帰りました。寺では首塚を作り手厚く弔いました。太田牛一(おおたぎゅういち)(『信長記(しんちょうき)』の著者)は大野の海音寺で信孝の葬儀を営み、信孝の木像を彫り信孝を偲んだということです。
現在信孝の墓は、安養院にあります。ちなみに、ここは昔、大御堂寺の一部でした。
3.武田勝頼(たけだかつより)
おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端(は)
これは「ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆき、西方浄土を目指して行くかに見える」という意味です。
「晴れてゆくへの」に「晴れて(浄土へ)ゆく」と「行方の」(目指してゆく方向にある)を掛けています。「西の山の端」は西方浄土(さいほうじょうど)の意味を含んでいます。
武田勝頼(1546年~1582年)は、戦国最強軍団の将・武田信玄と信州諏訪の領主諏訪頼重の娘との間に生まれました。信玄の陣没(1573年)により家督を継ぎました。
やがて信玄の死を知った織田信長、徳川家康の攻撃が始まります。勝頼率いる武田軍は、それに対抗して家康の属城高天神(たかてんじん)城を落とし、美濃の信長の諸城を攻略しました。
しかし1575年、三河長篠において信長・家康連合軍と戦い(長篠の戦い)、信長軍の3千挺の鉄砲隊の前に大敗し、以後衰勢に向かいました。
「長篠の戦い」以降も遠州・上州・信州など頻繁に兵を動かし、さらに甲斐国内に城を築くなど国力を疲弊させました。
信長、家康の甲斐侵攻が始まり、味方の城を攻められても援軍を送る余力もなく落城させてしまうなど、勝頼と武田家の威信を致命的に失墜させました。
武田軍からは信玄の弟である武田信廉が城を捨て逃亡。さらに一族の筆頭・穴山信君まで連合軍に寝返ります。武田家の家臣団は一気に崩壊しました。
1582年、勝頼は韮崎の新府城を捨て逃亡を余儀なくされます。甲斐の名門・小山田信茂の進言を受け入れて岩殿城へと向かいますが、信茂に裏切られて領内に入れませんでした。
信茂の裏切りを知った勝頼は、武田家ゆかりの天目山を最期の場所に選び目指します。途中の田野で最後の一戦に臨んだ後、天目山麓で妻子・家臣とともに自刃しました。
武田家を滅亡させた武将として評判は良くありませんが、決して劣っていたわけではありません。文武に優れていましたが、乱世の宿命で、信頼していた家臣がつぎつぎに織田に寝返ったため、武田一族滅亡に至りました。
4.北条夫人(ほうじょうふじん)(武田勝頼夫人)
黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒
これは「黒髪が乱れるかのように果てしなく世は乱れ、あなたを思う私の命も露のしずくのようにはかなく消えようとしています」という意味です。
帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の国府(こふ)に落とせよ
これは「南に帰っていく雁よ、長い疎遠のわび言を小田原に運んでください」という意味です。
北条夫人(1564年~1582年)は、北条氏康の6女で、武田勝頼の継室です。
武田信玄は永禄8年(1565年)ごろ、信長の脅威を取り除く政略的な意図で、信長の養女・龍勝院を子の勝頼の妻に迎え入れました。
龍勝院は永禄10年(1567年)に嫡男の信勝を出産しましたが、4年後に死去します。勝頼はわずか5年ほどで妻を失い、さらにその2年後には父の信玄も病でこの世を去りました。
家督を継いだ勝頼は、再び敵対関係に入っていた織田・徳川連合軍に「長篠の戦い」で敗れ、馬場信春、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊、原昌胤(まさたね)といった歴戦の勇将たちを失うと、危機的状況を挽回すべく周辺国との関係改善に着手しました。
そして、天正5年(1577年)、後北条家との同盟である「甲相同盟」を強化するために迎えられた継室が、北条夫人でした。
北条夫人については、武田家と縁の深かった恵林寺(えりんじ)の僧、快川紹喜(かいせんじょうき)が「これまでの甲斐にはいないほど徳を持った方」などと評したという言い伝えが残っています。
現存する願文の字や、これらの辞世の句の美しさからも、夫人の優しさや意志の強さといった人間性が想像できます。
5. 蒲生氏郷(がもううじさと)
限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
これは「風が吹かなくとも花は時間が経てば散ってしまうのに、春の嵐はなぜ短気にも花を散らせてしまうのか」という意味です。
蒲生氏郷(1556年~1595年)は、蒲生賢秀の三男(嫡男)で、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主となり、最後に陸奥黒川城主となりました。
織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将で、家臣を大切にした人物としても知られています。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(レオ、またはレアン)で、子に蒲生秀行がいます。