江戸川柳でたどる偉人伝(戦国時代②)石川五右衛門・千利休・豊臣秀吉・石田三成・曽呂利新左衛門・加藤清正

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石川五右衛門

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第10回は「戦国時代②」です。

1.石川五右衛門(いしかわごえもん)

石川五右衛門

・五右衛門は生煮えの時一首よみ

・芋ならばさして見るころ五右衛門歌

・地獄の狐五右衛門を喰いたがり

・白波の居風呂桶(すえふろおけ)に名を残し

石川五右衛門(1558年?~1594年)は、安土桃山時代の盗賊の首領。文禄3年(1594年)に捕えられ、京都三条河原で釜茹でによって処刑されました。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されています。

最初の句の「五右衛門」とは、有名な大泥棒・石川五右衛門のことです。京都三条河原で、子供や仲間と一緒に釜茹での刑に処せられましたが、その時に「石川や浜の真砂(まさご)は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」という辞世を詠んだと伝えられています。

芋は頃合いを見て、串を刺して芯まで煮えているか確かめます。五右衛門は、芋なら串を刺してみる時分に辞世の歌を詠んだというのが、2番目の句です。

狐は油で揚げた鼠が好物だそうで、狐罠(きつねわな)の餌に使われます。地獄の狐が、油で揚げられた五右衛門を喰いたがるのは当然だというのが3番目の句です。

4番目の句の「白波」は「盗賊」の意味で、ここでは五右衛門のことです。「居風呂桶」は竃(かまど)を作りつけた桶で、湯を沸かし入浴するのに使うものですが、これを「五右衛門風呂」と言います。大盗賊五右衛門は、風呂桶にもその名を残したというわけです。

2.千利休(せんのりきゅう)

千利休

・高みでの見物茶人落ち度なり

・大名の手煎じ利休させ始め

・人を茶にして山門へ高上がり

・桂馬と利休高上りして落ち度

千利休(1522年~1591年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、「茶聖」とも称せられます。また、今井宗久、津田宗及とともに「茶湯の天下三宗匠」と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えました。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流がありました。子孫は茶道の三千家として続いています。

千利休は天下人・豊臣秀吉に寵愛され、北野大茶会の開催や黄金の茶室設計などを手掛けました。豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力を持ちました。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は粛清されるようになりました。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり、定まっていません。

最初の句は、茶人(茶道の宗匠)が高みの見物をしたのは落ち度だったと詠んでいます。これは、利休が大徳寺の山門に自身の木像を置いたことで、秀吉の逆鱗に触れたことを指しています。

2番目の句は、利休が織田信長や豊臣秀吉などの大名に、自ら茶を煎じさせる、つまり茶の湯を教えたことを詠んだものです。

3番目の句の「茶にする」とは、馬鹿にすることで、茶人の縁語です。「高上がり」は、高い所へ上がることですが、「思い上がる」という意味もあります。

4番目の句の「桂馬の高上がり」は将棋用語で、桂馬が不用意に飛び出して歩(ふ)の餌食になることです。

3.豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉

・瓢箪(ひょうたん)の数かさなって重くなり

・馬印(うまじるし)千成(せんなり)桃でいい理屈

・瓢箪でとんぼ押さえた豪傑さ

・千成をまねて三(みつ)なりじきもがれ

豊臣秀吉(1537年~1598年)は、は戦国時代から安土桃山時代の武将、戦国大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。元は尾張国の百姓の倅(せがれ)ですが、信長に仕えて軍功を重ね、信長亡き後に天下を統一し、近世封建社会の基礎を築きました。

秀吉の「馬印」(軍陣で主将の馬側に立てて、その所在を示す標識)は「千成瓢箪」(下の画像)です。

千成瓢箪

信長が美濃の稲葉山城を攻めた時、秀吉(木下藤吉郎)は搦め手へ潜入して手柄を立てたので、その時合図に使った瓢箪を馬印に使うこととし、以後戦功があるたびに瓢箪を加えることにしたのだそうです。

最初の句は、戦功のたびに瓢箪を加えるので、だんだん馬印が重くなると同時に、地位も重くなるという意味です。

「千成瓢箪」の由来は上記の通りですが、2番目の句の作者は穿った見方をして「千成桃」の方が理屈に合っているというのです。

秀吉は「猿」と言われたことを踏まえて、古来、猿は桃が好きだとされることと、秀吉が築いた伏見城が桃山城と言われたことを掛けています。

3番目の句の「とんぼ」は、「日本」のことです。蜻蛉(とんぼ)の古名を「秋津(あきつ)」と言いますので、「秋津島」(日本の古名)に通わせたものです。

句の意味は、ことわざで「瓢箪で鯰(なまず)を押さえる」(とらえどころがないことや、要領を得ないことのたとえ)と言いますが、秀吉は瓢箪で日本を押さえた豪傑だということです。

4番目の句は、千成の秀吉に寵愛された石田「三成」は、あえなく「関ヶ原の戦い」で敗れたことを皮肉ったものです。

4.石田三成(いしだみつなり)

石田三成

・ぬるい茶のようにはいかぬ関ヶ原

・馬の小便を佐吉は初手(しょて)に出し

・汲むたびに佐吉は指を入れてみる

・ぬるい茶のはてに煮え湯を諸侯呑み

石田三成(1560年~1600年)は、近江国の人。豊臣秀吉に近侍して次第に出世し、近江佐和山城主となりましたが、「関ヶ原の戦い」で敗れて処刑されました。

三成は、「関ヶ原の戦い」で敗北しました。最初の句は、三成の子供の頃のエピソードを踏まえて「ぬるい茶」の時はうまく行ったけれど、関ヶ原ではそうはいかなかったと言っています。

三成は子供の頃にお寺の小僧をしていましたが、そのお寺へ秀吉が鷹狩りの帰りに立ち寄りました。喉が渇いていたのでお茶を所望すると、三成はまず大きな茶碗に七、八分目までぬるいお茶を入れて持ってきました。次に、前より少し熱くして茶碗に半分ほど、三杯目には小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉はこの気配りが大いに気に入って、三成を近侍に取り立てたという話です。

いかにも三成らしい才知に富んだ話ですが、川柳作家は素直には誉めません。2番目の句の「佐吉」は三成の幼名で、「馬の小便」は生ぬるいお茶をあざけっていう言葉です。

3番目の句は、そんな見事な温度管理ができたのは、茶を汲むたびに指を入れてみたのだろうと意地悪な見方をしています。

この「ぬるい茶」で三成が秀吉に寵愛されたことが、やがて関ヶ原で三成に加勢した西軍の諸侯が煮え湯を飲まされる結果につながったと皮肉っているのが4番目の句です。

5.曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)

曽呂利新左衛門

・新左衛門袋をはるに五六日

・曽呂利が女房紙帳(しちょう)でもはるのかえ

・曽呂利の子凧(たこ)だ凧だと嬉しがり

・猿にふくろをかぶせたは新左衛門

曽呂利新左衛門(生没年不詳)は、本業が泉州堺の鞘師(さやし)で、豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)。和歌・狂歌・茶の湯に通じ、頓知に富んでいました。鞘に刀が「そろり」と合ったのでこの異名があります。本姓は杉本または坂内。

新左衛門は「落語家の始祖」とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残しました。今回はその一つである「紙袋で米蔵を覆う話」を詠んだ川柳をご紹介します。

ある時、秀吉から「何でも望みの物をやろう」と言われた新左衛門、「紙袋二つほどの米が欲しい」と答えたそうです。秀吉は「そんな欲のないことでいいのか」と高をくくっていたのですが、新左衛門は巨大な紙袋を作って、米蔵二つを覆ってしまい、秀吉の度肝を抜いたというお話です。

新左衛門は作るのに5~6日もかかるほどの大きな紙袋を用意した(最初の句)というのです。

そんな大作業を見ている家族はわけがわからず、女房は「大きな紙の蚊帳でも作るのですか?」と聞く(2番目の句)始末です。「紙帳」とは、紙で作った蚊帳のことです。

子供は子供で、「お父さんが巨大な凧を作ってくれる」と喜んだりしています(3番目の句)。

紙袋と言えば、普通は小さい物を連想するという盲点を突いたこの計略。「猫に紙袋(かんぶくろ)」ならぬ「猿に紙袋」をかぶせた痛快事(4番目の句)でした。

6.加藤清正(かとうきよまさ)

加藤清正加藤清正・槍

・朝鮮を蛇の目の傘でおっぺしょり

・朝鮮で押しの利いたは蛇の目鮨(じゃのめずし)

・すさまじさお髭が七本目が一つ

・妙法の髭で異国の地利を取り

・饅頭に案の外(ほか)なるはかりごと

加藤清正(1562年~1611年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。熊本などでは現代でも、清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)と呼ばれて親しまれています(清正公信仰)。これは、ひとえに新田開発や治水工事で実績を上げたことによるところが大きいようです。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人。

加藤清正は、秀吉に仕えて戦功をあげた人ですが、秀吉が朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」では、先陣として活躍しました。

最初の句の「蛇の目の傘」は清正の家紋「蛇の目」(下の画像)を利かせたものです。「おっぺしょり」は「押っ圧折り」です。

加藤清正の家紋・蛇の目紋

2番目の句の「蛇の目鮨」は、江戸にあった鮨屋です。押しのよく利いた押し鮨と、清正が朝鮮で押しが利いた(他人を従わせる威力があった)ことを掛けています。

3番目の句の「目が一つ」は加藤清正の家紋「蛇の目」のことですが、「髭七本」は「南無妙法蓮華経」の「髭題目」(筆端を髭のように伸ばして書いたもの)(下の画像)のことです。清正は髭題目の旗を押し立てて進攻した(4番目の句)そうです。

南無妙法蓮華経の髭題目

ところで、全くの俗説ですが、清正が二条城で徳川家康と会見した時、出された毒饅頭を食べて死んだという話が伝えられています。

饅頭に予想外の謀(はかりごと)が仕組まれていたというのですが、饅頭の「餡(あん)」を利かせた(5番目の句)ところがミソです。

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