江戸川柳でたどる偉人伝(江戸時代①)徳川家康・左甚五郎・八百屋お七・松尾芭蕉・紀伊国屋文左衛門

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徳川家康

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第11回は「江戸時代①」です。

1.徳川家康(とくがわいえやす)

徳川家康・三方ヶ原戦役画像

・盗まれたろうで七十五年経(た)ち

・その当座迷子の迷子の寅神(とらがみ)やあい

・七十五年凡人の御姿(おんすがた)

・寅二躰(とらにたい)世に争いは止(や)みし頃

徳川家康(1543年~1616年)は、戦国時代から江戸時代初期の武将、戦国大名。江戸幕府初代征夷大将軍。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖。岡崎城主松平広忠の嫡男で、旧称は松平元康(まつだいら もとやす)。豊臣秀吉の死後に引き起こした「関ヶ原の戦い」に勝利し、豊臣勢力を圧迫しつつ1615年には「大坂夏の陣」により豊臣氏を滅ぼし、265年間続く江戸幕府を開きました。「三英傑」(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の一人です。

「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」とか「神君家康公」などと神格化された家康ですが、今回は出生に関する伝説を詠んだ句をご紹介します。

家康は、母・於大(おだい)が三河国鳳来寺に祈願して授かった子で、寅年・寅の日・寅の刻に生まれました。ところがその時から、寺に祀ってあった十二神将のうち、寅の方角・寅の刻を守護する真達羅(しんだら)大将(寅童子)が行方不明になり、七十五年後に家康が死去した時に、突然戻ってきました。これを見るに、家康は寅童子の化身であろうというのです。

最初の句は、この伝説を踏まえて、家康の生涯七十五年の間、寺ではまさか化身とは思わず、寅童子は盗まれたのだろうと思っていたということです。

当時お寺では、さんざん捜したのですが見つかりませんでした(2番目の句)。

神様の姿ではなく、普通の人間の姿でおられたのですから当然です(3番目の句)。

寅童子の像が無くなったので新しく補充しておいたら、突然戻ってきたので二体になりましたが、その頃には家康のおかげで争いのない世の中になっていました(4番目の句)。

2.左甚五郎(ひだりじんごろう)

左甚五郎左甚五郎・閼伽井屋の龍左甚五郎・眠り猫

・濡れてるが証拠と竜に人だかり

・夜半の水竜も左が利いて呑み

・傘が見えましょうなと案内者

・軒の傘恥にはならぬ物忘れ

・いい所(とこ)へ忘れて傘の名が高し

左甚五郎(生没年不詳)は、、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にあります。

日光東照宮の「眠り猫」(上の画像)をはじめ、甚五郎作と言われる彫り物は全国各地に100か所近くあります。しかし、その製作年間は安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまなので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようです。

左甚五郎は、講談落語でおなじみの名工ですが、最初の句はその名人伝説の一つを踏まえたものです。

甚五郎が彫った上野寛永寺鐘楼の竜が、夜な夜な不忍池(しのばずのいけ)へ水を飲みに行くという話です。竜が濡れているのが水を飲みに行った証拠だと見物人が群がっているというのです。

2番目の句の「左が利く」「左利き」は、「酒飲み」のことです。酒飲みは夜中に水を飲みに起きますが、甚五郎が彫った竜もやっぱり夜中に水を飲みに行くというわけです。

この鐘楼は、幕末の上野戦争で焼けてしまいましたが、もう一つの川柳の題材になっている京都・知恩院(ちおんいん)の「忘れ傘」(3番目の句)は今も健在です。

甚五郎が魔除けに置いたという話は、江戸時代から有名だったようです。

普通、傘の忘れ物をするのは恥ずかしいことですが、この「忘れ傘」だけは恥になりません(4番目の句)。むしろ、いい所へ忘れて評判が高いのです(5番目の句)。

3.八百屋お七(やおやおしち)

八百屋お七八百屋お七・浮世絵

・十六とすてっぺんから申し上げ

・祖師堂(そしどう)をまずお七が出吉三(きちさ)が出

・卵塔(らんとう)は藪蚊(やぶか)が食うとお七言う

・生壁(なまかべ)はきつい毒だとお七言い

・火の付いたようにお七は逢いたがり

・蛇(じゃ)を担ぎながらお七が墓を見る

八百屋お七(1668年?~1683年)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女です。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっています。

大火で焼け出されたお七が、避難先のお寺の小姓と恋仲になり、新築の家に戻った後、また火事があれば会えると思い詰めて放火したという話です。

お七が小姓の吉三郎とデートするのはお寺の中です。

祖師堂(開祖を祀ったお堂)の中(2番目の句)は快適ですが、卵塔(住職の墓)の陰の逢引きは藪蚊に食われます(3番目の句)。

自宅が新築されても、お寺に居続けたいお七は、「塗りたてでまだ乾いていない生壁は、身体に毒だから」とかなんとか理屈を言います(4番目の句)。

お寺から自宅へ帰ったお七は、まるで火の付いたように会いたがった(5番目の句)末に、本当に火を付けて捕らえられ、鈴ヶ森の刑場で火炙り(ひあぶり)になります。

当時のお定めでは、十五歳未満なら未成年者で死刑を免れることができたのですが、お七は最初から十六歳と申し上げてしまったのです(最初の句)。

6番目の句の「蛇」とは、駒込富士浅間社の縁起物である麦藁細工の蛇のことです。川柳では、お七が逗留したのもお墓があるのも駒込吉祥寺となっていて、この句は富士浅間社にお参りした人が、近くの吉祥寺にあるお七の墓へ回るというのです。

4.松尾芭蕉(まつおばしょう)

松尾芭蕉・おくの細道

・膝や手をはたいて翁(おきな)一句詠み

・鼻緒の切れた所から翁帰り

・転ばずは翁の雪見果てがなし

・いざさらば居酒屋のあるところまで

・芭蕉翁(ばしょうおう)ぽちゃんというと立ち止まり

・煮売り屋の柱は馬に喰(く)われけり

松尾芭蕉(1644年~1694年)は、江戸時代前期の俳諧師で、伊賀国上野の人。名は宗房。芭蕉は俳号。別号、桃青・風羅坊など。藤堂良忠(俳号、蝉吟)に仕えて俳諧を学び、京都で北村季吟に師事。のち、江戸に下り、深川の芭蕉庵に住み、談林風の俳諧を脱却して、蕉風を確立。各地を旅して発句や紀行文を残し、旅先の大坂で病没しました。

芭蕉が詠んだ「いざさらば雪見に転ぶところまで」という俳句を踏まえたのが最初の句~5番目の句です。

「翁」は芭蕉のことで、歩きにくい雪道を、転ぶまで頑張って歩いて、転んだところで膝や手に付いた雪をはたいて一句詠んだのだろうというのが、最初の句です。

転びそうになって「おっとどっこい」などと言いながら、二、三(一丁は約109m)頑張って歩くというのが2番目の句のです。

転んだのは、下駄の鼻緒が切れたからだろうというのが3番目の句のです。

転ぶところまでと言っているからには、転ばなければ果てしなく行くことになるはずというのが4番目の句のです。

芭蕉は転ぶところまでと言っているが、俺たちだったら居酒屋があるところまでだというのが5番目の句のです。

6番目の句は、「古池や蛙飛び込む水の音」を踏まえたものです。

7番目の句は、「道のべの木槿(むくげ)は馬に喰はれけり」を踏まえたものです。

5.紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)

紀伊国屋文左衛門紀文・紀伊国屋文左衛門

・大騒ぎ五町(ごちょう)に客が一人なり

・価千金(あたいせんきん)相客(あいきゃく)はならぬなり

・文左衛門傾城(けいせい)にちともたれ気味

・材木はもうかるものと遣(や)り手言い

・材木屋めがと無駄足客は言い

・紀伊国屋蜜柑(みかん)のように金を撒(ま)き

紀伊国屋文左衛門(1669年?~1734年)は、江戸時代中期の豪商。通称紀文、俳号千山(せんざん)。若年のとき暴風雨をついて故郷紀州(和歌山県)から蜜柑船を江戸へ回漕(かいそう)し巨利を得たことや、遊里吉原での豪遊の話などで知られています。

貞享(じょうきょう)年間(1684年~88年)に江戸に進出、八丁堀で材木商を営み、1698年(元禄11年)の上野寛永寺根本中堂(こんぽんちゅうどう)の造営に際して用材調達を一手に請け負い財をなしたと言われています。

老中柳沢吉保(やなぎさわよしやす)・阿部正武、勘定奉行(ぶぎょう)荻原重秀(おぎわらしげひで)らに接近、御用商人として、奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)、淀屋辰五郎(よどやたつごろう)などとともに全盛を極めました。しかし、政権担当者が柳沢吉保から新井白石に代わり、デフレ政策が展開され始めると家運は衰退し、宝永(ほうえい)(1704年~11年)末から正徳(しょうとく)(1711年~16年)の頃には材木商を廃業、江戸深川一の鳥居付近に隠棲(いんせい)しました。

俳諧(はいかい)や絵もたしなみ、宝井其角(たからいきかく)、英一蝶(はなぶさいっちょう)らと交友がありました。

最初の句の「五町」とは、遊里吉原のことで、吉原中に客が一人しかいないので大騒ぎになったというのです。もちろんその一人の客とは「紀文大尽(きぶんだいじん)」と呼ばれた紀伊国屋文左衛門です。

紀文は、蜜柑船で大儲けした話がよく知られていますが、江戸に出てからは材木商として巨万の富を得たと言われ、その豪遊ぶりが川柳の格好の題材となっています。

吉原は一日に千両の金が動いたと言われます。千両払って、他の客を締め出す(2番目の句)のです。「春宵一刻値千金」をもじった句です。

吉原中の遊女を相手にしたら、さすがに腹にもたれ気味だろうというのが3番目の句です。

吉原のマネージャーともいうべき「遣り手婆(やりてばば)」も「材木商売は儲かるものなんだねえ」と感心したというのが4番目の句です。

何も知らずにやってきた客は、無駄足となって「材木屋めが」と怒っただろうというのが5番目の句です。

紀文が節分に、豆と一緒に小粒(一分金)を撒いたことを詠んだのが6番目の句です。

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