いよいよ1月8日(日)からNHK大河ドラマ「どうする家康」が始まりますね。
ところで、歴史好き(というよりも「歴史の謎好き」)の私は、このドラマでどのように描かれるか注目している「歴史の謎」がいくつかありますので、ご紹介したいと思います。
なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
1.「桶狭間の戦い」(1560年)の奇襲勝利の真相とは
2万5千人とも言われる大軍を率いて尾張国東部に侵攻した当時強大な勢力を誇り東海道に君臨した駿河国の戦国大名の今川義元が、なぜ少数の軍勢を率いた織田信長の今川本陣への「奇襲」「強襲」によって、易々と討ち取られたのかは、疑問が残るところです。
私は小説家・加藤廣が「空白の桶狭間」で示した「木下藤吉郎による綿密かつ周到な今川義元暗殺計画」という推理が、一番説得力があるように思います。
つまり「木下藤吉郎(「山の民」出身)による、大勢の山の民を動員した陽動作戦と、今川義元側と織田方との降伏会見場での非常に訓練された猟犬による用意周到な今川義元暗殺計画」です。
これについては「桶狭間の戦い勝利の立役者は木下藤吉郎だった?綿密な今川義元暗殺計画!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
2.家康が「松平姓」から「徳川姓」に変更(1566年)した理由とは
まだ25歳の家康が、なぜ「松平姓」から「徳川姓」に突然変更したのかは、疑問が残るところです。
これについては「家康が松平姓から徳川姓に変えた理由は?源氏の正嫡を名乗ったのは詐称!?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
3.「築山殿事件」(1579年)の真相とは
家康はなぜ正妻の築山殿と息子の信康を殺さなければならなかったのかという問題です。
これについては「築山殿事件とは?家康はなぜ正室と嫡男を死なせなければならなかったのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
4.「本能寺の変」(1582年)に家康は関与(教唆など)したのか
明智光秀が「本能寺の変」を起こした原因については、「信長の独裁的な行動や自分に対する処遇への恨みや不満」などいろいろな説がありますが、家康の関与(教唆)もあった可能性があります。
これについては「麒麟がくる(来年の大河ドラマ)の主人公は明智光秀!謎の人物像に迫ります」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
5.「本能寺の変」で発見されなかった織田信長の遺体の行方
「織田信長の遺体が発見されていないのはなぜか」というのも大きな謎です。
「織田信長の最期がどのように描かれるのか?」は私の大きな関心事の一つです。従来通りの「幸若舞の敦盛を舞いながら炎の中で自害する」、あるいは「炎の中を去っていく」形になるのか、新説の描き方をするのか注目したいところです。
これについては「織田信長の遺体はどこへ消えたのか?本能寺の変のもう一つのミステリーに迫る!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
6.豊臣秀吉の「中国大返し」(1582年)が可能になった真相とは
豊臣秀吉はさまざまな「諜報活動」や軍師・黒田官兵衛の指南によって、明智光秀の動向を事前に探っており、「本能寺の変」をいち早く察知し、「中国大返し」を周到に準備していた可能性があります。
これについては「黒田官兵衛とは?豊臣秀吉をも恐れさせた天才軍師!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
7.「春日局」が家康に直談判できたり、大奥で権勢を振るえるようになった理由とは
一介の乳母であった春日局がなぜ家康に直訴できたり、その後「大奥」で絶大な権力を振るえるようになった理由については諸説ありますが、私は「春日局は家康の愛妾の一人で、家光は家康と春日局との間に生まれた子であった」からではないかと思います。
つまり、お江与の方VS.春日局のバトルは、一面では家康(父)と、父親の子を押し付けられた秀忠(子)との争いであり、家康の子(家光)と秀忠の子(忠長)との将軍後継者争いだったのではないかと私は思います。
これについては「大奥を揺るがせた女たちの五大事件(その1)お江与の方VS.春日局」「斎藤利三の娘・春日局の人物と生涯とは?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
なお、「大奥」については「大奥とは?大奥のおきて・しきたりや歴史もわかりやすくご紹介します」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
8.「毒饅頭による豊臣秀頼暗殺計画」(1611年)の真相とは
慶長16年(1611年)3月、徳川家康と豊臣秀吉の後を継いだ豊臣秀頼の二条城での会見が行われました。
豊臣秀頼の母である淀殿(茶々)の反対により、なかなか家康と秀頼の会見が実現しませんでしたが、豊臣恩顧の加藤清正や浅野幸長に守られて秀頼が上洛し会見したと言われています。
しかし、加藤清正は、二条城の会見の帰国途中の船内で発病し、約3カ月後に50歳で病没しています。加藤清正の死因は定かではありませんが、徳川方による毒殺説があります。二条城の会見で料理に毒が入っていたとも、毒饅頭による暗殺とも言われます。
それを受けて、まことしやかな「毒饅頭暗殺説」が巷間ささやかれ、後に歌舞伎の題材にもなりました。
それによると、家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を、自ら毒見した上で秀頼に勧めましたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい秀頼を守ったということです。
平岩親吉も会見から9ヶ月後に死去しています。平岩親吉が饅頭に毒を盛った際、毒見をしたという逸話があり、実際に親吉が亡くなったのが会見から9ヶ月後であることから、憶測を呼んでいます。
また、この会見から2年ほどの間に浅野幸長・池田輝政など、会見に参加した豊臣氏恩顧の大名が死亡していますが、これらについても毒殺であるという憶測がたてられることがあります。
私は、平岩親吉が「家康への最後のご奉公」として、徳川幕府を磐石なものにするために「豊臣秀頼と豊臣氏恩顧の大名の暗殺計画」を実行したのではないかと思います。