今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。
私は明治の文豪・夏目漱石の大ファンなので、夏目漱石の先祖とも言われる夏目広次がどういう人物だったのか大変興味があります。
そこで今回は、夏目広次についてわかりやすくご紹介したいと思います。なお、冒頭の画像は「どうする家康」で夏目広次を演じる甲本雅裕さんです。
なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
1.夏目広次とは
徳川家康に仕えた夏目広次(なつめひろつぐ)/夏目吉信(なつめよしのぶ)(1518年~1573年)(通称:次郎左衛門。)は、三河一向一揆において家康と敵対しましたが、後に帰参しています。
その後に起きた「三方ヶ原の戦い」で、夏目広次(吉信)は、徳川家康の身代わりとなって討死したこともあり、広次は忠義の家臣として讃えられています。
「三方ヶ原の戦い」で家康は武田信玄に完膚なきまで攻められ、死を覚悟したほどと言われています。
それでも家康は家臣たちが命を懸けてまで逃がしてくれたおかげで、撤退することに成功しました。
しかし、多くの家臣を失ったので徳川軍は大打撃を受けていました。その家臣の中には家康を守るために自身が家康と名乗りでて囮になる人物もいました。それが夏目広次(吉信)です。
(1)夏目広次(吉信)の生い立ち
夏目氏は、清和源氏満快流の流れを汲む村上氏庶流の出自であると伝わります。
平安時代に遡りますが、夏目氏は清和源氏の初代である源経基の五男・源満快が祖先であると言われています。
その子孫である二柳国忠が源頼朝に仕えて、信濃国伊那郡の夏目村の地頭職を与えられ、その次男である国平が分家し夏目氏を名乗ったそうです。
初代夏目家当主・夏目国平は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士です。
その後、三河国を拠点とした夏目氏は、松平氏(徳川氏)に仕える譜代衆となったそうです。
永正15年(1518年)、夏目広次(吉信)は、三河国の幡豆郡豊坂村にて生を受けます。
夏目広次(吉信)の父は夏目吉久で、母は水野氏だと言われています。
水野氏と言えば徳川家康の母・於大の方(伝通院)が水野氏の娘ですが、夏目広次(吉信)の生母と同族かどうか分かりません。
夏目広次(吉信)の幼名は分かりませんが、通称は次郎左衛門です。
(2)徳川家康に仕える
先に述べたように、夏目氏は徳川氏に仕える譜代衆とのことですが、夏目広次(吉信)自身も徳川家康に仕えています。
永禄3年(1560年)、徳川家康(当時は松平元康)は、駿河国の今川義元に属していましたが、「桶狭間の戦い」で義元が敗死したことにより、今川氏からの独立を果たそうとしています。
夏目広次(吉信)は、永禄4年(1561年)に起きた三河の長沢城攻めで功績があったそうです。
翌年、徳川家康は、今川方の板倉重定がいる三河の八幡村城を攻めますが、徳川方は総崩れになります。
この時、夏目広次(吉信)は大役である殿(しんがり)を務めており、何度も踏み止まり奮戦したと言われています。
帰還後、徳川家康から称えられた夏目広次(吉信)は、備前長光作の脇差を賜っています。
(3)三河一向一揆
永禄6年(1563年)、徳川家康(当時は松平家康)の領土である西三河全域において、本願寺門徒らが決起し、三河一向一揆が起きます。
徳川家康の家臣は一向宗(浄土真宗)の門徒が多く、家康に背いて門徒方に与する家臣も多かったそうです。
この一揆では敵から「犬のように忠実」と言われていた三河武士たちの半数が家康に武器を向けることになりました。
この一揆によって苦い経験をした家康は「宗教の恐ろしさ」を思い知ることとなりました。当時の一向宗(浄土真宗)の門徒は、現代におけるマインドコントロールされた「旧統一教会」の信者のようなものだったのでしょう。
夏目広次(吉信)は門徒方についていますが、他にも本多正信や蜂屋貞次なども一揆方として参戦しています。
夏目広次(吉信)は、野羽城(又は六栗城)に籠城し大津半右衛門らと共に、徳川家康方と戦っています。
しかし、夏目広次(吉信)らと共に戦っていた乙部八兵衛の裏切りにより砦が落ち、広次は家康方の松平伊忠に生け捕りにされます。
乙部八兵衛の助命嘆願により許された夏目広次(吉信)は、松平伊忠の附属となっています。
その後、夏目広次(吉信)を「忠義の士」であると評価した松平伊忠の嘆願により、広次は正式に家康から帰参を許可されています。
その後は家康の家臣として過ごし、三河・遠江の郡代を務めています。
(4)三方ヶ原の戦い
それから10年経った元亀3年(1573年)に武田信玄が上洛すべく西進してきます。
これに対抗するべく家康は家臣の反対を押し切って武田軍と三方ヶ原で衝突しました。
武田軍は徳川領である遠江国・三河国へ侵攻し、徳川方の要衝である二俣城は陥落します。
織田信長から送られてきた僅かな援軍と合流した徳川家康は、武田信玄率いる武田軍本隊を迎え撃つため浜松城での籠城戦に備えていました。
しかし、武田軍は浜松城を素通りし、三方ヶ原台地に向かうように見えます。
徳川家康は武田軍の背後を突くために出陣しますが、武田軍は反転し徳川軍を待ち伏せしており、「三方ヶ原の戦い」が開戦します。
夏目広次(吉信)は、浜松城で留守を守っていましたが、櫓から戦場を見渡したところ、徳川軍が負けそうになっていることを知り、徳川家康の元に向かいます。
夏目広次(吉信)は、徳川家康に退却を進言しますが、命を投げ出すかのような突撃を行おうとするため、家康の説得を諦めます。
夏目広次(吉信)は、無理矢理、家康の馬の向きを変えて走らせると、僅か25騎を率いて武田軍に突撃しています。
元亀3年(1573年)、「三方ヶ原の戦い」において、徳川家康の身代わりとなった夏目広次(吉信)は、奮戦した後に享年55の生涯を閉じています。
(5)夏目広次(吉信)の墓
夏目広次(吉信)の墓は、明善寺(愛知県額田郡幸田町)と法蔵寺 (愛知県岡崎市本宿町)にあります。
法蔵寺は松平家の菩提寺で、松平広忠(徳川家康の父)の墓もあります。
法蔵寺にある夏目広次(吉信)の墓は、広次の忠節を讃えた家康の命で建立されており、広次は「信誉徹忠」の号を与えられたそうです。
2.夏目広次(吉信)は夏目漱石の先祖
夏目広次(吉信)の息子である吉治と吉季は、徳川家康の小姓を務めていましたが、共に父より先に没しています。
口喧嘩になった同僚を斬ってしまった夏目吉次(広次の五男)は、出奔しますが、名を変えて徳川氏に仕えています。
後に、夏目吉次の素性を徳川家康に知られてしまいますが、夏目広次(吉信)の忠義が考慮されて許されています。
「大坂の陣」の後に、夏目吉次は徳川家康から広次(吉信)に対する感謝の言葉を伝えられ、吉次は徳川秀忠の家臣になっています。
時代は下って、近代日本の文豪・夏目漱石(1867年~1916年)は、夏目吉次の次男(吉尚)の子である夏目吉之(夏目広次の曾孫)を祖とする夏目氏の子孫だと言われています。
夏目吉之(夏目広次の曾孫)から夏目漱石まで、どのように繋がるかは分かりません。
夏目氏は江戸時代に名主身分の町人にまで身を落としており、正確に知るのは難しいようです。
漱石は『坊っちゃん』の中で、次のように書いています。
この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。
これは「バッタ事件・吶喊(とっかん)事件」の夜、坊っちゃんが生徒を呼び出して問い詰めるものの、のらりくらりとかわされた時に言った強がり・負け惜しみの場面ですが、漱石自身の先祖のことを匂わせています。
言わずもがなかと思いますが、夏目漱石は、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などで知られる明治から大正にかけて活躍した文豪です。
夏目漱石の孫・夏目房之介氏(1950年~ )は、「漫画コラムニスト」で、漫画家デビューもしています。
音楽プロデューサーなどで活躍している夏目哲郎氏(1979年~ )は、夏目漱石のひ孫です。
他にも、夏目漱石の子孫は、エッセイストや音楽家など有名な人が多くいます。
余談ですが、夏目漱石に関しては、このブログで次のような記事も書いていますので、ぜひご覧ください。
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