大河ドラマ「どうする家康」に登場する平岩親吉とは?信頼に応えた忠実な三河武士。

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平岩親吉

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、お笑い芸人の岡部 大さん(お笑いトリオ「ハナコ」のメンバー)(冒頭の画像)が演じることになった平岩親吉がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、平岩親吉についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.平岩親吉とは

平岩親吉

平岩親吉(ひらいわ ちかよし)(1542年~1611年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、徳川氏の家臣。上野国厩橋藩(前橋藩)、尾張国犬山藩主。官位は従五位下・主計頭(かずえのかみ)。『三河後風土記』の著者といわれますが、著者不詳ともされはっきりしません。

「徳川十六神将」の一人である平岩親吉は、徳川家康(1543年~1616年)と同い年で親友のような存在だったと言われています。

徳川家康にとって大切な松平信康や徳川義直の傅役を任されていたことからも、平岩親吉に対する家康の信頼の厚さがうかがい知れます。

また、徳川家康と豊臣秀頼の二条城の会見では、毒饅頭による暗殺役を担ったとの逸話も残されています。

2.平岩親吉の生涯

(1)生い立ち

平岩親吉の出自である平岩氏は、物部氏と関係が深い弓削氏(ゆげうじ)の子孫であると伝わります。

三河国碧海郡の上野城に住み上野姓を使用していましたが、平岩氏貞が三河国額田郡坂崎郷に移住し、平らな巨石近くに館があったことにちなんで、平岩姓を名乗ったと言われています。

平岩親吉は、天文11年(1542年)、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村で生まれています。

平岩親重は、松平信忠(家康の曾祖父)や松平清康(家康祖父)に仕えたとも伝わりますが、真偽は分かりません。

母は天野貞親の娘であり、平岩親吉の幼名は不明で、通称は七之助です。

また、平岩親吉の妻は石河正信の娘であると言われており、石川家成(徳川十六神将の一人)の一族の可能性を指摘する書籍がありますが、本当のところは不明です。

(2)徳川家康に小姓として仕える

平岩親吉と徳川家康は、同じ年であり、仲が良く親友のようであったと言われています。

天文16年(1547年)、数え年で6歳の平岩親吉は、人質として駿府へ送られる徳川家康(当時は竹千代)に随従し、織田氏や今川氏の人質時代を共に過ごしています。

永禄元年(1558年)、17歳になった平岩親吉は、今川氏から離反した鈴木重辰が守備する寺部城攻めで初陣を飾ります。

永禄3年(1560年)、「桶狭間の戦い」で家康が従属していた今川義元が討たれると、今川氏真が家督を継承しましたが、その後、徳川家康は今川氏からの独立を明確にし、織田信長と同盟を結んでいます。

(3)「三河一向一揆」で命拾いする

永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)にかけて「三河一向一揆」が起きます。

家康の三河家臣団は、敵から「犬のように忠実」と揶揄される程の忠臣であると言われますが、宗教となると別のようで、約半数が門徒方について家康と敵対しています。

平岩親吉は家康方として参陣し、一揆方の上和城を攻めています。そして、一揆方の筧正重が放った矢が平岩親吉の耳に当たり、首を取られそうになります。

平岩親吉は討死寸前に追い込まれますが、遠くで見ていた徳川家康(当時は松平家康)が馬を進めて、筧正重を叱責したため正重は退いたと言われています。

一揆方についたといっても、筧正重は松平広忠(徳川家康の父)の家臣だった人物ですので、家康の叱責に怯んだものと思われます。

(4)水野信元の命を奪う

天正3年12月(1576年1月)、織田家家老・佐久間信盛の讒言により、水野信元(徳川家康の母方の伯父)が武田方と内通していると織田信長に疑われます。

怒った織田信長は、甥の家康に水野信元の命を奪うよう命じます。徳川家康の命令を受けた平岩親吉は、石川数正に誘い出された水野信元父子を三河大樹寺において誅殺しています。

平岩親吉は水野信元の亡骸を抱き上げ「信元殿に私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙を流したそうです。

(5)松平信康の傅役となる

永禄10年(1567年)、徳川家康は本拠を岡崎城から浜松城に移し、岡崎城は嫡男だった松平信康(当時は徳川信康)に譲っています。

松平信康が元服すると、平岩親吉は信康の傅役に選ばれています。

ところが、天正7年(1579年)、織田信長は徳川家康に松平信康を自害させるよう命じます。

一説によると、信康の生母・築山殿(瀬名姫)が武田勝頼と内通した嫌疑が理由の一つとも言われます。

責任を感じた平岩親重は、自分の首を信長に送り、怒りを抑えて欲しいと願い出ましたが、松平信康は切腹させられます。

しかし、織田信長に命令されたとの説は疑問視されており、徳川家康と松平信康の不仲説など家康の意志で自害されられたとの見方もあり、史実は不明です。

いずれにせよ、松平信康の助命は叶わず、平岩親吉は蟄居しています。

(6)甲府城を築城し、甲斐の郡代となる

その後、徳川家康から出仕を求められた平岩親吉は、信康の与力の内14人を付けられ、直臣として復帰しています。

武田勝頼方の城となった高天神城攻めに平岩親吉も参戦したそうです(第二次高天神城の戦い)。

天正10年(1582年)3月、織田軍の侵攻を受け武田勝頼は自害し、武家としての武田氏は滅亡します。

同年6月、明智光秀が謀反を起こし、織田信長を襲撃して自害に追い込んでいます(本能寺の変)。

武田氏の旧領で織田氏の遺領を巡り、徳川家康は上杉景勝や北条氏政らと争います。

同年、北条氏と同盟を結んだ徳川家康は、武田氏旧領のうち甲斐と駿河を領有することになります。

徳川家康の命令を受けた平岩親吉は、翌年、一条小山に甲府城を築城し、甲斐の郡代となっています。

徳川家康は武田信玄に大いに苦しめられていますが、崇拝のような思いもあり、武田氏の拠点であった甲斐に特別な思いがあったようで、甲斐を任せられた平岩親吉はそれ程信頼されていたと言えそうです。

天正12年(1584年)、織田信雄(信長の次男)と同盟関係を結んだ徳川家康は、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)と戦になります(小牧・長久手の戦い)。

平岩親吉は、「小牧・長久手の戦い」で甲斐国を守衛し、武田氏の旧臣である今福氏が陰謀を企てたため、亡き者にしたと言われています。

(7)第一次上田合戦で敗北

天正13年(1585年)、徳川家康は、武田氏旧臣の真田昌幸を徳川傘下としていましたが、沼田領を巡って対立します。

沼田領の引き渡し要求を拒否した真田昌幸は、徳川家康と決別を決めて、家康と敵対する越後の上杉景勝と通じます。

造反した真田昌幸を征伐するため、平岩親吉は鳥居元忠や大久保忠世らと共に、約7,000の徳川軍で真田氏の拠点・上田城攻めをしています。

兵数で優位な平岩親吉ら徳川軍ですが、真田勢の頑強な抵抗にあい攻略できず上田から敗退しています。

その後、小諸城に留まった徳川軍と真田勢の小競り合いはありましたが、徳川の重臣・石川数正が突然出奔し羽柴秀吉の家臣となったことで、完全に真田攻めから撤退しています。

酒井忠次と並ぶ重臣であった石川数正の出奔は、徳川家康にとって打撃であり、秀吉に徳川氏の軍事的機密が漏洩すると思われたため、軍制を武田流に改めるなど家康らは対応に追われています。

徳川家康に命じられた平岩親吉は、武田氏の軍事などの書籍を探して提出したそうですので、親吉も重要な役目を果たしたと思われます。

(8)岩槻城(白鶴城)攻め

内外共に多難の中、天正14年(1586年)を迎えた徳川家康に対し、羽柴秀吉は懐柔することで臣従化を図ります。

やがて、秀吉の妹・朝日姫、秀吉の母・大政所を事実上の人質として岡崎に送られた家康は、ついに上洛して秀吉に屈することになります。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命令により徳川家康は、相模国の北条氏征伐に従軍しています(小田原征伐)。

平岩親吉も小田原征伐に参じており、徳川軍の「一ノ先備 七手」として酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・鳥居元忠・大久保忠世・井伊直政と共に名前があります。

北条氏方の城・岩槻城(白鶴城)攻めに平岩親吉も参じており、数日間の激戦の末、降伏落城させています。

平岩親吉の軍は、首級47を得たことで、家康から感状を与えられています。

その後、北条氏の本拠・小田原城も降伏、唯一未落城だった忍城が開城して相模国の北条氏は滅亡します。

(9)上野国厩橋城を拝領

豊臣秀吉は小田原征伐の論功行賞を行い、徳川家康には北条氏旧領を基本として240万石、家康の次男・結城秀康10万石の合計で関東250万石を与えています。

徳川家康の関東転封後、平岩親吉は上野国厩橋城を与えられ3万3,000石を賜っています。

小田原征伐で戦功を挙げたという平岩親吉は、徳川家臣団の中で6番目に多い石高を拝領しています。

(10)「関ヶ原の戦い」では厩橋城を守備

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死後、豊臣政権・五大老筆頭の徳川家康は、石田三成ら五奉行との不和が表面化します。

翌年、会津の上杉景勝に不穏な噂が流れると、徳川家康は景勝に謀反の疑いをかけて会津征伐に踏み切ります。

前田玄以や長束正家らの反対を押し切った家康は、豊臣系大名を従え会津に向けて伏見城を出立しています。

平岩親吉は、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信らと共に、会津攻めに従い、この会津征伐により「関ヶ原の戦い」の幕が上がります。

徳川家康が会津へ出馬した隙をつくかのように、石田三成・大谷吉継が挙兵します。

石田三成らに三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)が加わり、安国寺恵瓊らの勧誘により、五大老・毛利輝元が西軍(反家康)の盟主となっています。

この知らせを聞いた家康の判断により、会津征伐は中止となり、家康の次男・結城秀康を宇都宮城に入れて上杉軍の備えとしています。

平岩親吉も上杉軍の抑えとして、厩橋城を守備したそうです。

その後、関ヶ原にて両軍主力の戦闘がありましたが、一日足らずで家康方(東軍)が勝利しています。

(11)徳川義直の傅役となる

「関ヶ原の戦い」の翌年、再び甲斐に戻った平岩親吉は、甲府に加増転封となり6万3,000石を拝領して甲府城に入ります。

慶長8年(1603年)、徳川義直(当時は五郎太丸)が数え年3歳で甲斐25万石を与えられると、甲府城に在城する平岩親吉は義直の傅役となり、家康の意向を受けて藩政を代行しています。

平岩親吉は尾張藩の初代藩主となる徳川義直の傅役の他、かつて家康の後継者であった松平信康も任されていました。

平岩親吉が正直で私心がなかったので、息子の後見にしたという逸話があります。

慶長12年(1607年)、徳川義直は兄の遺領を継いで尾張国清洲藩主に転じ(尾張徳川家の祖となる)、平岩親吉は義直の附家老として尾張へ移封になっています。

平岩親吉は、尾張・犬山城主として12万3,000石に加増され、平常時は清州城に在住したと言われます。

慶長15年(1610年)、徳川義直が名古屋城に移ると、平岩親吉は名古屋城二の丸御殿に住みます。

(12)死去

慶長16年(1611年)、平岩親吉は名古屋城二の丸御殿にて70年の生涯を閉じています。

平岩親吉の墓は、平和公園(名古屋市)の平田院墓域にあります。

3.平岩親吉の人物像・逸話

(1)秀吉公黄金贈与にまつわる逸話(出典:『名将言行録』)

伏見城築城の祝いの後、豊臣秀吉は井伊直政・本多忠勝・榊原康政・平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えました。

直政と忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げませんでした。康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言いました。

しかし親吉は黄金を受け取らず、「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」と、黄金を使者に返し渡したそうです。

このように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を信康や義直の後見として附け、八男・仙千代を養子にしたということです。

(2)弟・平岩平右衛門にまつわる逸話(出典:『名将言行録』)

平岩親吉の弟は名を平右衛門といいました。ある時、彼は榊原康政と口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められました。

この時の親吉は宿老で、康政は若く小身でした。喧嘩の一件を聞いた親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに禄を費やす者である」と言って、弟には武道を止めさせて押し込め、康政の方はしきりに執り成して昇進させました。

果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服したそうです。

(3)毒饅頭(どくまんじゅう)

慶長16年(1611年)3月、徳川家康と豊臣秀吉の後を継いだ豊臣秀頼の二条城での会見が行われました。

豊臣秀頼の母である淀殿(茶々)の反対により、なかなか家康と秀頼の会見が実現しませんでしたが、豊臣恩顧の加藤清正や浅野幸長に守られて秀頼が上洛し会見したと言われています。

しかし、加藤清正は、二条城の会見の帰国途中の船内で発病し、約3カ月後に50歳で病没しています。加藤清正の死因は定かではありませんが、徳川方による毒殺説があります。二条城の会見で料理に毒が入っていたとも、毒饅頭による暗殺とも言われます。

それを受けて、まことしやかな「毒饅頭暗殺説」が巷間ささやかれ、後に歌舞伎の題材にもなりました。

それによると、家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を、自ら毒見した上で秀頼に勧めましたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい秀頼を守ったということです。

平岩親吉も会見から9ヶ月後に死去しています。平岩親吉が饅頭に毒を盛った際、毒見をしたという逸話があり、実際に親吉が亡くなったのが会見から9ヶ月後であることから、憶測を呼んでいます。

また、この会見から2年ほどの間に浅野幸長・池田輝政など、会見に参加した豊臣氏恩顧の大名が死亡していますが、これらについても毒殺であるという憶測がたてられることがあります。

4.平岩親吉の子孫

平岩親吉の子供について、詳しいことは分かりません。また、おそらくですが、直系の子孫はいないと思われます。

平岩親吉には家督を継承する子が無いため、慶長4年(1599年)、徳川家康の配慮により、松平仙千代(徳川家康の八男)を平岩親吉の養嗣子としてましたが、翌年、亡くなっています。

徳川家康が自身の息子を家臣の養嗣子とした唯一の事例ですが、平岩親吉の養嗣子となったのは松平松千代(徳川家康の七男)であるとも言われます。

松平松千代だとしても慶長4年(1599年)に死去しており、平岩親吉は自身の所領を徳川義直に譲るよう遺言を残したそうです。

それでも、平岩親吉の家系が無嗣廃絶となることを惜しんだ徳川家康は、親吉の子との噂があった人物を見つけますが、その母親が親吉の子供ではないと継承を固辞したため断絶しています。

また、平岩親吉の甥である平岩吉範が跡を継いだとの説もありますが、詳しいことは分かりません。

平岩親吉の兄弟は複数人いるようで、『徳川家家臣団の系図』によると、弟3名(1名兄の可能性有)、妹4名がいます。

平岩正広(親吉の兄か弟)の子供は800石の旗本となっていますが、その他、親吉の弟や妹の子供は尾張藩士として取り立てられている人が多いようです。

通説通り平岩氏本家が断絶したのであれば、親吉の弟や妹の家系は平岩氏庶家になると思いますが、平岩氏庶家の尾張藩士は、弓削衆と呼ばれたと言われます。平岩氏の祖先である弓削氏が由来だと思われます。

平岩親吉の妹の一人は、渡辺守綱(「徳川十六神将」の一人)の妻になっており、守綱は尾張藩で1万4,000石を拝領し、寺部城に入っています。

その後、渡辺守綱の子孫(平岩親吉の妹の子孫)は、尾張藩家老となっています。

また、武蔵国野本藩主になった渡辺守綱の子孫(平岩親吉の妹の子孫)もいますが、途中で養子を迎えていて、どこまでが親吉の妹の子孫なのかはっきり分かりません。

他に、江戸後期に姫路藩の家老職を務めた平岩親吉の一族子孫もいて、現在でも系譜は続いているそうです。

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