大河ドラマ「どうする家康」に登場する酒井忠次とは?家康に一番近かった徳川四天王。

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酒井忠次

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、大森南朋さん(冒頭の画像)が演じることになった井伊直政がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、酒井忠次についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.酒井忠次とは

酒井忠次

酒井忠次(さかい ただつぐ)(1527年~1596年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。

「徳川四天王」徳川十六神将」ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられています。

2.酒井忠次の生涯

(1)生い立ちと幼少期

酒井忠次は、本多忠勝 (ほんだただかつ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、井伊直政(いいなおまさ)らと共に、家康の天下統一を支えた「徳川四天王」と呼ばれたうちの一人。家康とは15歳の年の差があったので、頼れる兄貴といった立場だったといえます。

ちなみに、忠勝、康政は21歳、直政は34歳下なので、忠次にとっては、他の3人は息子のような存在だったのかもしれません。

忠次は、1527(大永7)年、三河国額田郡(現在の愛知県岡崎市)の井田城にて、左衛門尉(さえもんのじょう)酒井忠親(さかいただちか)の長男として誕生。忠親は、家康の祖父である松平清康(まつだいらきよやす)の傘下として活躍。西三河の領主としても力を発揮しました。

(2)父の死により10歳で家督を継ぐ

1537(天文6)年、忠親の死去により、忠次は10歳にして家督を継ぐことになります。酒井家は徳川家との深い関わりがあり、忠次の妻となったのは、清康と華陽院(けよういん)の娘であった碓井姫(うすいひめ)で、家康の叔母にあたりました。

(3)今川義元にも武将としての才覚を認められる

忠次は若くして家督を継ぎ、武将としての能力も早くから認められていきます。家康の父である松平広忠(ひろただ)に仕えていた酒井家ですが、一時、今川家の傘下となります。

義元から武将としての才覚を認められ、織田家との戦いに駆り出されるなど、強者の武将の下、軍事に秀でた人物となっていきました。

(4)今川義元没後、三河平定へと動き出す家康を支える

家康は8歳の頃より、今川家の人質となっていましたが、1560(永禄3)年には「桶狭間の戦い」に出陣します。その際、忠次も家康と共に参戦。それまで幾多の戦いに参加し、武功をあげてきた忠次は、先発隊として大高城へ兵糧を運び込むなど貢献します。しかし、義元が信長に討ち取られ、今川軍は大敗。その結果、家康は長きにわたる人質生活を解かれ、岡崎城へ戻ることとなります。

その頃、三河では「一向一揆」が起こるなど、激しい内乱が続いていました。家康は三河平定に向けて動き出しますが、この時、中心となって活躍したのが忠次で、旗頭に任命されました。家康が1565(永禄8)年 に吉田城を攻略し、三河を平定すると、忠次は吉田城を任されます。これを機に、周辺の土豪たちを配下とした忠次は、東三河の旗頭として、四天王の中でいち早く、出世を遂げるなど、家康からの信頼も大きかったようです。

1568(永禄11)年に、家康が遠江(とおとうみ)への侵攻を始めると、そこでも忠次は交渉能力を発揮し、武田信玄との同盟締結に至ることになります。今川領を武田家と徳川家で分け合い、浜松城の前身である曳馬城を落とし、家康は居城を移しました。

(5)数々の戦いを勝利に導き、軍師として一目置かれる存在となる

1570(元亀元)年には、織田信長・徳川家康の連合軍として、浅井長政・朝倉義景連合軍との「姉川の戦い」に参加。当初、優勢であった浅井・朝倉軍に、先陣を切って突撃するなどの活躍で、忠次は信長からも一目置かれるようになります。錚々たる戦国武将から認められた忠次の活躍もあって、家康自身もさらに勢力を強めていきました。

1575(天正3)年の6月、病死で武田信玄を失った武田勝頼率いる武田軍と織田・徳川連合軍が戦った「長篠の戦い」でも、忠次は武田軍の背後にあった砦で鳶ヶ巣山砦を奇襲攻撃して、敵の退路を断ち、織田・徳川軍を勝利に導きました。これを機にますます忠次の存在は、大きくなっていきました。

(6)家督を息子に譲り、隠居。静かな晩年を過ごす

まさに名脇役、「家康の陰に忠次あり」といった状況の中、忠次に転機が訪れます。それが1584(天正12)年に、豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍で争うこととなった「小牧・長久手の戦い」でした。ここでも忠次は、大軍で攻めてくる秀吉軍から小牧山の陣地を守るなど、中心となって活躍します。

しかし、膠着状態が続く中、秀吉は信雄と講和を結び、家康は秀吉の配下となります。秀吉には、石田三成などの有能な重臣がいたため、これ以降、忠次の活躍の場は失われていきました。現代社会にもよくある「吸収合併によるリストラ」ですね。

1588(天正16)年には、家督を嫡男の家次に譲り、61歳となった忠次は隠居生活へと入りました。家康が関東へ移封となると、井伊直政、本多忠勝、榊原康政は、10万石以上を与えられましたが、忠次の息子、家次には3万石しか与えられませんでした。

この大差を不服に思った忠次が家康に申し出ると、「お前も我が子が愛おしいのか」と諫められたといわれています。

かつて、家康の息子であった信康は、信長の命で自害。この時、信長との調整役をしていた忠次が、それを防げなかったことへの家康の恨みが込められているともいわれます。それも諸説あり、真実のほどはわかっていません。

一時は、時の人となり、家康の腹心と言われた忠次でしたが、晩年はその面影もなく、1596(慶長元)年、家康の天下統一を見る前に、70歳で静かにこの世を去りました。

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