今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。
私は、松重 豊さん(冒頭の画像)が演じることになった石川数正がどういう人物だったのか大変興味があります。
そこで今回は、石川数正についてわかりやすくご紹介したいと思います。
なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
1.石川数正とは
岩盤のように固い結束で戦国の世を制したと言われる徳川家と三河軍団ですが、そんな彼らの中で、突如、豊臣秀吉のもとへ出奔し、「裏切り者呼ばわり」された唯一の武将が石川数正です。
本多忠勝や酒井忠次などの「徳川四天王」と並び称される実力者であり、「竹千代」(後の家康)の人質時代から仕えた28人の家臣の一人で、長年の側近で懐刀的存在でありながら、なぜ石川数正はそんな行動に走ったのでしょうか?
そして、豊臣政権崩壊後、その身はどうなったのでしょうか?
石川数正(いしかわ かずまさ)(1533年~1593年?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。
徳川家康(1543年~1616年)の片腕として酒井忠次(1527年~1596年)とともに活躍しましたが、「小牧・長久手の戦い」(1584年)の後に出奔して豊臣秀吉(1537年~1598年)に臣従しました。深志城主10万石となり、信濃松本藩の初代藩主とみなすことが通説となっています。
2.石川数正の生涯
(1)生い立ちと幼少期
家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の義基が石川源氏・石川氏の祖となったということです。数正の家は三河国に下った石川氏の与党と自称しました。
天文2年(1533年)、小川城主・石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として三河国で誕生しました。石川清兼は祖父、石川家成は叔父、石川康通は従弟にあたります。
父の石川康正は同家の宗主であり、母は、松平信康(家康嫡男)の具足親である能見松平家宗主・松平重吉の娘でした。
(2)家康の懐刀(ふところがたな)
徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えました。
永禄3年(1560年)、義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に敗死し松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と亀姫、駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿の3人を取り戻しました。
彼らを助けるため石川数正は、松平元康の反対を押し切って駿府に単騎で乗り込みました。そして、上ノ郷城城主・鵜殿長照(うどのながてる・今川義元の妹の夫)の2人の遺児(鵜殿氏長・鵜殿氏次)と松平康俊(徳川家康の異父弟)との交換条件を持ち出し、見事に3人を取り戻すことに成功しました。
永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍しました。
永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献しました。永禄6年(1563年)、「三河一向一揆」が起こると、父・康正は家康を裏切ったとみられますが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くしました。
石川宗家の家督は叔父の石川家成が家康の命で継ぎましだが、これは家成が家康の従兄にあたるためでもあります。しかし、家康に近習していたこともあり、戦後に家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになりました。
信康が元服するとその後見人となりました。永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭であった叔父の家成が遠州東部の要である掛川に転出すると、代わって西三河の旗頭となりました。
また、軍事面においても元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」、元亀3年(1572年)の「三方ヶ原の戦い」、天正3年(1575年)の「長篠の戦い」など、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げました。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となっています。
天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当しました。このため天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」にも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したとされます。
天正13年(1585年)3月までに数正は康輝(やすてる)と改名しており、以降短期間ながら「康輝」名義の文書を発給しています。
(3)豊臣家への帰順
ところが、天正13年(1585年)11月13日、家康の下から秀吉の下へ出奔しました。理由は「豊臣家との和睦派として家中で孤立を余儀なくされた」「秀吉から帰順を説得された」などとされますが、はっきりした理由は分かっていません。
数正は三河勢の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は痛手でした。以後、三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになりました。
その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えました。この時、通称を出雲守に改め、秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、出雲守吉輝を称したと伝わります。
天正18年(1590年)の「小田原征伐」で後北条氏が滅亡し、家康が関東に移ると、秀吉より信濃国松本(領地は筑摩郡と安曇郡)10万石に加増移封されました。なお、松本の石高に関しては従来の8万石、10万石の2説があります。
数正は松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力しました。
文禄2年(1593年)、死去。享年61。しかし没年には異説もあり、文禄元年(1592年)12月に京都の七条河原で葬礼が行われているため(『言経卿記』)、それ以前に死去の説もあります。肥前の国の陣中で亡くなりました。
なお、家督は長男の康長が継ぎましたが、遺領10万石のうち、康長は8万石、二男の康勝は1万5,000石、三男の康次は5,000石、四男の定政5,000石をそれぞれ分割相続することとなりました。
3.石川 数正が豊臣家へ出奔した理由についての諸説
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、軍制の改正を余儀なくされたとされていますが、出奔の理由には諸説あって定かではありません。
(1)秀吉との外交関連
・次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。
・秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。
・対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。
・秀吉との間で(秀吉のところに行けば)家康との戦を回避するという密約があったとされる説
(2)松平信康関連
・信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。
・信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。
(3)その他
・父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にもかかわらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるをえなかったからとする説。
・家康と示し合わせ、徳川家のために犠牲となった形で投降したふりをしたという説。
・秀吉との交渉を行う中で現状を知る数正が、現状を知らずに主戦論を主張する本多忠勝、榊原康政ら家臣団に対し主戦論を放棄させるため投降したという説
・家康の影武者、世良田二郎三郎元信が立場を利用して信康を殺し、松平(徳川)家を乗っ取ったためという説。
この説によれば、「家康が何らかの形で不慮の死を遂げ、松平家存続のために世良田元信が君主にすり替わっていた。数正もこのことは承認していたが、それはいずれ跡取りである信康が成長すれば、松平(徳川)氏の家督は信康が継ぐものと信じていたためである。しかし信康は信長の処断要求に乗じた家康(元信)の命令で処刑されてしまった。家康と松平家に対し強い忠義心を持っていた数正は、これに激しい怒りを覚えていた」とされます。
ただし、この影武者説は専門外の素人によるものであり、アカデミズムの立場からは否定されています。
私は、「人たらし」として有名な豊臣秀吉が、何らの理由で家康に不満を持つ石川数正をヘッドハンティング(スカウト、引き抜き)したことは間違いないと思います。豊臣秀吉は直江兼続をヘッドハンティングしようとして断られたという話もあります。
ただ、秀吉の狙いは、引き抜いた人材を活用するというよりも、相手の大名の力を削ぐことだったのではないかと私は思います。
それが証拠に、石川数正は豊臣秀吉に臣従してからは、かつて家康に仕えていた時のような大活躍をしたという話は残っていません。
4.石川数正の人物像・逸話
・石川数正は「情の鈍い人」(岡崎三奉行の一人・高力清長による人物評)
情に鈍いとは、つまりは「感情を表に出さない」ということです。
一方で数正は、「他人の表情から感情を読み取るのに長けた人物」だと伝わっており、その広い見識を用いての「交渉」や「外交」が得意でした。
いわば「知将」「インテリ」であり、「田舎者」と評される三河武士にしては珍しい「文化人」です。
・石川数正の口癖は「三河者は狭量」
そんな石川数正が口癖のように使っていた言葉が「三河者は狭量」です。
「狭量=心が狭い」ということですが、男では石川、女では築山殿(徳川家康の正室)が、泥臭い三河の中で「掃き溜めの鶴」が如く光り輝いていたという意味でしょう。
・石川家は「安祥七譜代」の一つで、譜代中の譜代
徳川家康は「松平宗家」の出ではなく、安祥(愛知県安城市)を本拠地とする「安祥松平家」の出です。三河武士の最高ランクは、安祥城主時代からの家臣(安祥譜代)です。
通説では、「酒井・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村」の7家が「安祥七譜代」であり、石川数正の石川家もそこに数えられる名門です。
・石川数正は名門生まれで「七人小姓」の一人
松平3代信光は、松平郷(愛知県豊田市)から南下して、岩津(愛知県岡崎市)に進出、岩津城を居城としました。
その後、松平宗家(岩津松平氏)は衰退し、安祥に進出した信光の3男にして安祥松平家初代・親忠の安祥松平家が宗家となりました。
石川家の氏祖は、八幡太郎義家(源義家・源頼朝や足利尊氏の祖先)に遡りますす。源義家の6男に源義時がおり、その3男に生まれた源義基。
この源義基が、河内国石川郡壷井の石川荘(現在の大阪府羽曳野市壷井)を領して「石川」と称したということです。
石川義基の子孫は、下野国小山(栃木県小山市)へ移って「小山」と称し、政康35歳の時に、一向宗本願寺蓮如と共に三河国へ移り、以降、小川城を築いて苗字を「石川」に戻したということです。
石川政康は、松平4代親忠の安祥進出を許可し、3男・源三郎(当時14歳)を出仕させました。
後に源三郎は、元服時に「親忠」の「親」をいただいて「親康」と名乗り、石川家を継いだというから、「石川氏は、徳川家康を輩出した安祥松平家創設の立役者」とも言えます。
そのため天文18年(1549年)、まだ8才の竹千代(後の徳川家康)が人質として今川家の駿府(静岡県静岡市)へ赴く際、石川与七郎数正(17歳)も供の者「七人小姓」に選ばれました。
その際、数正は「其の随一」とも記されていて、最年長だったことを窺わせます。両者は幼くして苦楽を共にすることになりました。