前に「江戸いろはかるた」を紹介する記事を書きましたが、江戸風俗がよくわかる「川柳いろは歌留多」というのがあるのをネットで見つけましたのでご紹介します。
これは、Ahomaro Ufoさんが作られたものです。この「川柳いろは歌留多」は江戸川柳「柳多留」から、庶民の生活を詠んだ川柳を<現代語解釈>で表現した不思議な空間です。
江戸の庶民風俗を浮世絵と明治大正時代の手彩色絵葉書や昭和30年頃までの広告などを巧みに取り入れた時代絵巻は、過去例を見ない雰囲気を醸し出しています。
Ahomaro Ufoさんが作られたものを、私なりにアレンジしてご紹介します。
1.ち:猪牙舟(ちょきぶね)で吉原通い(よしわらがよい)の果報者(かほうもの)
前に「官僚の不祥事とドンの不正疑惑が続発!権力は腐敗する!」という記事を書きましたが、役人の汚職は江戸時代にもありました。
「役人の骨っぽいのは猪牙(ちょき)に乗せ」という川柳が残っています。
江戸時代の遊里・吉原は、浅草寺裏の辺鄙な場所にありました。遊郭通いには舟が便利で、浅草橋・柳橋あたりの船宿から「猪牙舟」で隅田川をのぼって山谷堀に入り、そこから徒歩で大門に向かいました。船旅の途中、蔵前河岸にあった「首尾の松」に、客はみな今宵の首尾を祈るのでした。
ちなみに「猪牙舟」とは、江戸時代に市中の水路で大量に使われた一人あるいは二人漕こぎの屋根のない舟で、舳(みよし)が長くて船足が速く、吉原の遊び客の足として盛んに用いられました。
2.り:理不尽なお足覚悟の四手駕籠(よつでかご)
吉原に通う遊び人は、少しでも早く気持ちで、道理に合わない辻駕籠料金を承知で利用しました。辻駕籠屋も客の腹を読んで、通常料金の数倍を要求しました。
普通、江戸の駕籠は半里一朱が相場でしたが、吉原行きには平気で一分(一分は四朱)と吹っ掛ける輩もいたそうです。ちなみに「四手駕籠」とは、割竹で編んだ粗末な駕籠のことです。
3.ぬ:寝(ぬ)る魂(たま)の中に合はせし好き事(すきごと)を
花は毎年同じように咲きますが、人は歳ごとに変わって行きます。劉希夷(劉廷芝)の次のような詩があります。
年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず 言(げん)を寄す全盛の紅顔子(こうがんし) 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁 此の翁白頭真(まさ)に憐れむべし 伊(こ)れ昔紅顔の美少年
現代では、寝る前に化粧を落としますが、江戸の美人たちは肌が荒れるのを嫌って、寝る前の化粧を欠かさなかったそうです。
しかし、当時の白粉(おしろい)は鉛を主成分としており、逆にその鉛の中毒で肌が荒れることを知りませんでした。
4.る:瑠璃色(るりいろ)が異国情緒を漂わせ
瑠璃のグラス(瑠璃玻璃・江戸硝子)(下の画像)は江戸庶民の憧れでした。瑠璃は宝石のように扱われましたが、ただのガラスです。ちなみに「瑠璃(るり)」は光沢のある青い宝石のことで、ガラスの古名です。「玻璃(はり)」は、仏教で七宝(しっぽう)の一つで、水晶のことですが、ガラスの別名でもあります。
幕末の江戸に西洋人がもたらした異国文化は、物好きな江戸っ子たちにもてはやされ、高級料亭などでも瑠璃の器を用意した所があったそうです。
本来日本人の食文化は、器を楽しむところがあり、この瑠璃の器は伊万里焼や九谷焼の磁器よりも高値で取引されていました。
日本でガラスが食器として一般的になるのは、明治後期以降で、それまでは高価な器でした。
5.を:恩顔(をんがん)な花も上喜(じょうき)の砲(つつ)となる
江戸の花見の三大名所である上野・飛鳥山(あすかやま)・御殿山(ごてんやま)は、庶民の行楽地でしたが、嘉永6年(1853年)6月、アメリカのペリー提督率いる四隻の「黒船」が浦賀沖に姿を現わしたとの知らせが、江戸市中を震撼させました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という狂歌でも有名ですね。
江戸幕府は「黒船」の侵略を阻止するために、全国の大名に命じて桜の名所だった御殿山を切り崩し、「お台場」の設営を急ぎました。上の川柳には、慣れ親しんだ桜の名所が無くなった悲しみが込められています。
ちなみに「恩顔」とは、いつくしみのある顔・慈愛にみちた顔・情け深い顔のことで、多くは主君の顔について言います。
6.わ:わ印(わじるし)を見付けた娘あかくなる
江戸の猥褻本(わいせつぼん)は、春画・枕絵・笑い絵と呼ばれました。当然、ご法度品の裏本でしたが、一般の錦絵よりも高価に売れるため稿料も高く、喜多川歌麿や葛飾北斎、歌川国芳、菱川師宣、鈴木春信などの一流の浮世絵師もこの分野に参画していました。
一枚物の錦絵から豪華な装幀本までさまざまで、嫁入り道具として娘に持たせたとも言われています。ちなみに「わ印」とは、笑い絵(わらいえ)・笑い本(わらいぼん)の頭文字を取ったもので、春画・春本のことです。
7.か:火事場でも喧嘩絶えない町火消(まちびけし)
江戸は火事が多く、江戸の木造家屋は瞬く間に燃えました。そこで享保4年(1719年)に大岡越前守が町火消「いろは四十八組」を組織し、防火に当たりました。
粋(いき)な町火消衆は、自分の組の手柄を立てるため、火事場に駆け付ける他の火消組との喧嘩も絶えず、野次馬の見物人は火事と喧嘩を同時に楽しむことが出来ました。