前に「江戸いろはかるた」を紹介する記事を書きましたが、江戸風俗がよくわかる「川柳いろは歌留多」というのがあるのをネットで見つけましたのでご紹介します。
これは、Ahomaro Ufoさんが作られたものです。この「川柳いろは歌留多」は江戸川柳「柳多留」から、庶民の生活を詠んだ川柳を<現代語解釈>で表現した不思議な空間です。
江戸の庶民風俗を浮世絵と明治大正時代の手彩色絵葉書や昭和30年頃までの広告などを巧みに取り入れた時代絵巻は、過去例を見ない雰囲気を醸し出しています。
Ahomaro Ufoさんが作られたものを、私なりにアレンジしてご紹介します。
1.や:山盛りに盛ったすゝきを二はいくい
吉原では8月15日の「紋日(もんび)」は「名月」と言いますが、「薄(すすき)」とも言ったそうです。
その紋日に登楼し、9月13日の「後の月」の仕舞いもつける破目になった男をあざ笑った川柳です。
いずれも馴染み女郎の要請で、大散財を強いられたのを「二はいくい」と表現したもので、この男が息子なら座敷牢か勘当ものです。
金持ちの息子を誑(たぶら)かす吉原女郎の強(したた)かさです。所詮、女郎は金目当て、裏では同僚の女郎たちと「あちきも二はい盛りとうござんすえ」などと馬鹿息子の話題で持ち切りだったことでしょう。
ちなみに「紋日」とは「ものび(物日)」の変化した言葉で、「もんぴ」とも)言います。江戸時代、主として官許の遊里で五節供やその他特別の日と定められた日です。
この日遊女は必ず客をとらねばならず、揚代もこの日は特に高く、その他、祝儀など客も特別の出費を要しました。1月は松の内、11日、15日、16日、20日、続いて2月10日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日。吉原では3月18日三社祭、月1日富士詣、7月10日四万六千日、8月1日(八朔)白無垢、8月15日名月、9月13日後の月、12月17・18日浅草歳の市、など多くありました。
余談ですが「舞妓の四季」にも様々な年中行事があります。
2.ま:先(ま)ず朝は一荷(いっか)四文(しもん)で水を買う
江戸市中の大半は「埋立地」だったので、井戸を掘っても塩気が混じります。特に本所や深川の住民は飲み水が得られず、行商人から水を買いました。
行商人は呉服橋側の龍ノ口にて、江戸城を流れてきた神田・玉川両上水の余り水を外堀に落としている所から汲み取って、船で運び市中に売り歩きました。
朝はまずこの水を買うことから、食事の支度が始まりました。「一荷」とは瓶の容量を示す単位で、約二升ほどです。
3.け:実(げ)に怖い地震雷火事親父
江戸で怖いものは、地震・雷・火事・親父と言われていました。延寿という絵師が描いた『浮世四案鈔』では、鯰・鬼・火が「安政の大地震」を祝って酒盛り、親父がそれを眺めて、この三者には用心しろと言っています。
4.ふ:無精者(ぶしょうもの)一刻(いっこく)働き五穀潰(ごくつぶし)
「怠け者の節句働き」ということわざもありますが、不断怠けている者は、思い立つと馬鹿働きしますが、長続きはしません。
江戸時代の一日は十二刻で、その内訳は昼六刻・夜六刻に分かれていたので、昼六刻のうち一刻だけ働いて五刻は遊んでいるというわけです。もちろん、夜六刻も働かないので、今の時間で言うと、一日せいぜい二時間しか働かない怠け者のことです。
「五刻潰し」と「五穀潰し」(食べているだけで何の役にも立たない者)という怠け者を罵(ののし)る言葉とを掛けているわけです。
5.こ:御用達(ごようたし)ひら町人でも士(し)に近し
江戸城に出入りできる商人を「御用達」と呼びました。「札差(ふださし)」をはじめ御用達商人たちは、その権力で旗本・御家人などの下っ端役人たちに高利で金を貸し、吉原などで豪遊していましたが、「寛政の改革」で貸付金を棒引きにされてしまいました。
よく似た川柳に「御用達ならひら町人でなし大名に近し」というのもあります。
6.え:江戸みやげ浅草海苔か錦絵(にしきえ)か
江戸の土産といえば、「浅草海苔」と相場が決まっていました。観音様前で売られていた浅草海苔は大森付近で採れたものですが、元禄以前は隅田川河口で採れました。伝聞では、宮戸川(浅草寺付近の隅田川)が殺生禁止となって、付近の漁師が大森あたりに移住したのが由来だそうです。
同じく人気の土産は錦絵で、芝居・花魁(おいらん)・相撲などの見物記念に買って行ったということです。
どちらもかさばらず軽いから持ち運びに便利で、その上、江戸の匂いを嗅ぐことが出来る最高のお土産でした。
7.て:丁寧に加賀の老人鏡研(と)ぎ
女の化粧道具の筆頭は鏡です。鏡は「三種の神器」の一つにも数えられている通り、神聖で貴重な品物とされていたので、普段は表面が汚れないようにしっかり鏡掛けを掛けておきました。
当時の鏡は銅製なので、錆が浮くうえ手入れが難しいものでした。鏡の曇り取りの職人「鏡磨ぎ」が町々を回りましたが、加賀藩の老人が多かったそうです。加賀藩では貴金属細工が盛んで、細工で出た金の削り粉が銅鏡を磨くのに適していたからです。
金の削り粉を「金剛砂」と呼び、木賊(とくさ)で磨き、仕上げには銀や水銀を張ることもあったそうです。鏡磨ぎは素人には無理な仕事でした。
現代のようなガラスの鏡は、幕末から明治にかけて普及しました。