香月牛山の養生訓『老人必用養草』。食養生の知恵を伝える名医の健康指南書

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老人必用養草

前に貝原益軒の『養生訓』を紹介する記事を書きましたが、江戸時代にはほかにも「健康指南」を述べた書物、いわば「健康ガイドブック」があります。

1.香月牛山の養生訓『老人必用養草』

香月牛山(かつきぎゅうざん)の養生訓『老人必用養草(ろうじんひつようやしないぐさ)』は、貝原益軒の『養生訓』ほど有名ではありませんが、実用的な健康指南書です。

ちなみに香月牛山は、貝原益軒のかつての弟子です。

(1)朝夕どちらかは粥(かゆ)にすべし

朝夕の食も一度は粥によろしかるべし。夜食は必ず粥たるべし。

硬い米飯ばかりを食して、胃の健康を損なうリスクを戒めたものです。本書が書かれた時代は、朝夕の1日2食から1日3食への食習慣の変化が定着しつつありました。香月もそれにならい1日3食は多いとダメ出しをしていませんが、昼食は3月から8月まで、夜食は9月から2月までの期間に限るとしています。そして間食は不可と忠告しています。

(2)肉は鶏肉を食すべし

益ある鳥肉は、うずら、ひばり、鳩、鶏、鴨、雀、雁、鶴、鷺の類の肉を薄く切て、煮食すべし。

鳥類の肉は健康に良く、とくにシニア層にとっては鶏が一番良い肉だとしています。

江戸や京都の都市部では、畜殺をタブー視する気風が残っていましたが、香月が住んでいた九州では習慣的に鶏肉を食べていて、民衆はこれが身体に益することを知っていました。ただし、牛、鹿、猪といった獣肉は食べるべきでないと別項で述べています。

(3)麺類はほどほどに

湿麺(うどん、素麺、冷麦、そばきり)の類食ふべからず。(中略)すべて湿麺の類少なく食ふ時は害なし。

麺類には厳しいことを言っていますが、これは当時、腹いっぱいになるまで食べ続け、体を壊した人が多かったのを反映しているようです。麺類に限らず、「少し食べれば益になるが、多食すれば害となる」というのが香月の基本的な考えです。

(4)適量の飲酒は健康にとてもよい

酒は人に益あり。陽気を助け、血気を和らげ、食気を巡らし、腸胃を厚くし、皮膚を潤し、憂いを忘れ、胸を発して意をのべて心を楽しましめ、寒湿を去り、悪気を殺し、風寒暑湿の気におかされず。

香月は言葉を尽くして、酒をべた褒めしています。ただし少量にとどめ、ほろ酔い程度にとどめるよう釘をさしています。また、冷酒や熱燗は勧めず、人肌くらいの温度にしたものがよいとも述べています。要するに「酒は百薬の長」ということですね。

(5)茶は食後に少量飲むにとどめるべし

性、冷にして人の津液をもらし、腎精をへらす。よろしき物にあらず。されど常に食後に少なく飲むときは、食毒を消し、気を下し、眼を明らかにするの徳あり。

茶については、冷の性質を持ち利尿作用が強く、精力を減退させるため、良いものではないと断ったうえで、食後に少量飲む分には利益があるとしています。

「眼を明らかにする」ともありますが、現代の医学研究では、緑茶に視力回復を助ける効果があると判明しており、当時すでにその効用を経験から知っていたのでしょう。

このほか、次のようなことも述べています。

・人、年老いてはみだりに形体(肉体)を労すべからず。

・手足をひたと撫でて気血をめぐらすべきなり。手足の指を屈伸する事、一日一夜に十余度すべし。

また、現代人には無用な知識ながら、頭頂部を剃る「月代(さかやき)」については、「常に剃り慣れたる人は、少し伸びても心持ち悪(あ)しきとて毎日も剃る人あり。年老いては元気減りて・・・、風に感じて咳嗽(がいそう)(=せき)を生ず。四十以上は月代を剃らずして一つに束ねたるによろし」とあります。

対馬藩儒の雨森芳洲(1668年~1755年)は43歳の時に総髪にすることを藩に願い出て許可されていますが、こういう常識が背景にあったようです。ちなみにこの雨森芳洲も86歳の長寿でした。

さらに、「老人、目を養うには菖蒲石(しょうぶせき)(植物の「セキショウ(石菖)」のこと)を常に愛すべし」とも述べています。

セキショウ

牛山は44歳の年に眼病のために仕えを辞め、京に移住しました。そして市中に閑居して医療に従事するかたわら、座右にセキショウを「清閑寺石(清水の奥の清閑寺山より出る石)に植えて盆中に養いて愛翫(あいがん)」したところ、6年後に、治療もしていないのに眼病は自然に癒えて、「細字を灯下に見るに、ものうからず」なったということです。

セキショウを毎日眺めていたら老眼が自然に治ってしまったということのようです。「緑豊かなセキショウは目に優しい愛眼植物」と言えるのかもしれませんね。

2.香月牛山とは

香月牛山肖像

香月牛山(1656年~1740年)は、臨床で活躍した名医です。豊前国(福岡県)中津の人で、のち筑前に移り、貝原益軒に儒学を、鶴原玄益に医学を学びました。

中津藩の医官として仕えましたが、これを辞し京都に出て二条に医業を開きました。その医流は中国の金元時代の流れをくむいわゆる「後世派」に属し、当時の後世派医家の代表と目されました。

『老人必用養草』『薬籠本草』『婦人寿草』『巻懐食鏡』のような啓蒙的著作を多く著しています。生涯独身で子がなく、甥の則貫を養嗣としましたが、則貫は牛山に先だって没したため、門人の則道を養嗣とし、香月家を継がせました。

江戸時代で84歳の天寿を全うした人ですから、その養生論には説得力があります。

江戸時代の前期から中期の人で、当時の平均寿命(推定)が30~40歳代で長生きしてもせいぜい50歳くらいだったことを考えると、香月牛山と同様に、貝原益軒(1630年~1714年)も驚異的な84歳の長寿を達成した人の言葉として重みがあります。

3.雨森芳洲とは

雨森芳洲

雨森芳洲(1668年~1755年)は、江戸中期の対馬藩の儒学者で清納の子です。通称は東五郎、朝鮮では雨森東の名で知られています。

初め俊良、のち対馬藩主宗義誠より諱の1字を与えられ誠清と称しました。字は伯陽。号は芳洲、橘窓、尚絅堂。生まれは近江国(滋賀県)伊香郡高月の雨森、一説に町医者だった父が開業していた京都とも言われています。

生家の関係で初め医学を志しましたが、やがて儒学へ転向。伊藤仁斎らを生んだ当時の京都の学風に影響されたと言われています。18歳のころ江戸で木下順庵の門下に入り、新井白石・室鳩巣らと共に「木門の五先生」と尊称されるまでになり、22歳で師の推挙により対馬藩の儒者に就任しました。

26歳で対馬に渡り、朝鮮方佐役となります。 役目柄、朝鮮関係の諸事にあずかるため、改めて中国語と朝鮮語を習得し、通信使来日に際しては真文役となって江戸へ随行、また参判使や裁判役など外交使節として朝鮮へ赴き日朝外交の実務に精通するなど、他の儒者にみられない異彩を放っています。

幕府との折衝にも尽力し、徳川家宣の政治顧問となった白石と、1711年に通信使の待遇や国王号の改変を巡って議論を戦わせ、1714年には貿易立藩対馬の立場から銀輸出にかかわる経済論争を展開しました。

享保6年(1721年)藩内に朝鮮訳官による密貿易事件が起こり、穏便に処理して癒着を図る藩当局に対し。同門の儒者松浦霞沼と共に、以後の密貿易根絶のため厳罰主義を内容とする「潜商議論」で反論しました。

このとき自説を容認されなかったため、朝鮮方佐役を辞任し、家督までも長男顕之允に譲って隠居を図るなどして当局に抵抗、藩政に対しても厳しい態度をもって臨むという「プリンシプル」のある反骨精神の持ち主でした。

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