二后を持った一条天皇とは?平安女流文学開花に寄与した生涯と人物像に迫る。

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一条天皇

2024年NHK大河ドラマは「源氏物語」の作者である紫式部が主人公でそのパトロンでもあった藤原道長とのラブストーリーも含む「光る君へ」(主演・吉高由里子 作・大石 静)です。

2020年の「麒麟がくる」、2021年の「青天を衝け」、2022年の「鎌倉殿の13人」、2023年の「どうする家康」と力作・話題作が続くNHK大河ドラマですが、2024年の「光る君へ」も楽しみですね。

なお「源氏物語」と紫式部については「紫式部はなぜ源氏物語を書いたのか?藤原道長との不倫の真相は?」という記事に、また光源氏のモデルとされる8人については、「光源氏のモデル・源 融とは?イケメンで光源氏のモデルの最有力候補。」など8回に分けて記事に書いていますので、ぜひご覧ください。

ところで、前に「紫式部が仕えた中宮彰子とは?摂関政治を支えたその生涯と人物像に迫る。」という記事を書きましたが、中宮彰子の夫である一条天皇とはどんな人物だったのかも気になりますよね。

そこで今回は、一条天皇の生涯と人物像に迫ってみたいと思います。

1.一条天皇とは

一条天皇

一条天皇・家系図

一条天皇(いちじょう てんのう)(980年~1011年)は、第66代天皇(在位:986年~1011年)。円融天皇の第1皇子で、母は藤原詮子(藤原兼家の娘)。諱は懐仁(やすひと)

兄弟姉妹はおらず、従兄弟に前帝・花山天皇と次帝・三条天皇がいます。

(1)7歳で即位

永観2年(984年)8月27日、従兄で奇行と好色で有名な花山天皇が皇位を継いだ時、5歳で皇太子に立てられます。

寛和2年(986年)6月23日(8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位しました。

これは孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀と言われます(寛和の変)。皇太子には従兄にあたる居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任しました(のちに関白)。

兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ、中宮を号させますが、長徳元年(995年)に病没。代わりに弟の道兼が関白に就任しますがわずか7日後に没します。

道隆の子伊周との争いに勝利した道長(道隆・道兼の弟)が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、「内覧」(*)となって実権を掌握しました。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で、「一帝二后の先例を開きました

ちなみに第67代三条天皇も「一帝二后」の時がありますが、これも道長の権力争いの結果です。

(*)「内覧」とは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ること、またはその令外官の役職のことです。

(2)藤原氏による「摂関政治」の最盛期で、平安女流文学が開花

紫式部と清少納言

一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子(977年~1001年)に仕える清少納言(966年頃~1025年頃)、中宮彰子(988年~1074年)に仕える紫式部(973年頃~1014年頃)・和泉式部(976年頃~1036年頃)らによって平安女流文学が花開きました

天皇自身、文芸に深い関心を示し、「本朝文粋」などに詩文を残しています。音楽にも堪能で、笛を能くしたということです。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われました。

(3)道長と表面上は協調するも、必ずしも良好な関係ではなかった?

また道長が「内覧」に留まったのは、当時閣議に出られない決まりがあった摂政・関白よりも、内覧を兼ねたまま「一上」(閣員の首座)として実権を掌握しようとしたためと見られますが、天皇自身も長ずるにつれ曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のような親政を志したとされます。

道長も天皇と協調し、これにより、後に大江匡房が「続本朝往生伝」で藤原実資や藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立しました。

ただし一方で、天皇と道長・彰子の関係が決して良好ではなかったと見る説もあります。藤原行成の日記「権記」には、天皇は晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望んでいましたが、行成が道長の意向を尊重し、敦成親王を東宮にするよう天皇に進言したことが記されています。

1220年頃に慈円が著した「愚管抄」には天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗しと書かれていて、これを「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件があります。同じ頃に成立した「古事談」にも似たような話が記載されています。

(4)従兄の三条天皇に譲位直後に崩御

かねてより譲位の意向を道長に伝えていましたが、慰留されるうちに寛弘8年(1011年)5月末頃には病が重くなり、同年6月13日に皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位し太上天皇となり、19日に出家するものの、その3日後の22日に崩御しました。宝算32。7月8日夜に火葬されたということです(『栄花物語』「いはかげ」の巻)。

なお、25年間の在位期間は平安期では醍醐天皇に次ぐ長さです。

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山 の龍安寺内にある圓融寺北陵(円融寺北陵:えんゆうじのきたのみささぎ)に治定されています。宮内庁上の形式は円丘。

天皇は生前、父円融院の隣に土葬されることを望み、近臣の熟知するところでしたが、道長は故院を荼毘に付してからそのことを思い出し、遺骨を円融寺に納めたということです

母である藤原詮子は、飛鳥時代の天武天皇の皇女十市皇女の11世孫にあたります。天武天皇の男系皇統は途切れてしまうものの、女系の血は一条天皇を介して現在の皇室及び旧皇族に伝わっているとされます

ただし、明治天皇は即位直後に暗殺され、大室寅之祐にすり替わったという信憑性の高い話(宮内大臣も務めた田中光顕の告白)もありますので、皇統は途切れていると私は思っています。

2.一条天皇の人物像・逸話

・辞世の歌は「御堂関白記」によれば「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」です。ただし「権記」では「事ぞ悲しき」となっています。

・長徳・寛弘年間に日記をつけていたことが判っています。

長徳御記は平安末期にはすでに失われ(「台記」)、寛弘御記は応永の頃まで伝存が知られます(「薩戒記」)。その後、中世の戦乱にまぎれて散失したと思われ、「北山抄」・「柱史抄」・「建武年中行事」・「體源抄」などに逸文が残るのみです。

・大変な愛猫家であり、内裏で生まれた猫のために儀式を執り行い、人間の乳母をつけたという話が「小右記」に記述されています。

この猫は「命婦のおとど(おもと)」と名付けられ、叙爵されていたことや、その猫に飛びかかった犬に激怒し「犬島に流せ」と命じたという話が「枕草子」に記されています。

・25年間の在位中に、6回も「改元」しています。

平安時代は天皇の一存で改元できた時代でした。天皇が即位するときはもちろん、慶事、天災、疫病の流行などのタイミングで改元に踏み切りました。

①寛和(かんわ):円融天皇から花山天皇への譲位による代初改元。一条天皇の即位時に使われていた元号。

②永延(えいえん):一条天皇が即位したことによる代初改元。一条天皇の即位から9ヵ月後に行われました。

③永祚(えいそ):ハレー彗星の出現(989年)は不吉なことの予兆とされ、改元。しかし、改元直後に巨大台風に襲われ、被害が出ました。

④正暦(しょうりゃく):上記の近畿地方を襲った巨大台風などの天変「永祚の風」をきっかけに改元。

⑤長徳(ちょうとく):伝染病(今でいう「はしか」)と天変をきっかけに行われた災異の改元。

⑥長保(ちょうほう):災異改元。一条天皇から「(文章博士)大江匡衡の申す文字を用いて」との助言あり。

⑦寛弘(かんこう):地震をきっかけとした改元。この後、藤原道長の権力の横行が目立つようになります。

・平安時代中期の天文学者である陰陽師・安倍晴明(921年~1005年)は、一条天皇天皇までの6代の天皇に側近として仕え、一条天皇の時代に死去しました。一条天皇の命により、晴明の屋敷跡(京都府京都市上京区晴明町806)に「晴明神社」の社殿が建てられました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「光る君へ」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。