明治時代の「お雇い外国人」(その15)エドワード・B・クラークとは?

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エドワード・B・クラーク

幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。

彼らは「お雇い御雇外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。

当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。

長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。

当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。

彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。

主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。

そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。

第15回はエドワード・B・クラークです。

1.エドワード・B・クラークとは

エドワード・ブラムウェル・クラークEdward Bramwell Clarke)(1874年~1934年)は、在日ギリス人の英語教師です。

彼は「日本ラグビーフットボールの父」とも呼ばれ、田中銀之助と共に、日本にラグビーを伝えた人物とされています。慶應義塾、一高、東京高等師範学校、三高、京都帝国大学などで教鞭を執りました。

クラーク・ラグビー記念碑

なお、「少年よ大志を抱け」という名言で有名なアメリカ人のウィリアム・スミス・クラークとは全く関係がありません。

2.エドワード・B・クラークの生涯

彼はイギリス人の両親の元に横浜市で生まれました。クラークの父親はパン屋を経営しており、妻の死後に日本人女性と再婚しました。

14歳の時に横浜の「ヴィクトリア・パブリック・スクール」(在日英国人のための私塾)に入学。同校校長のチャールズ・ハワード・ヒントン(4次元研究で知られるイギリスの数学者。重婚で逮捕され失職したため1883年から1894年まで日本で働いていた)のもとで学びました。

ラフカディオ・ハーンに作文の添削を受けたほか、日本でのラグビー普及に努めた田中銀之助(銀行家)とも出会いました。

「ヴィクトリア・パブリック・スクール」卒業後は両親の母国であるイギリスへ留学して、ケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジに入学し、ロマンス語やイギリス文学を専攻したほか、ラグビーやクリケットなどの競技にも打ち込みました。

帰国後は、乞われて慶應義塾大学部の英語講師として働く傍ら、日本ラグビーの普及に田中銀之助とともに尽力しました。

ある日の午後、塾生たちが退屈そうにしている姿を目にし、彼らにラグビーの面白さを教えることができれば、退屈せずに済むだろうと考えました。クラーク自身も日本語が流暢だったわけではなく、その時に友人の田中銀之助に協力を求めたところ、田中は快く引き受けてくれました。この時が、日本におけるラグビーの起源とされています。

クラーク・慶応義塾ラグビー部

1907年に彼は右ひざの関節のリウマチを発症し、足を切断することになりました。

その後は学問に打ち込むようになり、多くの書物を読破したことから「ブリタニカ百科事典(E・B)クラーク」と呼ばれるようになりました。

上田敏の後任として京都帝国大学で再び講師として迎えられた際にはイギリス(特にシェイクスピアなど)を講義しました。

定年の翌年の1934年、脳出血により死去しました。神戸市立外国人墓地に葬られています。

蔵書5,133冊は京大文学研究科図書館の「クラーク文庫」として所蔵されています。

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