日本語の語源には面白いものがたくさんあります。
前に「国語辞典を読む楽しみ」という記事を書きましたが、語源を知ることは日本語を深く知る手掛かりにもなりますので、ぜひ気楽に楽しんでお読みください。
以前にも散発的に「日本語の面白い語源・由来」の記事をいくつか書きましたが、検索の便宜も考えて前回に引き続き、「50音順」にシリーズで、面白い言葉の意味と語源が何かをご紹介したいと思います。季語のある言葉については、例句もご紹介します。
1.弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)
「弘法にも筆の誤り」とは、その道に長じた人でも時には失敗することがあるというたとえです。
弘法とは嵯峨天皇、橘逸勢と共に平安時代の「三筆」の一人に数えられる弘法大師(空海)のことです。
その弘法が天皇の命を受け、平安京の應天門(応天門)の扁額を書きましたが、「應」の字の一番上の点をひとつ書き落としました。
そこから、弘法のような書の名人でさえ書き損じることもあるものだと、失敗した際の慰めとして、「弘法にも筆の誤り」と使われるようになりました。
ただし、弘法は書き損じた額を下ろさず、筆を投げつけて見事に点を書いていることから、本来この句には、「弘法のような書の名人は直し方も常人とは違う」といった称賛の意味も含まれています。
應天門の額打ち付けて後これを見るに、初めの字の点、すでに落ち失(う)せたり。驚きて筆を投げて点を打つ。もろもろの人これを見て、手を打ちてこれを感ず。
余談ですが、弘法大師には「五筆和尚(ごひつわじょう)」という異名もあります。この逸話については、「読書法は、一冊読書法より並行読書法がお勧め!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
2.恋(こい)
「恋」とは、異性に強く惹かれて切なく思うこと。また、その心のことです。恋愛。恋慕。
恋の動詞表現は、現代では「恋する」が一般的ですが、古くは「恋ふ(こふ・こう)」で、「恋ふ」の名詞形が「恋」です。
「恋ふ」は、人に対して物を与えてくれるよう求めたり、何かをしてくれるよう願う意味の「乞う(こう)」と同根で、古くは、異性に限らず、花・鳥・季節など、目の前にない対象を慕う気持ちを表しました。
『万葉集』では、「恋」を表すのに「孤悲」を当てた例が多く見られます。
やがて「恋」は、目の前にない対象が異性に限られるようになり、「会いたい」「独り占めにしたい」「一緒になりたい」といった、男女の恋愛感情を表す言葉となりました。
「恋」の旧漢字は「戀」で、上部は「絲」+「音」からなり、もつれた糸にけじめをつけようとしても、容易に分けられないことを表し、「もつれる」と同系です。
これに「心」を加えた「戀(恋)」は、心が乱れて思い切りがつかないことを表します。
3.口実こうじつ)
「口実」とは、言い逃れや言いがかりの材料。また、その言葉のことです。言い訳。
漢語で「口実」は、口の中に満ちることを意味します。
口の中に満ちるものには「飲食物」と「言葉」があり、日本では「言葉(言い草)」の意味として平安時代から使われるようになりました。
明治時代以降、中身のない言葉に無理に実を込めようとするところから、「口実」は言い訳や言い掛かりの材料を意味するようになりました。
4.言語道断(ごんごどうだん)
「言語道断」とは、あまりにもひどく、言葉で言い表せないほどであること。とんでもないこと。もってのほかのことです。
言語道断は元仏教語で、仏法の奥深い真理は言葉で説明しきれないことを意味します。
『平家物語』に「時々刻々の法施祈念、言語道断の事どもなり」とあるように、古くは、言いようがないほど立派であるという意味でも使われていましたが、現代では、言葉も出ないほどひどいことを「言語道断」と言うようになりました。
「道断」の「道」は「言う」の意味で、「道断」のみでも「言うにたえないこと」「もってのほかのこと」の意味があります。
5.五里霧中(ごりむちゅう)
「五里霧中」とは、方向を見失うこと。物事の判断がつかず、どうしていいか迷うことです。「五里夢中」と書くのは間違いです。
五里霧中は、後漢の張楷が、五里(約19.6km)にわたる霧を起こし、自分の姿をくらます道教の秘術「五里霧」を好んで使ったという、中国の『後漢書(張楷伝)』の故事に由来します。
五里四方にわたる霧の中に入ると、方向を見失い、物事の様子が全くわからなります。
そこから、方向を見失うことや、物事の判断がつかずに迷うことを「五里霧中」と言うようになりました。
6.業を煮やす(ごうをにやす)
「業を煮やす」とは、思うように事が運ばず、腹を立てることです。
業を煮やすの「業」は仏教語で、人間の身体・言語・心によって行われる行為を意味し、この場合は心の動きを表します。
「煮やす」は、火にかけ熱することから、怒りなどの気持ちを激しくすることをいいます。
そこから、平静であった心の動きが、怒りで激しくなることを「業を煮やす」というようになりました。
「業が煮える」や「業を沸かす」も、同じ用法からです。
7.極道(ごくどう)
「極道」とは、本来仏教用語で仏法の道を極めた者という意味であり、高僧に対し極道者(ごくどうしゃ)と称し肯定的な意味を指すものです。
しかし、江戸時代以降、「侠客(弱いものを助け、強い者を挫く)を極めた人物」を称える時に『極道者』と称したことから、「博徒(ばくちで生計を立てる者)」までも極道と称するようになりました。
そのため、本来の意味を外れ「道楽を尽くしている者」、「ならず者」や「暴力団員」と同義語で使われる逆の意味で使用されることが多くなりました。