林鶴梁とは?幕末の文人代官で、彼の文章は夏目漱石や三田村鳶魚も愛読した!

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林鶴梁・肖像画

林鶴梁という名前を聞いても、いつごろのどんな人物なのかをご存知の方は皆無に近いのではないでしょうか?実は私も、つい最近まで知りませんでした。

前にもこのブログで書きましたが、私は夏目漱石の大ファンで、いろいろ調べている中で、談話筆記『余が文章に裨益(ひえき)せし書籍』(下に引用)の中に、「林鶴梁全集も面白く読んだ」と書いてあるのを発見しました。

文章鍛錬上に最も多く裨益した書籍、文章と、特に挙げていうべきものはないが、先ず自分が好きな作家をいえば、英文ではスチブンソン、キップリング、其他(そのた)近代の作家である。いずれも十九世紀の初め頃のと違い、文章に力があって間緩(まだるっ)こくない。(ワシントン・)アーヴィングの『スケッチブック』は、我が国人間に非常に愛読されたもので、その文章は美しくなだらかであるが、惜しいことには力がない。これは十九世紀の初期頃のに通じての弊である。自分はかかる類の書物は好まない。また写実的のものでは、スウィフトのガリバーズ・トラベルス(『ガリヴァー旅行記』)が一番好きだ。多くの人はこれを名文とは思わないが、これは名文の域を通り越しているから、普通人には分らぬのである。実に達意で、自由自在で、気取っていない、ケレンがない、ちっとも飾った所がない。子供にも読めれば、大人も読んで趣味を覚える。誠に名文以上の名文であると自分は思う。

次に国文では太宰春台の『独語』大橋訥庵の『闢邪小言』(へきじゃしょうごん)などを面白いと思った。何(いず)れも子供の時分に読んだものであるから、此所(ここ)が何(ど)うの、彼所(あそこ)が斯(こ)うのと指摘していうことは出来ぬが、一体に漢学者の片仮名ものは、きちきち締っていて気持がよい。

漢文では享保時代の徂徠一派の文章が好きである。簡潔で句が締っている。安井息軒の文は今も時々読むが、軽薄でなく浅薄でなくてよい。また林鶴梁の『鶴梁全集』も面白く読んだ。

また、明治の文章では、もう余程以前のことであるが、日本新聞に載った鉄崑崙(てつこんろん?)という人の『巴里通信』を大変面白いと思った。其頃ひどく愛読したものである。因に云うが、鉄崑崙は今の東京朝日の池邊氏(三山・いけべさんざん)であったそうである。

一体に自分は和文のような、柔かいだらだらしたものは嫌いで、漢文のような強い力のある、即ち雄勁なものが好きだ。また写生的のものも好きである。けれども俳文のような、妙に凝った小刀細工的のものは嫌いだ。俳文は気取らないようで、ひどく気取ったものである。これを喜ぶのは、丁度楽隠居が古茶碗一つをひねくって嬉しがるのと同じ事だ。徒(いたずら)にだらだらした『源氏物語』、みだりに調子のある「馬琴もの」、「近松もの」、さては『雨月物語』なども好まない。「西鶴もの」は読んで面白いとは思うが、さて真似る気にはなれぬ。漢文も寛政の三博士以後のものはいやだ。山陽や小竹のものはだれていて厭味である。自分は嫌いだ。

そこで今回は、林鶴梁についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.林鶴梁とは

林鶴梁(正しくは「かく」は「雨」冠に「鶴」の林靏梁)(はやし かくりょう)(1806年~1878年)は、江戸後期から明治期の幕臣・儒学者です。鶴梁と号し、堂号を十七種素芳堂といいました。

2.林鶴梁の生涯

(1)生い立ちから仕官まで

林鶴梁(1806年~1878年)は、上野国群馬郡萩原村(群馬県高崎市)に生まれました。幼名は長孺。鐵蔵、伊太郎の通称を持っています。

江戸に出て御家人株を買い幕吏林氏を継ぎました。はじめ遊侠の徒と交わりましたが悔悟し、松崎慊堂(こうどう)や長野豊山(ぶざん)に師事しました。

(2)下役人から奥火元番に抜擢され、学問所学頭を経て代官に昇進

最初は御箪笥同心という下役人でしたが、彼の文才に注目した藤田東湖の推挙を得て奥火元番に抜擢され、昇進の道を得ました。

甲府勤番師弟の学問所である「徽典館(きてんかん)」(山梨大学の前身)の学頭など諸役を歴任しました。

1853年(嘉永6年)、遠江国中泉(静岡県磐田市)代官に昇進しました。

当時遠州の天領では、前任の代官岡崎兼三郎が病気のため死去したあとで、その役人と結んで悪事を働いたと疑われた郡中総代(ぐんちゅうそうだい)や郷宿(ごうやど)が、民衆の非難を浴び大きな騒ぎになっていました。

幕府はこれを鎮めるために、鶴梁を選んで派遣しました。鶴梁は罪人を出すこともなく、寛大な処分で年内にはほとんど解決することに成功し、遠州の人々の信頼を得ることができました。

翌1854年(嘉永7年)正月10日、黒船(ペリー提督の率いるアメリカ東インド艦隊)が御前崎沖を東へ進むとの急報があり、直ちに江戸へ通報すると共に、浜松、掛川、横須賀の各藩に警戒防禦(ぼうぎょ)のため出兵を要請し、鶴梁自身も12日の夜明け中泉陣屋を出発、御前崎に出陣し諸藩を指図しました。

黒船は去って14日には帰陣しましたが、身心の疲労が重なり体調を崩しました。

1854年(嘉永7年)11月4日午前9時頃、震源地が駿河湾沖と推定されている大地震が襲来しました。中泉陣屋の建物の多くは倒れ、市域の町や村も大きな被害があり、鶴梁は配下の役人と被害地を見て廻り、江戸へ報告するとともに、救済活動を始めました。

窮民(きゅうみん)に備蓄米(びちくまい)やお金を支給するだけでなく、山伏を集めて中泉陣屋内で7日間にわたり地震鎮め(しずめ)の大護摩祈祷会(おおごまきとうえ)を行い、鶴梁自身も断食(だんじき)して祈りました。

1855年(安政2年)7、8、9月と地震で傷んだ堤が破れ、大水害が続いて起こり、鶴梁は遠江・三河の幕領の村々を見て廻り米金を与え見舞いました。

このような度重なる災害の経験から鶴梁は、従来の備蓄方法では1ヵ月ほどしか支えられないため、永続して窮民を救済する方法を考案し、「恵済倉(けいさいぐら)」と名づけました。

この事業は後任の代官にも引継がれ、明治になって「資産金貸付所」創設の資金となり、公共のために役立ちました。窮民救済の考え方も長く引継がれました。

また鶴梁は三河、遠江の支配地を廻り、詳細で正確な地図の作成の必要を感じ、新しい三遠(さんえん)地図を作りました。

このような実績によって、鶴梁は幕閣の信を得ました。

出羽国柴橋(山形県寒河江市)代官時代には、銅山開発に努め功績をあげました。外圧に対しては藤森天山らと鎖港を主張しました。

1863年(文久3年)には和宮様下向の御馳走賄御用」役となり、翌年には御納戸役に昇進し、さらに新撰組の前身である新徴組の支配役になりました。

その後、昌平坂坂学問所頭取を務め、明治維新を迎えます。

羽倉簡堂や安井息軒などと共に、実務と文事の均衡のとれた江戸後期特有の文人代官の一人(代官三学)で、特に文章に秀でていました。

(3)師匠および親交のあった有名な藩主・幕臣・学者・志士

佐藤一斎、松崎慊堂、長野豊山(儒学)、渡辺崋山、箕作阮甫(洋学)、窪田清音(長沼流兵学)に師事しました。

その卓越した学問と見識によって、水戸藩主・徳川斉昭、信州松代藩主・真田幸貫、福井藩主・松平慶永、佐賀藩主・鍋島直正、土浦藩主・土屋寅直といった幕末の名君と親交がありました。

川路聖謨、岩瀬忠震、大久保一翁、羽倉簡堂などの幕臣、佐久間象山、若山勿堂、岡本秋暉ら学者と深く親交し、会沢正志斎、大久保要、橋本左内ら志士とも意見を交わしています。

遠州の代官時代には、国学者・石川依平、画家・福田半香、三宅鴨渓、医師・渡辺玄知、袋井宿の孤瑟と親しい間柄でした。

彼の生きた時代は、「ペリーの二度の来航」があり、「日米和親条約・通商条約の締結」とこれをめぐる朝廷と幕府との対立、さらに将軍継嗣問題に端を発した「安政の大獄」「桜田門外の変」などが次々と起こる激動・動乱の幕末へ歴史の歯車が回り始める時でした。

この時期にたまたま遠州中泉・羽州柴橋の代官だった彼は、時局を憂える思いや尊王攘夷の熱意は抱きながらも、管内の治安維持や民生の安定、災厄に苦しむ民衆の救済など代官の職務に全力を尽くしました

彼は幕末という波乱に満ちた大きな時代の流れの中で、その流れに直接関わりを持ちながら、最後まで歴史の表舞台に出ることもなく、ただ一幕吏として誠実に職責を果たし、やがてその幕府と運命を共にして終わりました

(4)明治維新後は新政府に出仕せず、あくまで幕臣として生きた

薩摩藩家老の小松帯刀から、新政府への仕官を勧められましたが断り、麻布谷町にある屋敷の漢学塾「端塾」で後進の指導に当たり、余生を送りました。

その門下生には、犬養毅も名を連ねています。

維新後も幕臣であることを貫き通し、外出の際は「何の面目あって天日を仰がん」と深編笠を被るほどであったと言われます。

純白を愛し、身辺ことごとく白い花木その他で埋めていたそうです。

(5)死去

林鶴梁の墓

1878年(明治11年)1月16日、「我、病の為に身を滅ぼさる。しかれども、武士たるもの婦女子の手に依り、枕にもたれて死すべきにあらず」と言って、床の上で大小両刀を握り、端座したまま73年の生涯を閉じました。

墓所は東京都港区赤坂にある澄泉寺です。

1915年(大正4年)、正五位を追贈されました。

(6)エピソード

・出身が赤城山に近いことで土地勘があったと推測できることなどから、小栗忠順とともにしばしば「徳川埋蔵金の実行役」として登場します。

・柴橋代官時代に、当地を鎌倉時代から戦国時代まで治めた寒河江氏最後の当主寒河江高基の墓碑が、死後280年余りも無い状態であることを哀れみ、終焉の地(御楯山)に墓碑を建立しました。

3.「鶴梁文鈔」「林鶴梁日記」とは

林鶴梁日記林鶴梁日記

林鶴梁が漢文で著した「靏梁文鈔」(かくりょうぶんしょう)は、夏目漱石(1867年~1916年)や江戸文化・風俗の研究家である三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870年~1952年)など明治時代のインテリ青年の愛読書として知られます。

また「林靏梁日記」(はやしかくりょうにっき)は、彼が38歳から56歳までの19年の間に書き続けた日記で、当時の世相が解る書物として高い評価を受けています。

小説家の夏目漱石が少年時代に愛読した「林鶴梁全集」は、鶴梁が漢文で書いた著作集「鶴梁文鈔」を指すと思われます。

幕末の1867年(慶応3年)生まれの漱石は、子供の頃から漢文に親しむ環境に育ち、成人後も「文学」と言えば、中国古代の史書「左・国・史・漢」(*)であって、また一概に文学といっても、従来から漢学でいわれるそれと、英文学とは異質なものという意識を持ち続けたようです(『文学論』)。

(*)「春秋左伝」「国語」「史記」「漢書」の四書を略していう語。中国古代の代表的な歴史書、文学書とされ、日本では中古以来、教科書として用いられました。

 余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。(中略)
卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。(中略)
翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。
大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。(中略)余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。
(『文学論』序)

漢詩文を得意とした漱石には、正岡子規が感服した『木屑録(ぼくせつろく)』という漢文の作品があり、生涯漢詩の創作を続けました。

また、漱石より3歳下で大正から昭和にかけて江戸研究の大家となった三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は、『快男子喜剣』という小文で次のように述べています。

私どもの少年の頃、誰も彼も「鶴梁文鈔」を読みましたが、往々暗誦する者もあって、散歩の途上などで、朗々と得意に読み立ててもいました。

これを見ると、この本(「鶴梁文鈔」)が明治から大正にかけて、若い人たちの間に愛読書として広く読まれていたことがわかります。

今でこそ名前を知る人は稀になりましたが、戦前の昭和前期までは、この「鶴梁文鈔」の文章が、旧制中学の漢文教科書に採用されるほどによく知られていたそうです。

4.「漢文教育強化」の必要性(私の個人的意見)

余談ですが、我々「団塊世代」も高校で漢文を学びましたが、よほどの「漢文好き」は別として、自分で漢詩文を作れるほど習熟した人はほとんどいないのではないかと思います。

夏目漱石より約80年後に生まれた我々でさえ、この程度なので、現代の若者はなおさら縁遠いと思います。

中国では漢字を簡略化した文字(「簡体字」)を使用するようになりましたので、歴史書を含め古い時代の書物を読める人は随分少なくなったと思います。

韓国ハングル文字を使用して漢字教育を廃止(たぶん北朝鮮も同様)したので、漢字の読めない人が大多数になっているようです。したがって、中国と同じように、歴史書を含め古い時代の書物を読める人は随分少なくなったと思います。

これらの国の「漢字政策」は、「愚民政策」とも言うべきもので、自国の正しい歴史や古来の文学を学ばせない意図(悪意)があるように私は感じます

日本も戦後、「国語改革」という愚策によって、漢字の簡略化(「旧字体」から「新字体」への移行)や使用制限(「当用漢字」「常用漢字」)が行われました。また、日本語を「ローマ字」にしたり「フランス語」にするという暴論とも呼ぶべき極端な提案さえありました。その結果、我々「団塊世代」でも旧字体・旧仮名遣いで書いた文章はすらすら読めません。

今こそ「漢文教育の強化」が必須ではないかと私は思います。