日本語の面白い語源・由来(た-⑪)達磨・旅・沢庵・黄昏・大根役者・旦那・大正海老・壇尻

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ダルマ

日本語の語源には面白いものがたくさんあります。

前に「国語辞典を読む楽しみ」という記事を書きましたが、語源を知ることは日本語を深く知る手掛かりにもなりますので、ぜひ気楽に楽しんでお読みください。

以前にも散発的に「日本語の面白い語源・由来」の記事をいくつか書きましたが、検索の便宜も考えて前回に引き続き、「50音順」にシリーズで、面白い言葉の意味と語源が何かをご紹介したいと思います。季語のある言葉については、例句もご紹介します。

1.達磨(だるま)

白隠慧鶴筆『達磨図』

<白隠慧鶴筆『達磨図』>

だるま」とは、中国禅宗の始祖、菩提達磨の座禅姿を模して作った張り子の人形です。倒してもすぐ起き上がるように作られていることから、商売繁盛・開運出世などの縁起物とされます。起き上がり小法師(こぼし)。

だるまは、サンスクリット語「Bodhi-dharma」の音写「菩提達磨」の略で、「dharma」の原義は「法」を意味します。

手足のない玩具(置物)としての「だるま」が作られたのは、菩提達磨(円覚大師、達磨大師とも)が、魏の嵩山(すうざん)にある少林寺で面壁九年を行い、その座禅によって手足が腐ったという伝説からといわれます。

日本では底に重りをつけただるまが愛好され、何度も起き上がるという連想から、江戸中期以降に「七転び八起き」の縁起物として信仰されるようになりました。

全体に赤く塗られただるまが基本的なものですが、これは菩提達磨の衣を着ていたことに由来し、赤は古くから魔除けの色とされていたことにも通じます。

願い事ができた時にだるまの片目を墨で塗り、達成したらもう一方の目を塗る風習は、養蚕農家が片目に墨入れをして願掛けをしたら、良い繭が出来たという話が商人の間に広まったためといわれます。

また、だるまに目を入れる順序は正式には決まっていませんが、左目を塗って祈願し成就したら右目を入れるのが一般的で、選挙の場合は右目から塗り、当選したら左目を入れるのが一般的とされます。

「福達磨」「達磨市」は新年の季語、「達磨忌」は冬の季語で、次のような俳句があります。

・福達磨 重なり糶(う)らる荒筵(北村風居)

・境内が 一日赤き 達磨市(池谷晃)

・達磨忌や 宗旨代々 不信心(炭太祇)

・達磨忌や 箒で書し 不二の山(小林一茶

2.旅(たび)

旅

」とは、住む土地を離れて、一時、他の土地に行くことです。旅行。

旅の語源には、「たどる日」「他日(たび)」「外日(とび)」「外辺(たび)」「飛(とび)」「発日(たつび)」「他火(たび)」「給(たべ)」のほか数多くの説があります。

古くは、遠い土地に限らず、住居を離れることをすべて「たび」と言いました。

その意味では、「たどる日」「外辺」「発日」あたりが妥当と考えられます。

また、旅は多くの危険にさらされる苦しいものと考えられていたため、「他日」や「外日」など別の地で過ごすことから「たび」となったものか、他の家で調理したものを頼る意味で「他火」や、食物を貰う意味で「給(たべ)」からとも考えられます。

「飛(とび)」の説は、飛行機がない時代なので、遠くへ行く意味と解釈できますが、上記のように、旅は遠い場所と限られていません。

また、「旅」の語が使われ始めた時代、「飛ぶ」は空中を行く意味に限られているため、「飛(とび)」が旅の語源とは考え難いものです。

3.沢庵(たくあん)

沢庵

たくあん」とは、生干し大根を塩と糠で漬けたものです。「たくわん」とも。

沢庵禅師

たくあんは「沢庵漬け(たくあんづけ)」の略ですが、たくあんの語源には、江戸初期の臨済宗の僧 沢庵和尚が作り始めた、もしくは広めたからや、沢庵和尚の墓石が漬物の石に似ているからなど、沢庵和尚に由来する説。
「貯え漬け(たくわえづけ)」が音変化し、「たくあん漬け」になったとする説。
西日本で糠と塩で漬け込んだものを「じゃくあん」と呼んでいたことから、転じて「たくあん」になったとする説があります。

「たくあん」のような食べ物は、既に平安時代から作られていたため、沢庵和尚の説を否定されることもあります。

しかし、米ぬかが普及したのは江戸初期のため、この食べ物が一般に普及した際、沢庵和尚が何らかの形で関わっていたとも考えられます。

また、「貯え漬け」や「じゃくあん」が音変化した後、沢庵和尚と関連付けられて「沢庵」の字が当てられたとも考えられ、どちらが先であるか不明です。

「たくあん」は主に関東で使われていた呼び名で、西日本では「百本漬け」や「香の物」と呼んでいたため、「じゃくあん」に関しては語源が反対で、「たくあん」の音変化したものが「じゃくあん」という見方もされています。

「沢庵漬(たくあんづけ)」は冬の季語で、次のような俳句があります。

・来て見れば 沢庵漬の 石一つ(服部嵐雪)

・大根漬けて 来年近く 迫りけり(赤木格堂)

・沢庵や 家の掟の 塩加減(高濱虚子

・沢庵漬 了(お)へし構の 庭冱(い)てぬ(瀧春一)

4.黄昏(たそがれ)

黄昏

黄昏」とは、夕方の薄暗いとき、夕暮れ、盛りを過ぎて衰えの見え始めたところのことです。動詞形は「黄昏れる(たそがれる)」、文語形では「黄昏る(たそがる)」。

黄昏を古くは「たそかれ」と言い、江戸時代以降「たそがれ」となりました。
「たそかれ(たそがれ)」の語源は、「誰そ彼」です。

薄暗くなった夕方は人の顔が見分けにくく、「誰だあれは」という意味で「誰そ彼(たそかれ)」と言ったことから、「たそかれ(たそがれ)」が夕暮れ時を指す言葉となりました。

また、「たそがれ」は日の盛りを過ぎた頃であることから、盛りを過ぎた頃、特に、人生の盛りを過ぎた年代のたとえにも使われるようになりました。

黄昏の語源には、農夫が田んぼから退き、家に帰る時刻であることから、「田退(たそかれ)」とする説もあります。

しかし、明け方をさす言葉に「かわたれ時」があり、その語源は「彼は誰(かはたれ)」であることから、「誰そ彼」を語源とする説が妥当です。

漢字の「黄昏」は当て字で、本来は「こうこん」と読みます。

5.大根役者(だいこんやくしゃ)

大根役者

大根役者」とは、演技力のない下手な役者のことです。

文献上は、「大根役者」よりも「大根」のみで用いられた例が多いようです。

そのため、もとは単に「大根」と言っていましたが、野菜を指している訳ではないことを明確にするために「役者」が付け加えられ、「大根役者」になったと考えられます。

しかし、下手な役者を「大根」と呼ぶようになった由来は分かっておらず、語源は以下のとおり諸説あります。

大根は白いことから「素人」とかけたとする説や、下手な役者ほど白粉(おしろい)を塗りたくることとかけたとする説など、大根の白さを語源とする説。
大根は滅多に食あたりしないことから、「当たらない役者」の意味に由来する説。
大根の鈍重な形から連想したとする説。

6.旦那(だんな)

旦那

旦那」とは、妻が夫を、商家の奉公人が主人を、商人や役者・芸人がひいきしてくれる客を呼ぶときに用いる敬称です。パトロン。

旦那は、元仏教語でサンスクリット語「ダーナ」の音写です。

「ダーナ」は「与える」「贈る」の意味で、「ほどこし」「布施」などと訳され、「檀那」とも書きます。

中国や日本では、旦那は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として、主に僧侶が用いる言葉でした。

やがて、一般にも「旦那」の語は広まり、「パトロン」のように生活の面倒を見る人の意味で用いられるようになりました。

さらに、旦那は「面倒を見る人」「お金を出してくれる人」といった意味から派生し、奉公人が主人、商人が客、妻が夫を呼ぶときの敬称として用いられるようになり、現代では主に妻が夫を呼ぶ敬称として用いられます。

旦那の語源には、「ダーナ」が西洋に伝わり「マドンナ」や「マダム」などに変化したという説から、「旦那は女だった」などとするものも過去に見られました。

しかし、「ダーナ」が「マドンナ」や「マダム」の語源とする説はあまり有力とされていません。

仮に「ダーナ」が「マドンナ」や「マダム」の語源であったとしても、旦那の語源は「ダーナ」であり、「マドンナ」や「マダム」が語源ではないため、旦那が女性を指す言葉であったとするのは間違いです。

7.大正海老(たいしょうえび)

大正海老

大正海老」とは、クルマエビ科の大形のエビで、高麗蝦(コウライエビ)の別称です。体長20~27センチ。半透明の淡灰色。中国の黄海や渤海湾に棲息します。

大正海老は、大正11年(1922年)、当時の日本で最大のエビ取扱業者『林兼商店』と共同漁業(のちの日本水産)の子会社『日鮮組』が、共同事業『大正組』を興し、市場に送り出した際の名前です。

『大正組』の名前は年号の「大正」に由来しますが、「大正海老」は社名の『大正組』にちなんだもので、年号と直接関係するものではありません。

8.壇尻/楽車(だんじり)

だんじり

だんじり」とは、関西で祭礼のときに引く山車のことです。岸和田のだんじり祭りが有名。

だんじりの語源は諸説あり、屋台をじりじりと動かすことから、「台ずり」が転じたか「台躙り(だいにじり)」が転じた説。
「山車(だし)」が一部方言化された説。
道教や密教で「祭場」や「塚」を意味する「壇」を引きづる意味から、「だんじり」になったとする説などがあります。

その他、後醍醐天皇の孫に当たる尹良親王が信州大川原で自害させられ、その子である良王親王が家臣に命じて仇敵の台尻大隅守を滅ぼし、その時「台尻討った」と皆が喜びはやした言葉が尾張津島天王の祭礼に残り、「台尻」が訛って「だんじり」になったとする説があります。

この近郊地域では、主に「山車」が用いられますが、尾張津島天王祭では「だんじり船」と言われ、注目に値します。

だんじりの漢字は「壇尻」や「楽車」のほか、「台尻」「地車」「花車」「屋台」など多くの漢字が当てられいているため、これらに語源をもとめることは無意味です。

岸和田だんじり祭りの由来は、元禄16年(1703年)、岸和田藩主であった岡部長泰公が、京都伏見稲荷を岸和田城内の三の丸に祀り、五穀豊穣を祈願した稲荷祭が始まりとされます。

当初のだんじりは簡素なもので、現在のようなだんじりが曳かれるようになったのは、文化・文政期頃といわれます。