チャップリンと言えば、喜劇王として大変有名ですね。
山高帽にちょび髭、ぴちぴちのスーツにだぼだぼのズボン、ステッキを片手にドタ靴をはいて、ペンギン歩き。怖い人は苦手だけど、弱い者を救うためなら勇敢に立ち向かう、お茶目な放浪の紳士、チャーリーとして、知らない人はないと思います。
『黄金狂時代』『街の灯』『モダン・タイムス』『独裁者』『殺人狂時代』『ライムライト』など有名な映画もたくさんあります。
しかし、チャップリンがどんな人物で、どのような生涯を送ったのかについては、詳しくご存知の方は少ないと思います。
そこで今回は、チャップリンの生涯と人物像について、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.チャップリンとは
チャールズ・スペンサー・チャップリン (Sir Charles Spencer Chaplin)(1889年~1977年)は、イギリス出身の映画俳優・映画監督・脚本家・映画プロデューサー・作曲家です。
サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者」(the Little Tramp)を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられています。
ドタバタにペーソスを組み合わせた作風(日本で言えば、渋谷天外と藤山寛美による「松竹新喜劇」に似た作風)が特徴で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられています。
チャップリンのキャリアは70年以上にわたりますが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となりました。
チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送りました。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー劇団と契約しました。
そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューしました。
チャップリンはすぐに「小さな放浪者」を演じ始め、自分の映画を監督しました。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社、ファースト・ナショナル社と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにしました。
1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表しました。
『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行しましたが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下しました。
1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住しました。
しかし1972年の第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞、アメリカでの授賞式に招かれました。
2.チャップリンの生涯と人物像
(1)初期の人生(1889年~1913年)
①生い立ちと子供時代
1889年4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父のチャールズ・チャップリン・シニア(以下チャールズ)と母のハンナ・チャップリンとの間に生まれました。
チャップリンは自伝で、ロンドン南部のウォルワース(現在のサザーク区)のイースト・ストリートで生まれたとしていますが、公式の出生記録は存在していません。
両親は4年前に結婚しましたが、ハンナはその時までに非嫡出子のシドニー(1885年~1965年)(上の写真)(後にチャップリンのビジネスマネージャーとして活躍)を出産していました。両親は共にミュージック・ホールの芸人で、チャールズは人気歌手でしたが、ハンナは芽の出ない女優でした。
1891年までに両親は別居し、翌1892年にハンナは夫の芸人仲間のレオ・ドライデンとの間にジョージ・ウィーラー・ドライデン(1892年~1957年)(上の写真)(後に異父兄のシドニーとともにチャップリンの片腕として活躍し、チャップリンに関する資料を片っ端から保管するほどチャップリンを崇拝)を出産しましたが、ジョージは生後6ヶ月でレオに強引に連れ去られ、それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはありませんでした。
幼少期のチャップリンは、現在のランベス区内のケニントンでハンナとシドニーと生活していましたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、父親のチャールズは養育費さえも支払いませんでした。
貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーとランベス救貧院に収容され、すぐにハンウェルにある孤児や貧困児のための学校に移されました。
<ハンウェルの学校における7歳のチャップリン(上から3列目の中央)>
1898年1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送りましたが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス救貧院に収容されました。
救貧院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されましたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごしました。
三人はシドニーが手に入れた9ペンスで昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に救貧院に再収容されました。チャップリンは収容後すぐにノーウッドにある貧困児のための学校に移されました。
1898年9月、ハンナは栄養失調と梅毒を原因とする精神病を発症したため、ケイン・ヒル精神病院に収容されました。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られました。
チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていませんでした。チャールズは重度のアルコール依存症に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものでした。
11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めました。チャールズは1901年に肝硬変のため38歳で亡くなりました。
②舞台デビュー
チャップリンの初舞台は5歳の時でした。オールダーショットの劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにしました。
チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びました。この舞台出演は一時的なものでしたが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになりました。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べています。
1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて、木靴ダンスのエイト・ランカシア・ラッズの座員となり、1899年から1900年にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業しました。
チャップリンは懸命に働き、舞台も人気を得ていましたが、やがてダンスだけでは満足せず、コメディアンになることを夢見るようになりました。
チャップリンはエイト・ランカシア・ラッズと行動を共にした数年間、巡業先の学校を転々として通っていましたが、13歳までに学業を断念しました。
チャップリンは俳優になるという目標を持ちながら、生活のために食品雑貨店の使いの小僧、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など、さまざまな仕事を経験しました。
1903年5月にハンナは病気が再発し、再びケイン・ヒル精神病院に送られました。8ヶ月後にハンナは退院しましたが、1905年3月に再び病状が悪化したため入院し、それ以降は病状が完全に回復することはありませんでした。
自伝では「もはや諦めて母の運命を受け容れるしかなかった」と述べています。ハンナは1928年8月に亡くなり、チャップリンはその後数週間もショックで立ち直れなかったそうです。
1903年にハンナが入院した直後、チャップリンはウエスト・エンドにある俳優周旋所に名前を登録しました。まもなく興行主チャールズ・フローマンの事務所の紹介で、俳優H・A・セインツベリーの舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられました。
舞台は1903年7月に開幕し、チャップリンのコミカルで快活な演技は批評家の賞賛を受けましたが、舞台自体は成功せず2週間で打ち切られました。
<舞台『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じた10代のチャップリン>
続いてフローマンが興行する『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じ、3度の全国巡業に参加しました。
1905年9月の3度目の巡業中には、ホームズ役者で有名なウィリアム・ジレットの舞台に出演するためロンドンに呼ばれ、10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じました。
1906年初頭に4度目の『シャーロック・ホームズ』の全国巡業に参加し、これを最後に2年半以上演じてきたビリー役と別れを告げました。
③フレッド・カーノー劇団
チャップリンはすぐに新しい劇団で仕事を見つけ、1906年3月にスケッチ・コメディー『修繕』の巡業に異父兄シドニーとともに参加しました。同年5月にはケイシーズ・コート・サーカスの子供グループに参加し、1907年7月に退団するまで花形コメディアンとして活躍しました。
しかし、チャップリンは次の仕事先を見つけるのに苦労し、しばらく失業状態となりました。この頃にユダヤ人のコメディアンとして一人で舞台に立とうと試みましたが、テスト公演をしたのがユダヤ人地区の劇場にもかかわらず、反ユダヤ的なギャグを含む出し物をしたため、観客の野次を浴びて大失敗しました。
一方、異父兄シドニーは1906年にコメディの名門フレッド・カーノー劇団に入り、花形コメディアンになっていました。1908年2月、シドニーは失業中のチャップリンに仕事を与えるようカーノーに頼み、チャップリンは2週間のテスト出演のチャンスを貰いました。
カーノーは当初、チャップリンを「青白くて発育の悪い、無愛想な若者」「舞台もろくにできないぐらいの恥ずかしがり屋」と見なしていました。
しかし、チャップリンはロンドンのコロシアム劇場で行われたテスト出演で、「パントマイム」を披露したりアドリブのギャグで笑いを取ったことが認められ、2月21日にカーノーと契約を交わしました。
カーノー劇団でのチャップリンは脇役を演じることから始まり、1909年に主役級を演じるようになりました。
なかでも酔っ払いがドタバタを巻き起こす『啞鳥』が当たり役でした。1910年4月には新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収め、批評家の注目を集めました。同年10月、チャップリンはカーノー劇団のアメリカ巡業に参加し、批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評されました。
最も成功した演目は『イギリス・ミュージックホールの一夜』(『啞鳥』の改題)で、その演技でアメリカでの名声を獲得しました。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、1912年6月にイギリスに帰国しましたが、10月には再びアメリカ巡業に参加しました。
(2)映画スターに(1914年~1922年)
①キーストン社時代
1913年、チャップリンは2度目のアメリカ巡業中にニューヨーク映画会社の支配人アダム・ケッセルから、傘下のキーストン社と契約する話を受けました。
キーストン社はテンポの早いドタバタの短編喜劇を量産していた会社で、すでに退社した人気スターのフレッド・メイスの穴を埋める俳優を探していました。
チャップリンはキーストン社の作風をあまり好みませんでしたが、舞台の仕事に代わるものを求めていたこともあり、9月25日に週給150ドルで契約を交わしました。
12月初旬にチャップリンはスタジオがあるロサンゼルスに到着し、撮影所長のマック・セネットと対面しました。セネットはチャップリンの容貌が若すぎることに不安を感じましたが、チャップリンは「老けづくりなら簡単にできる」と返事しました。
1914年1月末までチャップリンは映画に使われず、その間は映画製作の技術を学ぶための見学に充てられました。
チャップリンの映画デビュー作は、2月2日公開の『成功争ひ』です。この作品でチャップリンが演じたのは、洒落たフロックコートにシルクハット、モノクル(片眼鏡)を付け、八の字髭を生やした扮装の、女たらしの詐欺師です。
<『成功争ひ』でのチャップリン(右端)>
チャップリンはこの作品を嫌いましたが、マスコミはその演技に早くも注目し、「第一級のコメディアン」と賞賛する業界紙もありました。
チャップリンは2本目の出演作のために、セネットの指示で喜劇の扮装を決めることになり、トレードマークとなる「小さな放浪者」(the Little Tramp)の扮装を作り上げました。
チャップリンの自伝によると、衣裳部屋に行く途中でふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、ステッキと山高帽という組み合わせを思いついたそうです。自伝では扮装の狙いについて、以下のように述べています。
だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった。
年恰好のほうは若くつくるか年寄りにするか、そこまではまだよく分からなかったが…とりあえず小さな口髭をつけることにした。
こうすれば無理に表情を隠す世話もなく、老けて見えるにちがいない、と考えたからである。
その2本目の作品は『メーベルの窮境』(1914年2月9日公開)ですが、それよりも後に撮影された『ヴェニスの子供自動車競走』の方が2日早く公開されたため、『ヴェニスの~』が小さな放浪者の扮装を初めて観客に披露した作品となりました。
<『ヴェニスの子供自転車競走』の一場面>
チャップリンはこれを自身の映画のキャラクターに採用し、自分からギャグを提案したりもしましたが、監督のヘンリー・レアマンやジョージ・ニコルズとは意見が合わず、対立を繰り返しました。
11本目の出演作『メーベルの身替り運転』では、監督兼主演のメイベル・ノーマンドと衝突したことで解雇寸前にまで至りましたが、ニューヨークから「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」との電報が届いたため、チャップリンの解雇は回避され、彼に対するセネット(撮影所長)たち周囲の態度も軟化しました。
チャップリンはそれに乗じて、作品が失敗したら1500ドルを支払うという条件で、自分で映画を監督することをセネットに認めさせました。
チャップリンの監督デビュー作は、1914年4月20日公開の『恋の二十分』です。監督2作目の『とんだ災難』はその時点までで最も成功したキーストン社作品の1本となりました。
その後、チャップリンは1週間に1本のペースで新作の短編映画を監督・主演し、ショットの組み立てやストーリー構成などの映画技術を貪欲に身に付けていきました。
自伝ではこの時期を「いちばん張りのあったすばらしい時期」としています。チャップリンの人気も高まり、その名前が出ただけで大ヒットが約束されるようになると、キーストン社内でのチャップリンの発言力も高まりました。
同年11月、セネットが監督した長編コメディ『醜女の深情け』で主演のマリー・ドレスラーの相手役を演じましたが、これが他監督のもとで出演した最後の公式映画となりました。
同年末、チャップリンはセネットと契約更新の話をし、週給1000ドルを要求しましたが拒否され、契約更新の話もそれで打ち切られました。
②エッサネイ社時代
キーストン社と契約満了をもって退社が確定したチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたシカゴのエッサネイ社に移籍し、1914年12月下旬にスタジオに参加しました。
チャップリンはレオ・ホワイトやベン・ターピンなどの俳優を集めてグループを作り、同社2作目の『アルコール夜通し転宅』ではサンフランシスコのカフェで見つけた19歳のエドナ・パーヴァイアンス(1895年~1958年)(下の写真)を相手役に採用しました。
パーヴァイアンスとは8年間に35本の映画で共演し、1917年までプライベートでも親密な関係を築きました。
チャップリンはそれまで会社の製作慣習に従い、流れ作業のように映画を作り続けてきましたが、この頃から慣習には従わない姿勢を打ち出し、より時間をかけて映画を作るようになりました。
『アルコール夜通し転宅』と次作の『チャップリンの拳闘』とでは封切り日に27日の間があり、それ以後の作品はさらに封切りの間隔が広がりました。
この時期にチャップリンは「小さな放浪者」のキャラクターを変え始めました。キーストン社時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かったのですが、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化しました。
1915年4月公開の『チャップリンの失恋』はキャラクターの変化のターニングポイントとなる作品と考えられています。
この作品では放浪者がヒロインに失恋し、ラストシーンで一本道をとぼとぼと歩き去る姿が描かれています。このシーンはその後の作品でも数通りに変化させて使用されました。
チャップリン研究家の大野裕之氏は、この作品を「孤独な放浪者のロマンスというチャップリン・スタイルの芽生え」であるとしています。
同年8月公開の『チャップリンの掃除番』には悲しげな結末にペーソスが加えられましたが、映画史家のデイヴィッド・ロビンソンはそれがコメディ映画の革新であるとしています。
映画学者のサイモン・ルービッシュは、エッサネイ社時代のチャップリンは「小さな放浪者を定義するテーマとスタイルを見つけた」と述べています。
1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、その人気にあやかって人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたりしました。
<自身の人形を持つチャップリン>
同年7月にモーション・ピクチャー・マガジンのジャーナリストは、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まったと書きました。
チャップリンの人気は世界的に高まり、映画業界で最初の国際的なスターとなりました。12月にエッサネイ社との契約が切れ、自分の価値を認識していたチャップリンは次の契約先に15万ドルのボーナスを要求しました。
ユニバーサル、フォックス、ヴァイタグラフなどの映画会社からオファーを受けましたが、最終的にチャップリンが選んだのは、最も高額な条件を提示してきたミューチュアル社でした。
③ミューチュアル社時代
1916年2月、チャップリンは年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなりました。
現代で言えば、大リーグの大谷翔平のような契約ですね。
その高額な給料は大衆に衝撃を与え、マスコミで広く報道されました。社長のジョーン・R・フロイラーは「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明しました。
チャップリンはロサンゼルスに自分専用のスタジオを与えられ、3月にローン・スター・スタジオとして開設しました。
自身の俳優集団には、エッサネイ社からパーヴァイアンスやホワイトを引き連れ、その後の作品で大きな役割を占めることになるアルバート・オースチンとエリック・キャンベル、そして腹心の友となるヘンリー・バーグマンを新たに加えました。
この頃からチャップリンは「低俗なドタバタ喜劇」という外部からの批判に応え喜劇のスタイルを変えようとしていました。「エリザベス朝のユーモアの表現形式、道化芝居やドタバタ喜劇の粗雑な形式」から離れて「もっと手の込んだより 繊細な演出」への移行を志向したのです。「完璧主義者」という彼の性格が現れてきたようです。
チャップリンはミューチュアル社と、4週間に1本のペースで2巻物の映画を作ることを約束し、1916年中に公開した8本はすべてこの約束に従っていました。
しかし、1917年に入るとこれまで以上に時間をかけて映画を作るようになり、同年に公開した『チャップリンの勇敢』『チャップリンの霊泉』『チャップリンの移民』『チャップリンの冒険』の4本を作るのに10ヶ月を要しました。
これらの作品は多くの専門家により、チャップリンの最良の作品のひとつと見なされています。チャップリンは自伝で、ミューチュアル社時代がキャリアの中で最も幸福な時期だったとしています。
チャップリンは第一次世界大戦で戦わなかったとして、イギリスのメディアに攻撃されました。チャップリンはアメリカで徴兵登録を行い、「祖国の命令には進んで従うつもりである」と声明を出しましたが、結局どちらの国からも召喚されませんでした。こうした批判にもかかわらず、チャップリンは前線の兵士にも人気がありました。
チャップリンの人気は世界的に高まり続け、ハーパーズ・ウィークリー誌は、チャップリンの名前が「世界のほぼあらゆる国に深く浸透している」と報告しました。
その人気ぶりは、1917年に仮面舞踏会に参加した男性の10人のうち9人までがチャップリンの扮装をしたと報告されるほどでした。
舞台女優のミニー・マダン・フィスクは「多くの教養ある芸術愛好家たちが、イギリス出身の若き道化師チャールズ・チャップリンを、天才コメディアンとしてだけでなく、世にも稀な芸術家であると考えるようになってきている」と述べています。
こうした人気ぶりの一方で、チャップリンは数多くの模倣者の出現に悩まされ、彼らに対して法的措置を講じることになりました。
④ファースト。ナショナル社時代
ミューチュアル社はチャップリンの生産本数の減少に腹を立てず、契約は友好的な関係のまま終了しました(ミューチュアル社は新たな8本の映画に対し100万ドルの支払いを提示しましたが、チャップリンは独立を選びました)。
チャップリンは契約スケジュールに縛られた映画作りによる品質低下を懸念し、これまで以上に独立することを望みました。
チャップリンのマネージャーだったシドニーは、「今後どんな契約を結ぶとしても必ず条項にしたいものがひとつある。それはチャップリンには必要なだけの時間と、望み通りの予算が与えられるということである。私たちが目指すのは量ではなくて質なのだ」と表明しました。
1917年6月17日、チャップリンは新しく設立されたファースト・ナショナル社と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結びました。
この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定しました。
チャップリンはハリウッドのサンセット大通りとラ・ブレア通りが交差する角に面した5エーカーの土地に、自前のスタジオであるチャップリン・スタジオを建設し、1918年1月に完成しました。
このスタジオは地域の外観にうるさい近隣住民を安心させるため、イギリスの田舎のコテージが並んだような外見をもつように設計されました。
こうしてチャップリンは自由な映画製作環境を手に入れ、以前よりも膨大な時間と労力をかけて映画を作るようになりました。また、それまでは1巻物や2巻物の短編映画を主に作っていましたが、この頃からは3巻物の中編映画を作るようになりました。
新しい契約先での最初の作品は、同年4月公開の『犬の生活』です。
この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種のピエロとして扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を与えました。チャップリン研究家の大野裕之氏は、この作品で心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したとしています。
この作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり、フランスの映画批評家ルイ・デリュックは「映画史上初のトータルな芸術作」と呼びました。
1918年4月、チャップリンはダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードとともに、第一次世界大戦のための自由公債募集ツアーに駆り出され、約1ヶ月間アメリカ国内を遊説しました。
ワシントンD.C.で演説した時には、興奮の余り演壇から足を滑らし、当時海軍次官補をしていたフランクリン・ルーズベルトの頭上に転げ落ちたそうです。
さらにチャップリンはアメリカ政府のために、公債購入促進を訴える短編プロパガンダ映画『公債』を自費で製作しました。
次作の『担へ銃』では戦争をコメディ化し、小さな放浪者を塹壕の兵士に変えました。周囲は悲惨な戦争からコメディを作ることに反対しましたが、喜劇と悲劇の近似性を意識していたチャップリンの考えは揺るぎませんでした。
この作品は大戦の休戦協定の締結直前に公開され、チャップリン映画として当時最高の興行記録を打ち立てました。
⑤ユナイテッド・アーティスツ時代
『担へ銃』の公開後、チャップリンはより高品質な映画を作るため、ファースト・ナショナル社に製作費の増額を要求しましたが拒否されました。
作品の品質低下の懸念に加え、映画会社が結託してスターのギャラを下げようとしているという噂話を心配したチャップリンは、 1919年2月5日にフェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィスとともに、新会社ユナイテッド・アーティスツを設立しました。
<ユナイテッド・アーティスツの創立メンバー(1919年)。左からダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、チャップリン、D・W・グリフィス。>
同社は共同設立者の4人がそれぞれ独立製作した映画を配給する会社で、雇用主の束縛なしに自由に映画を作ることができるうえに、これまで雇用主に吸い上げられていた利益も手にすることができました。
チャップリンはこの新会社での映画作りを望み、ファースト・ナショナル社に契約解除を求めましたが拒否され、残る6本の契約を消化しなければならなくなりました。
ユナイテッド・アーティスツの設立前、チャップリンは最初の結婚をしました。17歳の女優ミルドレッド・ハリス(1901年~1944年)(下の写真)はチャップリンとの間の子を妊娠したことを明らかにし、チャップリンはスキャンダルを回避するため、1918年10月にロサンゼルスで秘密裏に結婚しましたが、すぐに妊娠は嘘であることが判明しました。
チャップリンは結婚生活に気分が乗らず、結婚が創作力に悪影響を及ぼすと考えていました。事実、11月に次回作『サニーサイド』の撮影を始めましたが、アイデアが湧かなくてスランプに陥り、自伝では「虫歯を抜くような苦労をして作り上げた」と述べています。
1919年にミルドレッドは本当に妊娠し、7月7日に奇形児の息子ノーマン・スペンサー・チャップリンを出産しましたが、わずか3日後に死亡しました。
チャップリンの幼少時代の貧困経験は、次の映画『キッド』に影響を与えたと考えられており、それは小さな放浪者を捨て子の保護者に変えました。
チャップリンは劇場で見つけた4歳の子役俳優ジャッキー・クーガンと契約し、1919年7月に撮影を始めました。撮影は順調に進みましたが、これまで以上の大作になることが分かり、早く新作を求めるファースト・ナショナル社をなだめるため、数週間撮影を中断して急拵えで『一日の行楽』を製作しました。
『キッド』の製作は約1年かかりましたが、その間にミルドレッドとの結婚生活は破綻しました。1920年8月に彼女は離婚訴訟を起こし、『キッド』の撮影済みフィルムを差し押さえようとしました。
チャップリンはそれから逃れるため、州を越えてソルトレイクシティに避難して編集作業を行い、完成後の11月に離婚が成立しました。『キッド』はチャップリンの最初の長編映画で、「笑い」に「涙」を組み合わせたチャップリン特有のスタイルを完成させました。1921年2月に公開されると大ヒットし、3年以内に50ヶ国以上で配給されました。
チャップリンは次回作『のらくら』の製作に5ヶ月を費やしたあと、突如としてヨーロッパ旅行を決断し、1921年9月にロンドン、パリ、ベルリンを訪問しました。
ロンドンとパリでは大群衆の熱狂的な歓迎を受け、著名人との社交生活を送りましたが、ロンドン訪問中は少年時代を過ごしたケニントンを訪れたり、H・G・ウェルズ家に滞在したりもしました。
ベルリンでは大戦でチャップリン映画の配給が遅れたため知名度が低く、熱狂的な歓迎を受けませんでした。。帰国後、チャップリンは旅行記『My Wonderful Visit』を執筆し、残る2本のファースト・ナショナル社との契約を、1922年公開の『給料日』と1923年公開の『偽牧師』で完了させました。
(3)長編映画時代(1923年~1938年)
①『巴里の女性』と『黄金狂時代』
ファースト・ナショナル社との契約を終えたチャップリンは、ようやく独立したプロデューサーとして自前のスタジオで映画を作り、自分の会社で配給するというワンマン体制を手に入れ、完全に自由な映画作りを行うことができました。
そこでチャップリンはパーヴァイアンスを一本立ちしたスターに仕立てるため、ロマンティックなドラマ映画『巴里の女性』を製作しました。
この作品でチャップリンは監督に徹し、主演はせずにノンクレジットでカメオ出演(短い時間で強い印象を与える登場の仕方)するにとどまりました。
チャップリンは俳優に抑制のきいた自然な演技を求め、新しいリアルな演技スタイルを取り入れました。
作品は1923年9月に公開され、その革新的で洗練された表現方法で批評家から高い賞賛を受けました。しかし、一般観客はチャップリンが出てこないチャップリン映画に興味がなく、興行的に失敗しました。作品の出来栄えに誇りを持っていたチャップリンはこの結果に失望し、すぐに作品を劇場から撤退させました。
<『黄金狂時代』(1925年)で靴を食べる小さな放浪者(チャップリン)>
チャップリンは次回作でコメディに戻り、『キッド』以上の作品、それも偉大な叙事詩を作ろうと考えました。
そこでクロンダイクのゴールドラッシュの写真とドナー隊の悲劇に触発されて『黄金狂時代』を製作しました。
この作品では小さな放浪者が孤独な金鉱探しになり、逆境に直面しながら黄金と恋を求める姿が描かれています。飢えをしのぐために靴を食べるシーンや、ロールパンのダンス、崖から落ちる山小屋のシーンなど、チャップリン映画で最も有名なシーンのいくつかも含まれています。
撮影は1924年2月に開始しましたが、600人のエキストラを動員したり、豪華なセットや特殊効果を使用したりするなど、製作はより大規模なものになりました。
撮影日数は約14ヶ月もかかり、製作費は92万ドルを計上しました。1925年8月に公開されると全米で500万ドルの興行収入を記録し、サイレント映画で最も高収入をあげた映画の1本となりました。ジャーナリストのジェフリー・マクナブは、この作品を「チャップリン映画の典型」と呼んでいます。
②リタ・グレイと『サーカス』
『黄金狂時代』の撮影中、チャップリンは16歳の女優リタ・グレイ(1908年~1995年)(上の写真)と2度目の結婚をしました。1924年9月、リタはミルドレッドの時と同じように、チャップリンとの子を妊娠したことを明らかにしました。
カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと強姦罪(不同意性交罪)が適用され、最高30年の刑が科せられたため、リタの両親はそれをネタにチャップリンに結婚を強要しました。
そのためチャップリンは結婚を余儀なくされ、11月26日にメキシコで内密に結婚式を挙げました。
リタは『黄金狂時代』のヒロイン役に予定されていましたが、結婚により降板し、代わりにジョージア・ヘイルが演じることになりました。
リタとの間には、チャールズ・チャップリン・ジュニア(1925年5月5日生)とシドニー・アール・チャップリン(1926年3月30日生)の二人の息子をもうけました。
リタとの結婚生活は不幸であり、チャップリンは妻と会うのを避けるためスタジオで仕事に没頭しました。1926年11月末、リタは息子を連れて家出し、翌1927年1月に離婚訴訟を起こしました。
訴訟書類はチャップリンだけでなくその関係者も相手取り、チャップリンを誹謗中傷する内容が書かれていました。
この事件は大見出しのニュースとなり、全米各地でチャップリン映画のボイコットが起きたため、チャップリンは神経衰弱に陥りました。
8月にチャップリンの弁護士は、その種のものではアメリカの裁判史上最高の金額である60万ドルの和解金を支払うことに同意し、リタとの離婚が成立しました。
チャップリンは心労で一夜にして白髪になりましたが、幸いにも事件はすぐに忘れられ、チャップリンの人気にほとんど影響を与えることはありませんでした。
離婚訴訟が起きる前に、チャップリンは新作『サーカス』の撮影を始めていました。この作品は猿に囲まれて綱渡りをするというアイデアから物語が作られ、小さな放浪者をサーカスのスターに変えました。
撮影は離婚訴訟のため8ヶ月間中断され、撮影中もさまざまなトラブルに直面しました。この時の大きなストレスは長年にわたり感じ続け、自伝でもこの作品について言及されていません。
作品は1927年10月に完成し、1928年1月にプレミア上映が行われて好評を博しました。1929年、チャップリンは第1回アカデミー賞で「『サーカス』の脚本・演技・演出・製作で示した優れた才能」に対して名誉賞を受賞しましたが、授賞式は欠席しました。
③『街の灯』
『サーカス』が公開された頃、ハリウッドではトーキーの導入が進んでいました。しかし、チャップリンはトーキーについて否定的な立場をとり、トーキーはサイレント映画の芸術性を損なわせてしまうと考えていました。
また、チャップリンは小さな放浪者に言葉を入れることで、その国際的魅力と世界共通言語としてのパントマイムの普遍性が失われることを恐れ、自身に成功をもたらしたこの方式を変えることに躊躇しました。
そのためチャップリンはトーキーの流行に従うのを拒否し、サイレント映画を作り続けることにしました。それにもかかわらず、この決断はチャップリンを不安にさせ、次回作である『街の灯』の製作中もずっと悩み続けました。
チャップリンは約1年かけて『街の灯』のストーリー作りに取り組み、1928年末に撮影を始めました。この作品は小さな放浪者がヴァージニア・チェリル演じる盲目の花売り娘を愛し、彼女の視力を回復させるための手術代を調達しようと奮闘する姿が描かれています。
ところでチャップリンは完璧主義者として有名で、作品を撮る際に一切の妥協を許しませんでした。たとえ数秒のシーンであっても、納得がいくまで何百回でも撮り直しました。
『街の灯』でチャーリーと花売り娘が出会う約3分のシーンでは、1年以上かけて撮り直しされ、NGの回数は実に300回以上にもなりました。
その結果、撮影は約21ヶ月間も続けられ、チャップリンは自伝で「完璧を望むあまり、神経衰弱気味になっていた」と述べています。
チャップリンがサウンド技術で見つけた利点のひとつは、自分で作曲した映画音楽を録音する機会を得たことでした。以前から映画音楽の作曲に関心を抱いていたチャップリンは、この作品のためにオリジナルの伴奏音楽を作曲し、サウンド版として公開することにしました。
1930年12月に『街の灯』の編集作業が終了しましたが、この頃にはサイレント映画は時代遅れになっていました。
1931年1月に行われた一般向け試写は成功しませんでしたが、その翌日のマスコミ向け試写では好意的な評価を受けました。
あるジャーナリストは「それが可能な人物は世界中でチャップリンだけだろう。彼は、『観客へのアピール』と呼ばれる独特のものを、話す映画へとなびく大衆の好みに挑めるくらい十分に備えているただ一人の人物である」と書きました。
同月末に正式公開されると高い人気を集め、最終的に300万ドルを超える収益を上げるほどの興行的成功を収めました。
英国映画協会は、批評家のジェームズ・エイジーがラストシーンを「映画の中で最高の演技で最高のシーン」と賞賛したことを引用して、チャップリンの最高の作品と評価しました。
④世界旅行と『モダン・タイムス』
1931年初めにチャップリンは休暇を取ることを決心し、16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出かけました。チャップリンはイギリス、フランス、スイスのサン・モリッツでの長期滞在を含めて、西ヨーロッパを何ヶ月間も旅行しました。
チャップリンは至る所で大歓迎され、多くの著名人と社交的関係を持ちました。ロンドンではジョージ・バーナード・ショー、ウィンストン・チャーチル、マハトマ・ガンジー、ジョン・メイナード・ケインズと会談し、ドイツを訪問した時はアルベルト・アインシュタインの自宅に招待されました。
チャップリンはヨーロッパ旅行を終えると、休暇を延ばして日本へ行くことを決めました。シンガポールやバリ島を経由して、1932年5月に日本を訪れ、6月に帰国しました。
ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさしました。自伝では当時の心境を「まったくの混迷、将来の計画もなんにもない。ただ不安なばかりで、底知れぬ孤独にさいなまれていた」と回想しています。
チャップリンは引退して中国に移住することも考えましたが、1932年7月に22歳のポーレット・ゴダード(1910年~1990年)(下の写真)と出会ったことで孤独感が解消され、二人はすぐに親密な関係を築きました。
しかし、チャップリンはなかなか次回作に取りかかろうとはせず、旅行記『コメディアンが見た世界』の執筆に集中しました。
チャップリンは世界旅行をして以来、恐慌後の世界情勢に関心を持つようになりました。実際にチャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆したり(この中でワークシェアリングの実施、労働者の最低賃金のアップによる家計の刺激、関税の引き下げ、欧州の通貨統合などを提唱)、ニューディール政策の熱熱な支持者として、1933年に全国産業復興法を支持するラジオ番組に出演したりしています。
アメリカの労働状況の悪化はチャップリンを悩ませ、機械化が失業率を高めるのではないかと恐れました。こうした懸念から次回作の『モダン・タイムス』が構想されました。
1934年10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了しました。チャップリンは当初トーキーで作ることを考えていましたが、リハーサル中に気が変わり、前作と同様に効果音と伴奏音楽を採用し、会話シーンはほとんど使いませんでした。
しかし、小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露しました。
チャップリン研究家の大野裕之氏は、この作品を「機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語」としており、『キッド』以来の政治的言及と社会的リアリズムが取り入れられました。
チャップリンはこの問題を重視しないようにしたにもかかわらず、こうした側面が多くのマスコミの注目を引き付けました。
作品は1936年2月に公開されましたが、一部の大衆観客は政治的要素を嫌ったため、アメリカでの興行収入は前作の半分にも満たない150万ドルにとどまり、評価も賛否両論となりました。それでも現代ではチャップリンの最も優れた長編映画のひとつと見なされています。
『モダン・タイムス』の公開直後、チャップリンはポーレットとともにアジア旅行に出発し、香港や日本などを訪問しました。チャップリンとポーレットは旅行中の1936年に広東で結婚しました。
ポーレットは『モダン・タイムス』と次回作の『独裁者』でヒロイン役を演じましたが、二人はそれぞれの仕事に重点を置いていたため、お互いの気持ちは離れていきました。1942年にメキシコで二人の離婚が成立しましたが、その後もお互いの関係は良好でした。
(4)論争と人気の低下(1939年~1952年)
①『独裁者』
チャップリンは、1930年代の世界の政治的緊張とファシズムの台頭に不安を感じ、これらの問題を自分の仕事から遠ざけることはできないと考えていました。
この頃、各国のメディアではチャップリンとアドルフ・ヒトラーとの類似点が話題に取り上げられました。二人はわずか4日違いで生まれ、どちらも社会の底辺の出身から世界的な有名人となり、鼻の下に歯ブラシのような口髭を付けていました。
こうした類似性は、チャップリンに次の映画『独裁者』のアイデアを提供しました。この作品ではヒトラーを直接的に風刺し、ファシズムを攻撃しました。
チャップリンは『独裁者』の脚本執筆に2年も費やし、イギリスがドイツに宣戦布告した6日後の1939年9月に撮影を始めました。
チャップリンは政治的メッセージを伝えるために適した方法であることから、この作品をサイレントではなくオール・トーキーで製作しましたが、この時にはもはやトーキーを導入する以外に選択肢はありませんでした。
ヒトラーを主題にしたコメディを作ることは大きな物議を醸すと思われましたが、チャップリンの経済的独立はそのリスクを冒すことを可能にしました。
チャップリンは自伝で「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならないのだ」と述べています。
チャップリンは小さな放浪者を、同じ服装のユダヤ人の床屋に置き換えて、反ユダヤ主義のナチスを攻撃しました。さらにチャップリンは、ヒトラーをパロディ化した独裁者のアデノイド・ヒンケルも演じました。
『独裁者』の製作には約1年かかり、1940年10月に公開されました。この作品はニューヨーク・タイムズの批評家から「今年最も熱狂的に待望された映画」と呼ばれるなど多くの注目を集め、それまでのチャップリン映画で最高の興行収入を記録しました。しかし、結末のシーンは人気がなく、論争を引き起こしました。
その結末シーンでは、チャップリンが床屋のキャラクターを捨てて、カメラ目線で戦争とファシズムに反対する5分間の演説をしました。
映画史家のチャールズ・J・マーランドは、この説教がチャップリンの人気の低下を引き起こしたと考え、「今後、映画ファンはチャップリンから政治的側面を切り離すことができなくなった」と述べています。『独裁者』は第13回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、脚本賞など5部門でノミネートされました。
②ジョーン・バリーとウーナ・オニール
1940年代半ば、チャップリンは自身の公的イメージに大きな影響を与えた一連の裁判に関わり、それにほとんどの時間を費やしました。
1941年にチャップリンはポール・ヴィンセント・キャロル原作の戯曲『影と実体』の映画化を企画し、その主演女優として無名の21歳のジョーン・バリー(1920年~2007年)(下の写真)と契約しました。
しかし、バリーは精神的に不安定で奇行が目立ったため、1942年5月に契約を解消しました。その後、バリーは2度もチャップリン家に侵入して逮捕され、1943年にはチャップリンの子供を妊娠していると発表しました。チャップリンはこれを否定したため、バリーはチャップリンに対して子供の父権認知の訴訟を起こしました。
チャップリンの政治的傾向を長年にわたり疑っていた連邦捜査局(FBI)は、チャップリンの評判を傷つけるためのネガティブ・キャンペーンの一環として、このスキャンダルに関する4件の罪状でチャップリンを訴えました。
これらの中で最も問題になったのが、性的目的で州を越えて女性を移動させることを禁じるマン法に違反したという申し立てです。
歴史家のオットー・フリードリックは、これを「時代遅れの法」による「馬鹿げた訴追」と呼んでいますが、チャップリンが有罪となった場合は23年の懲役刑になる可能性がありました。
他の3件の告発は法廷に持ち込むのに十分な証拠がありませんでしたが、マン法違反の裁判は1944年3月21日に始まり、2週間後の4月4日に無罪となりました。
この事件はトップ級のニュースとして報道され、ニューズウィークは「1921年のロスコー・アーバックル事件の裁判以来の最大のスキャンダル」と呼びました。
キャロル・アンと名付けられたバリーの子供(1943年10月生)の父権認知の裁判は、1944年12月に開廷しました。原告側弁護士はチャップリンを不道徳であると強く非難し、1945年4月の判決でチャップリンが父親であることが認定されました。
血液検査では「O型のチャップリンとA型のジョーンから、B型のキャロル・アンが生まれる可能性はない」と結論付けられていましたが、裁判が行われたカリフォルニア州では、血液検査は裁判の証拠として認められませんでした。
チャップリンは判決に従って、キャロル・アンが21歳になるまで養育費を支払うことになりました。この裁判でチャップリンは、FBIの影響を受けたメディアから過度な批判を受けました。
この裁判でチャップリンが受けた打撃は大きかったですが、そんな傷心の彼を慰めたのは4番目の妻であるウーナ・オニール(1925年~1991年)(下の写真)でした。
ちなみにウーナ・オニールは、ノーベル文学賞を受賞したアメリカの劇作家ユージン・オニールの娘です。
<新婚当時のウーナ・オニールとチャップリン(1944年)>
1942年10月にチャップリンはタレントエージェントを介して17歳のウーナと初めて出会い、1943年6月16日に結婚しました。チャップリンは以前から20歳未満の若い女性が好み(ロリータ・シンドローム?)でしたが、今回の結婚はまさに「老いらくの恋」ですね。
チャップリンは自伝で、ウーナとの出会いは「長きにわたるであろう私の最良の幸福のはじまり」と述べています。しかし、二人が結婚したのはバリーが父権認知訴訟を起こしてから2週間後のことであり、それはチャップリンをめぐる論争を高めることになりました。
<チャップリンと妻のウーナ・オニール(1965年)>
チャップリンは亡くなるまでウーナと連れ添い、8人の子供をもうけました。その子供たちは上からジェラルディン(1944年7月生)、マイケル・ジョン(1946年3月生)、ジョゼフィン・ハンナ(1949年3月生)、ヴィクトリア(1951年5月生)、ユージン・アンソニー(1953年8月生)、ジェーン・セシル(1957年5月生)、アネット・エミリー(1959年12月生)、クリストファー・ジェイムズ(1962年7月生)です。
<チャップリンと妻のウーナ・オニールと子供たち>
③『殺人狂時代』と共産主義の告発
チャップリンはバリーの裁判で「自分の創作意欲をひどく傷つけられた」と感じ、再び映画製作を始めるまでには時間がかかりました。チャップリンの新作は『殺人狂時代』で、フランスの失職した元銀行家ヴェルドゥが家族を養うために裕福な未亡人と結婚して殺害するという内容のブラックコメディです。
このアイデアを思いついたきっかけは、1942年秋にオーソン・ウェルズがチャップリン主演でフランスの連続殺人犯アンリ・デジレ・ランドリューが主人公の映画を作りたいと提案したことでした。
チャップリンはこの申し出を断りましたが、このアイデアがすばらしい喜劇になると考えました。そこでウェルズに原案料として5000ドルを支払い、当時進めていた『影と実体』の企画を棚上げして、4年がかりで完成させました。
チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し、資本主義や戦争における大量破壊兵器の使用を批判しました。
そのため1947年4月に公開されると物議を醸しました。プレミア上映ではブーイングされ、ボイコットの呼びかけもありました。この作品はアメリカで批評的にも興行的にも失敗した最初のチャップリン映画でしたが、海外では高い成功を収め、第20回アカデミー賞では脚本賞にノミネートされました。
チャップリンはこの作品に誇りを持っており、自伝では「『殺人狂時代』は自分の作品中でも最高の傑作、実によくできた作品だと信じている」と述べています。
『殺人狂時代』に対する否定的反応は、チャップリンの公のイメージが変化した結果でした。チャップリンはバリーとのスキャンダルの被害に加えて、政治的姿勢が共産主義的であると公に非難されました。
チャップリンの政治活動は、第二次世界大戦中にソビエト連邦を支援するために第二戦線を開くことを呼びかける演説を行い、さまざまなアメリカの親ソ組織を支援した時に激化しました。
また、ハンス・アイスラーやベルトルト・ブレヒトなどの共産主義者とされる著名人と交友があり、ロサンゼルスでソ連外交官が主催したレセプションにも出席しました。
1940年代のアメリカの政治情勢では、そのような活動は「危険なほど進歩主義的で不道徳」と見なされました。FBIはチャップリンの国外追放を考え、1947年に公式な調査を開始しました。
チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼びましたが、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は自由権を侵害していて容認できないと主張しました。
チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、共産党員の裁判と下院非米活動委員会の活動に公然と抗議しました。チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、冷戦の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がりました。
例えば、1947年6月に非米活動委員会の委員であるジョーン・E・ランキン議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです…今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言しました。
同年9月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取りましたが、証言するために出頭を要請されることはありませんでした(チャップリンが放浪紳士の扮装で出廷する、と声明を出すと出頭は沙汰止みとなりました)。
④『ライムライト』とアメリカ追放
チャップリンは『殺人狂時代』の失敗後も政治的活動を続けましたが、次回作の『ライムライト』は忘れられたミュージック・ホールのコメディアンと若いバレリーナが主人公の作品で、政治的テーマからかけ離れていました。
この作品はチャップリンの子供時代と両親の人生だけでなく、アメリカでの人気の喪失をほのめかしており、非常に自伝的なものになりました。出演者にはチャップリンの5人の子供や異父弟のウィーラー・ドライデンなどの家族が含まれていました。
チャップリンは3年間も脚本に取り組み、1951年11月に撮影を始めました。チャップリンのパントマイムシーンの相手役にはバスター・キートンが出演しましたが、サイレント映画時代に人気を分けた二人が共演したのはこれ限りでした。
チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアを、作品の舞台となったロンドンで開催することに決めましたが、ロサンゼルスを去ればもう戻ってくることはないだろうと予感しました。
1952年9月17日、チャップリンは家族とクイーン・エリザベスに乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航しました。
その2日後、アメリカ合衆国司法長官のジェームズ・P・マクグラネリーはチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べました。
マクグラネリーは「チャップリンを国外追放した根拠を明らかにすれば、チャップリン側の防御を助けることになる」と述べましたが、マーランドは1980年代に開示されたFBIの記録に基づき、アメリカ政府はチャップリンの再入国を阻止するための証拠を持っていなかったと結論付けました。
チャップリンは船上で再入国許可取り消しの知らせを受け取り、アメリカとの関係を断ち切ることに決めました。
あの不幸な国に再入国できるかどうかは、ほとんど問題ではなかった。できることなら答えてやりたかった―あんな憎しみに充ちた雰囲気からは、一刻でも早く解放されればされるほどうれしいことはない。アメリカから受けた侮辱と、もったいぶったその道徳面には飽き飽きだし、もうこの問題にはこりごりだ、と。
チャップリンの全財産はアメリカに残っており、合衆国政府に何らかの口実で没収されるのを恐れたため、政府の決定について否定的なコメントをするのは避けました。
この事件はセンセーショナルに報道されましたが、チャップリンと『ライムライト』はヨーロッパで温かく受け入れられました。
アメリカではチャップリンに対する敵意が続き、『ライムライト』はいくつかの肯定的なレビューを受けたものの、大規模なボイコットにさらされました。
マーランドは、チャップリンの人気の「前例のない」レベルからの低下は、「アメリカのスターダムの歴史の中で最も劇的かもしれない」と述べています。
(5)ヨーロッパ時代(1953年~1977年)
①スイス移住と『ニューヨークの王様』
チャップリンは再入国許可が取り消されたあと、アメリカに戻ろうとはせず、代わりにウーナをロサンゼルスに送って、財産をヨーロッパに持ち出すという問題を解決させました。
チャップリン一家はスイスに移住することに決め、1953年1月にレマン湖近くにある村コルシエ=シュル=ヴヴェイにある、広さ14ヘクタールの邸宅マノワール・ド・バンに居を定めました。
同年3月にビバリーヒルズにある家とスタジオは売りに出され、4月にアメリカへの再入国許可証を放棄しました。1955年にはユナイテッド・アーティスツの残りの株式を売却し、アメリカとの最後の仕事上の関係を断ち切りました。
1950年代もチャップリンは、世界平和評議会から国際平和賞を受賞したり、周恩来やニキータ・フルシチョフと会談したりするなど、物議を醸す人物であり続けました。
1954年にはヨーロッパでの最初の作品となる『ニューヨークの王様』の脚本執筆を始めました。チャップリンは国を追われてアメリカに亡命した国王を演じ、自身が最近経験したことのいくつかを脚本に取り入れました。
チャップリンの息子のマイケルは、両親がFBIの標的にされた少年役にキャスティングされ、チャップリンが演じた国王は共産主義の告発に直面するという設定でした。
また、チャップリンは非米活動委員会をパロディ化し、アメリカの消費主義や大画面映画なども攻撃しました。劇作家のジョン・オズボーンは、それを「チャップリンの映画の中で最も辛辣」で「公然たる個人的映画」と呼びました。
1957年のインタビューで、チャップリンは自身の政治的姿勢について「政治に関しては、私はアナーキストだよ。政府や規則、束縛は嫌いだ…人間は自由であるべきだ」と発言しました。
チャップリンは『ニューヨークの王様』を作るために新しい製作会社アッティカを設立し、ロンドン郊外にあるシェパートン撮影所をスタジオに借用しました。
チャップリンは今まで自分のスタジオで気心の知れたスタッフと映画を作っていたため、仲間がほとんどおらず、スケジュールにも縛られたイギリスでの撮影は困難な仕事となりました。
それは映画の完成度に大きな影響を及ぼしました。作品は1957年9月にロンドンで初公開され、さまざまな評価を受けましたが、ヨーロッパではヒットしました。
チャップリンはパリでの初公開時にアメリカの記者を追い出し、1973年までアメリカで上映しませんでした。
②最後の作品と晩年
チャップリンはキャリアの最後の20年間で、過去の作品の所有権と配給権を確保し、それらを再公開するために音楽を付けて再編集することに精力を傾けました。その最初の仕事として、チャップリンは『犬の生活』『担へ銃』『偽牧師』の3本をまとめて、1959年に『チャップリン・レヴュー』として再公開しました。
この頃のアメリカでは政治的な雰囲気が変わり始め、世間の注目はチャップリンの政治的問題ではなく、再びチャップリン映画に向けられました。
1962年7月にニューヨーク・タイムズは、「いまだ忘れられていない小さな放浪者がアメリカの港に上陸するのを許したところで、この国が危険にさらされるとは思えない」と社説で述べました。
1963年11月にはニューヨークのプラザシアターで、『殺人狂時代』『ライムライト』を含むチャップリン映画の回顧上映が1年かけて行われ、アメリカの批評家から高い評価を受けました。
1964年9月、チャップリンは7年前から執筆していた『チャップリン自伝』を刊行しました。この自伝は初期の人生と私生活に焦点を当てており、映画のキャリアに関する情報が不足していると指摘されましたが、世界的なベストセラーとなりました。
チャップリンは自伝の出版直後、1930年代にポーレット・ゴダードのために書いた脚本に基づくロマンティック・コメディ『伯爵夫人』の製作を始めました。
物語は豪華客船を舞台とし、マーロン・ブランドが乗客のアメリカ大使、ソフィア・ローレンが彼の部屋に隠れる密航者を演じました。チャップリンが国際的な大スターを起用したのはこれが初めてで、自身はちょい役で出演するにとどめ、監督に徹しました。
また、この作品ではチャプリン映画として初めてカラーフィルムとワイドスクリーンを導入しました。
作品は1967年1月にユニバーサル・ピクチャーズの配給で公開されましたが、否定的な批評が多く、興行的にも失敗しました。チャップリンは自身最後の映画となったこの作品の否定的反応に深く傷つきました。
1960年代後半、チャップリンは軽微な脳卒中を起こし、そこからチャップリンの健康状態はゆっくりと低下し始めました。
それでも創作意欲が衰えることはなく、すぐに新しい映画の脚本『フリーク』に取りかかりました。これは翼が生えた少女が主人公のドラマ仕立てのコメディで、娘のヴィクトリアを主演に想定していました。しかし、チャップリンの健康状態の低下は映画化の実現を妨げました。
1970年代初頭、チャップリンは『キッド』『サーカス』などの自作を再公開することに専念しました。チャップリン映画を配給するためにブラック社が設立され、「ビバ・チャップリン」と題したリバイバル上映が各国で行われましたが、これは日本だけの収益で元が取れました。
1970年代、チャップリンはカンヌ国際映画祭特別賞やレジオンドヌール勲章など、その業績に対してさまざまな栄誉を受けるようになりました。
1972年に映画芸術科学アカデミーは、チャップリンにアカデミー名誉賞を授与することに決めました。ロビンソンは、これで「アメリカも償いをする気になった」と述べています。
最初チャップリンはこれを受けるのをためらいましたが、20年ぶりにアメリカに戻ることを決心しました。
授賞式では、同賞の歴史の中で最長となる12分間のスタンディングオベーションを受け、チャップリンは「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」を理由に名誉賞を受け取りました。
チャップリンはその2年後に著した『映画のなかのわが人生』の中で、授賞式について「私はその温かな意思表示に感動したが、あの出来事にはなにがしかのアイロニーがあった」と述べています。
チャップリンはまだ新しい映画のための企画を考えており、1974年には「アイデアが次々と頭の中に飛び込んでくるから」引退することはできないと語っていましたが、1970年代半ばまでにチャップリンの健康状態はさらに低下しました。
チャップリンは数回の脳卒中を起こし、やがて歩くこともできなくなりました。チャップリンの最後の仕事は、1976年に『巴里の女性』を再公開するためにスコアを付けて再編集する作業でした。
1975年にはチャップリンの人生についてのドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』に出演しました。同年3月、イギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を与えられました。授与式には車椅子姿で登場し、座ったまま栄誉を受け取りました。
③死去
1977年10月15日、チャップリンはスイスに居住してからの恒例行事だったヴヴェイのニー・サーカスの見物に出かけましたが、それがチャップリンの最後の外出となりました。
それ以降は絶えず看護が必要になるまでに健康状態が悪化しました。12月25日のクリスマスの早朝、チャップリンは自宅で睡眠中に脳卒中のため88歳で亡くなりました。
その2日後にヴヴェイにあるアングリカン・チャーチの教会で、チャップリンの生前の希望による内輪の質素な葬儀が行われ、棺はコルシエ=シュル=ヴヴェイの墓地に埋葬されました。
チャップリンが亡くなったあと、世界中の映画人が賛辞の言葉を寄せました。フランスのルネ・クレール監督は「彼は国と時代を超えた、映画の記念碑的存在だった。彼は文字どおりすべてのフィルムメイカーの励みだった」と述べました。俳優のボブ・ホープは「私たちは、彼と同じ時代に生きることができて幸運だった」と述べました。
1978年3月1日、チャップリンの棺は移民の失業者であるポーランド人のロマン・ヴォルダスとブルガリア人のガンチョ・ガネフにより掘り起こされ、墓から盗み出されました。二人は自動車修理工場の開業資金を手に入れるために棺を盗み、ウーナに60万スイス・フランの身代金を要求しましたが、大規模な警察の作戦により逮捕されました。
5月、チャップリンの棺は墓地に近いノヴィーユ村の麦畑に埋められている状態で発見され、再発防止のため鉄筋コンクリートで周りを固めて同じ墓地に埋め戻されました。