1.スパルタ教育
(1)スパルタ教育とは
「スパルタ教育」というのは、古代ギリシャの都市国家のひとつのスパルタで行われていた組織への忠誠を求める厳しい過酷な教育・軍事訓練に由来する言葉です。
スパルタ教育は、かつて戸塚宏氏が創始した戸塚ヨットスクールで過酷な訓練の結果、練習生が死亡したり、行方不明になる事件が起きたりしたことから、今では評判があまりよくないようです。
これの対極に位置するのが「アテナイ教育(アテネの教育)」、こんな言葉は一般的には使われていませんが、自由で芸術や弁論を尊重した教育です。「ゆとり教育」とか「自由教育」がそれに相当するのでしょうか?
(2)新スパルタ幼稚園
しかし数年前だったと思いますが、池上彰氏の「今、地方を知れば日本がわかる。池上彰のご当地ウラ事情」というテレビ番組で「新スパルタ幼稚園」が評判になっているというのを知りました。
この幼稚園の教育方針は、「幼児の持つ限りない潜在力を引き出す」ということでした。
具体的には、論語などの漢文の素読をさせたり、四字熟語・旧暦の月名を教えたり、百人一首を暗唱させたり、花の名前も漢字で覚えさせるなど、「漢字」と「語彙力」を重視したユニークな教育法です。
また、「成功体験の積み重ね」ということで、鉄棒などの出来ない子を、出来る子が「コツ」をアドバイスするなど協力して、できるようにし、自信をつけさせるという試みもしているそうです。
最初のうちは、保護者から「幼稚園なのに、詰め込み教育の先取りをしている」として反発があったようですが、子供たちは「スポンジが水を吸収するように」すぐに順応して楽しむようになったそうです。
私の幼稚園のころは、そんな教育はなかったですが、この教育法には私はとても共感が持てます。
私たちが「漢文」を習ったのは中学と高校ですが、陶淵明や杜甫、李白の有名な詩は今でも覚えています。
また「古文」で習った「つれづれなるままに・・・」で始まる「徒然草」や、「祇園精舎の鐘の声・・・」で始まる「平家物語」、「ゆく川の流れはたえずして・・・」で始まる「方丈記」、「いずれの御時にか女御更衣あまたさぶらいたまいけるなかに・・・」で始まる「源氏物語」などの有名な冒頭部分は、今でも暗唱できます。
(3)「漢語の一部ひらがな書き」や「新聞の総ルビ廃止」の弊害
戦後、当用漢字表が定められた(昭和21年)ことにより、漢語の一部をひらがな書きにする「交ぜ書き」(例:「補てん」「ばん回」「伴りょ」など)が行われるようになりました。
戦前は、全ての新聞の記事の漢字に「ルビ」がふってあったそうです。だから小学校しか出ていない丁稚さんでも、十分読めたし、新聞の連載小説も楽しみながら漢字の勉強ができたそうです。
また、総ルビにする方が、難読地名の読み間違いも防げると思います。先日の大阪北部地震の被災地の「枚方市」を「まいかたし」と誤読した政治家がおられましたね。
これは、「地名・人名」は難しい漢字でなくても、いろいろな読み方があるので注意が必要という意味で、新聞の総ルビとは少し違う話ではありますが・・・
少し脱線しましたが、「アルファベット」が「表音文字」であるのと違って、「漢字」は「表意文字」なので、知らない漢字でも、正しい意味を「推測・推理」することも可能なのです。
せっかくそういう優れた特性を持つ「漢字」を捨てて、「アルファベット」と同じ「表音文字」の「カタカナ・ひらがな」にするのは、もったいない話です。
(4)「昆虫や植物の名前のカタカナ表記」の弊害
新スパルタ幼稚園で「花の名前を漢字で覚える」教育をしていることも、花をより深く知る上で、とても良いことだと私は思います。
戦後、図鑑などで昆虫や植物の名前を「カタカナ書き」にすることも、一般的になりました。しかし、私は個人的には、全て漢字表記に戻し、「ルビ(ふりがな)」を振るようにしてほしいと思っています。
昆虫や植物の名前をカタカナ表記にしたことによる弊害について、具体例を挙げてみます。
たとえば、「マイマイカブリ」ですが、「蝸牛被」と漢字で書けば、「カタツムリ」(蝸牛)を捕食する習性から名前が付いたとすぐにわかります。
「ヨツボシケシキスイ」という昆虫がいます。「四星芥子木吸」と書けば、四つの星形の斑点がある小さな木の樹液を吸う甲虫だと想像がつくというものです。カタカナだと「何じゃ、こりゃ?」ですね。
「コクゾウムシ」という昆虫をご存知ですか?「穀象虫」と書けば、米びつの米の中にいる頭部が象の鼻のような小さな虫だと想像しやすいでしょう。
最近のスーパーなどで売られている5kg袋入りのお米は、農薬を使用していますから、穀象虫もほとんど見かけなくなりましたが・・・
「シミ」という虫をご存知の方は、少ないかもしれませんね。「紙魚」と書きますが、魚ではありません。
私は子供の頃、明治20年代に建てられた古い京町家のような家に住んでいました。その2階に薄暗い「落ち間」と呼ばれる物置部屋がありました。夜に懐中電灯を照らして一人で入るのは、勇気がいりました。
そこには、昔の人が使っていた古い着物を入れた「長持」や「屏風」、使い方もわからない古い道具類、古い書籍などが置いてありました。
夏休みのある昼のこと、その落ち間で古い本を開くと、銀白色の「深海魚」のような小さな虫が出てきて驚いたことがあります。それが、「紙魚」だったのです。少し気味の悪い不思議な虫でした。
また、植物の名前では、「アセビ」という木があります。「馬酔木」と書けば、馬がその花を食べると麻酔状態になるということが良く理解できます。
昔の人は、意外と残酷な名前を花に付けたものだと驚くものもあります。「ママコノシリヌグイ」という花があります。
漢字で書けば「継子の尻拭い」です。この植物の茎に並んでいる棘(とげ)はとても鋭く、この茎で尻でも拭こうものなら誰でも悲鳴を上げることでしょう。
このように見てくると、漢字や漢語を就学前から覚えさせるのは、何ら害はなく、知能の発達にはとても良いことだと、私は思います。
論語の素読と言えば、江戸時代に寺子屋での教育法として、広く行われていたことですよね。
2.アテナイ教育(ゆとり教育、自由教育)
(1)アテナイ教育とは
一方、「アテナイ教育」(私の造語)あるいは「ゆとり教育」「自由教育」はどうでしょうか?
かつて、文部省が「詰め込み教育」の反省と、「受験戦争」「落ちこぼれ」対策として、「ゆとり教育」を推進しましたが、諸外国に比べて日本の子供の学力低下が顕著になるなど多くの問題点が出てきて、結局見直しに追い込まれましたね。
やはり、「ゆとり教育」は、「あて(になら)ない教育」だったということでしょうか?
(2)ほめちぎる自動車教習所
ところで、「ほめちぎる自動車教習所」があり、大変な人気になっているというニュースを先日見ました。
今は車に乗る若者が減ったこともあってか、昔に比べて教習所の教官も愛想がよくなったそうですが、その昔、自動車教習所の教官というのは、いつも不愛想で、生徒に対して横柄な言葉遣いで威張るというのがお決まりでした。
しかし、この教習所では、教官は生徒を決して叱らないそうです。生徒がどんな失敗をしても、どこか良いところを見つけて、とにかく「ほめちぎる」のだそうです。
教習所ではいっぱい失敗しても、それを反省材料にして、今後公道に出た時に事故を起こしたりしないように気を付けるという教え方なのでしょうか?
「豚もおだてりゃ木に登る」ということでしょうか?そんな言い方は、教習生に失礼ですね。「失敗は成功の母」式の指導法というべきかもしれませんね。
人間誰しも、ぼろくそに怒られて面白いはずはありませんよね。
ましてや、「自動車の運転を知らない」から習いに来ているのに、「こんなこともできないのか?」式の居丈高な教え方では、反感を持ったり、腹を立てたりしない方がおかしいですよね。
「ほめちぎる教習所」は、生徒を気分よくさせるとともに、生徒のやる気をうまく引き出すことに成功しているのだと思います。だからこそ、人気が高いのでしょう。
これは、「アテナイ教育」の数少ない成功例だと思います。皆さんはどう思われますか?
(3)「日比谷特急」と言われたかつての日比谷高校の授業の進め方
もう一つ、「自由教育」での成功例をご紹介しましょう。それは、私が中学3年生の時に、担任の先生から聞いた「日比谷特急と言われる日比谷高校の授業の進め方」の話で、最初は大変驚きました。
当時、東京都立「日比谷高校」は、東大合格者数日本一を誇っていましたが、この高校では「先生は授業をせず教室の後ろで見ているだけで、生徒が生徒に授業をしている。」という話でした。
皆さんは、「今どきの有名予備校の名物講師のような先生がたくさんいて、受験技術を上手に教えていたのではないか?」と思われたかもしれません。
私も、「授業とは先生に教えてもらうもの」という先入観というか、固定観念がありましたので、「はたして、生徒がうまく教えられるのかな?」という疑問が起きました。
しかし、皆さんの中には、仲間内の勉強会などの講師の経験をした方もおられるのではないでしょうか?
その時は、事前準備の勉強を十分にすることによって、随分理解が深まったという実感を持たれたのではないでしょうか?「教うるは学ぶの半(なか)ば」「教学相長(きょうがくあいちょうず)」という言葉もあります。
それと同様のことを「高校の授業」で実践したということでしょう。ただし、これが成功した背景には、当時の「日比谷高校」の生徒は、東京都内から集まった秀才ぞろいだったことがあると思います。
だから、先生は、教師役の生徒が説明に窮したり、間違った説明をした時だけ、助言を与えたり、正しい説明を改めてするだけで十分だったのでしょう。
その後、東京都が都立高校に「学校群制度」を導入したため、日比谷高校の神通力は失われ、都立高校の凋落と私立御三家(麻布・開成・武蔵)の躍進が始まりました。
この「学校群制度」が失敗であったことは、明らかでしょう。
(4)適塾での講義
ところで、江戸時代の大阪にあった蘭学塾の「適塾」も、緒方洪庵先生が直々に講義することは少なく、また「塾頭」の講義もあったでしょうが、大体は「塾生」どうしが教えあいながら、勉強・研究していたということです。
そして、塾生たちがお互いに切磋琢磨して、当時の日本の最高水準の蘭学修業が出来たのではないでしょうか?まさに「炉火純青(ろかじゅんせい)」の域に達していたのでしょう。
ちなみに「炉火純青」とは、炎が青色になると温度も最高に達するということから「学問や技芸が最高の域に達すること」を言います。
これなどは、「(先生を)アテ(にし)ナイ教育」の成功例だと思います。