「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざがあります。今回は、私がこのことわざを実感した思い出話をご紹介したいと思います。
私が幼稚園に行っていたころの話です。父がにこにこして帰宅し、「五月人形を買って来た」と話しました。
私も喜んで、父が阪急百貨店の包装紙を開くのももどかしく待っていました。私は、「武者人形」や「兜飾り」のようなかっこいい五月人形を想像していました。
しかし、出て来たのは「金太郎の素焼きに彩色した土人形」でした。私は落胆し、「何やん、こんなもん」と正直な気持ちを口に出してしまいました。
すると、父の顔色がさっと変わり、怖い顔になって無言で私を抱えて二階の押し入れに連れて行きました。その押し入れの扉の裏側には 全面に怖い顔をした達磨像が描かれており、私たち子供は日頃から怖がっている場所でした。
私は真っ暗な押し入れに閉じ込められて、多分泣き叫んでいたと思います。母が「堪忍してやって下さい」と父をなだめて取りなしてくれていたようですが、それも無駄で、しばらくの間出してもらえませんでした。
日頃、怒ることなど滅多にない優しい父のことですから、よほど腹に据えかねたのでしょう。「子供の喜ぶ顔が見たい」と上機嫌で帰宅したのに、その子供の反応があまりにも父の感情を逆なでするものだったので、「可愛さ余って憎さ百倍」となったのでしょう。
父が亡くなってから、この出来事を何度も思い出します。そして、父に心ない言葉を吐いて、その愛情や好意をぶち壊すような結果となってしまい本当に申し訳ないという悔恨の念に苛まれます。
子供とは言え、まず父に対して「ありがとう」という感謝の気持ちを言葉に出して伝えることが不可欠だったのです。その上で、「出来れば兜飾りもほしいな」とかの「わがままな希望」を述べるべきだったのでしょう。「言葉足らず」「物も言いようで角が立つ」という例かも知れません。
(補足説明)「具足飾り」を飾る本来の時期
余談ですが、「具足飾り」を飾る時期について補足説明をしておきます。
現在では鎧兜(よろいかぶと)の武者人形を「五月人形」として五月の「端午の節句」に飾りますが、本来武家では鎧兜は正月に飾るのが第一でした。鎧兜を所持する家では、正月に床の間に具足(鎧兜)を鎧櫃(よろいびつ)から出して飾り、その前に鏡餅を供え「具足餅」と呼びました。
元旦から10日以上飾ると、具足餅は乾燥してカピカピになります。それを刃物で切らずに、槌で叩いて開き、一族郎党でともに食べたそうです。そして鎧兜に宿った先祖の武の霊力を体内に注ぐ儀式が行われたそうです。
平安時代の頃まで、「端午の節句」には薬草である「菖蒲(しょうぶ)」や「蓬(よもぎ)」の葉を軒先に吊るしたり、薬湯として菖蒲湯に入ったりするなどして厄除けをしていました。
武家中心の鎌倉時代になると、「端午の節句」の「菖蒲(しょうぶ)」を「尚武」と解釈し、「勝負」にも通じることから、鎧兜を飾る儀式が武家の間で特に重んじられるようになりました。この時期に鎧兜を飾るのは「具足の虫干し」の意味もあったようです。