「極東軍事裁判」と同様の一方的な「マニラ軍事裁判」はマッカーサーの影の一面

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山下奉文

(山下奉文)

本間雅晴

(本間雅晴)

前に「極東軍事裁判」の記事を書きましたが、もう一つ、マッカーサーが太平洋戦争中に日本軍と戦闘を交えたフィリピン戦線における「戦犯」に対する「マニラ軍事裁判」があります。

極東軍事裁判は、「勝者による一方的な軍事裁判(Victor’s justice)」ですが「マニラ軍事裁判」も同様の性格を持つ裁判です。

公平に「国際法」に照らして、「戦争犯罪」を断罪するのであれば、アメリカにもソヴィエトにも「戦犯」は明らかに存在しますが、「勝てば官軍」で不問に付されています。

1.マニラ軍事裁判とは

マニラ軍事裁判は、1945年から1947年にわたって行われたアメリカ軍による日本の「BC級戦争犯罪人」に対する軍事裁判です。

山下奉文陸軍大将以下212名が起訴され、177名が有罪(うち死刑69名)、35名が無罪となりました。

死刑となった者のうち、マッカーサーと因縁浅からぬのは、山下奉文陸軍大将と本間雅晴陸軍中将(比島司令官)でした。

山下奉文陸軍大将は、マッカーサー軍をルソン島の山中に足止めし、「軍事史上最大の引き延ばし作戦」を指揮しました。本間雅晴陸軍中将は、太平洋戦争序盤に、マッカーサー軍に屈辱的な敗北を与えました。

マッカーサーはこの二人については、戦争終結前から訴追の準備を行っていたそうです。

部下が行った行為は全て指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決が下されましたが、いわゆる「マニラ大虐殺」にしてもアメリカ軍の砲撃による犠牲者も多数いたようですし、「バターン死の行進」にしても元々は捕虜を鉄道やトラックで運ぶ予定でしたが想定以上に捕虜が多数であったため、やむを得ず半数以上が徒歩による移動となったようです。

日本軍が保有するトラックがアメリカ軍よりも少なかった上に、アメリカ軍は投降する前に、日本軍に使用されるのを妨害するため、多数の武器やトラックを破壊したため輸送車両が絶対的に不足してしまったという話もあります。

そういう意味で、「バターン死の行進」は、悪意を持って「捕虜に対する残虐極まりない虐待」にでっち上げられた感じがします。

この軍事裁判の5人の裁判官は、法曹経験が全くないマッカーサーの息のかかった職業軍人で、典型的な「カンガルー法廷」(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)でした。

後にこの裁判は、アメリカ国内でも「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」「法的手続きをとったリンチ」という異論も出ました。

2.マッカーサーの光と影

1945年から1952年までの占領中、マッカーサーは日本人に大変人気があったそうです。

1951年4月12日にマッカーサー元帥が解任されたことは、当時の日本人には驚天動地の出来事だったようです。まさに「神様がクビになった」ようなものです。

朝日新聞は「マックアーサー元帥を惜しむ」という社説を掲げました。

日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった。

今の朝日新聞では考えられない「アメリカへのお追従」のようなマッカーサーを過大評価し過ぎた社説です。朝日新聞は戦争中は「特攻隊作戦礼賛記事」などを書いて「大本営へのお追従」をして日本国民をミスリードしていましたが、これは「あざとい変わり身の早さ」を如実に示す社説です。

戦後日本の「占領政策案」としては、ソ連が「北方領土と北海道を占領する計画」を持っており、アメリカも「アメリカ・イギリス・ソ連・中華民国の4ケ国で分割統治する計画」を検討したことがあるようですが、結局GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本政府を介した「間接統治」に落ち着きました。

ソ連による北方領土の不法占拠が続いていますが、日本が4分割されずに済んだことは、日本にとって幸いでした。

マッカーサーは、「日本占領政策の成功」という光の部分があった半面、「朝鮮戦争での最高司令官の中途解任」や「不公正なマニラ軍事裁判」という影の側面がありました。

彼には「大統領への野心」もありました。そして二度、大統領予備選挙に共和党候補者として名乗りを上げますが結局「指名」されることはありませんでした。

3.マッカーサーが米上院外交軍事合同委員会で述べた日本人観

今回のテーマとは少しずれるかもしれませんが、彼が1951年5月6日に、米上院外交軍事合同委員会で、アメリカの対外政策、軍事戦略などについて広範な証言をしました。

その中で、彼が「日本人十二歳説」という日本人観を開陳しています。これは日本人を人種差別的に見下したようなまことに失敬な説ではありますが、マッカーサーの正直な日本人観を吐露した興味深い話なのでご紹介します。

ロング議員:日本人は占領軍に好意を寄せているか?

マッカーサー:日本人は敗戦の事実を、それが完全な軍事的敗北であること、外国軍隊によって占領されることを知ったばかりでなく、実にこれまでの生活の信条に不信を抱かされ、それとともに自己軽視に陥ったのである。この虚脱状態のなかにアングロサクソンの礼節とフェア・プレイと正義が演ずる役割があった。後進的、孤立的、封建的であった日本人がアメリカ的生活態度になじみ、個人の自由と尊厳を重んずるようになった。

ロング議員:ドイツと日本の違いはどうか?

マッカーサー:科学、美術、宗教、文化などの発展の上からみて、アングロサクソンは四十五歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人はそれとほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず十二歳の少年である。ドイツ人が現代の道徳や国際道義を怠けたのは、それを意識してやったのである。国際情勢に対する無知識の故ではない。その失敗は、日本人が犯した失敗とは少しく趣を異にする。ドイツ人は自分がこれと信ずることに再び向かって行く。日本人はこのドイツ人と違う。

これもマッカーサーの影の一面と言えるかもしれません。

陸軍大将山下奉文の決断 国民的英雄から戦犯刑死まで揺らぐごとなき統率力 (光人社NF文庫) [ 太田尚樹 ]


いっさい夢にござ候改版 本間雅晴中将伝 (中公文庫) [ 角田房子 ]