前に「伊藤博文は日本近代化の恩人」という記事を書きましたが、もう一人忘れてはならない恩人が「不平等条約改正」に成功したカミソリ大臣と呼ばれた陸奥宗光です。
今回は、陸奥宗光とその妻陸奥亮子について考えてみたいと思います。
1.陸奥宗光とは
(1)生い立ち
陸奥宗光(1844年~1897年)は紀州藩士伊達宗広の六男として和歌山で生まれています。
国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、「尊王攘夷思想」を持つようになります。父は勘定奉行として財政再建に尽力しましたが、藩内の政争に敗れて失脚し、一家は窮乏生活を余儀なくされます。
(2)江戸での学問と交友関係
1858年に江戸に出て儒学者の安井息軒(1799年~1876年)に師事しますが、吉原通いが露見して破門されてしまいます。
その後は薩摩藩士で法律学者の水本成美に学ぶとともに、土佐藩の坂本龍馬や長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)らの志士と交友を持つようになります。
この頃の交友があったおかげで、「薩長藩閥政府」と呼ばれた明治政府で外務大臣の要職につくことになったのでしょう。
(3)勝海舟の「神戸海軍操練所」と坂本龍馬の「海援隊」
1863年には、勝海舟の「神戸海軍操練所」に入り、1867年には坂本龍馬の「海援隊」に加わるなど龍馬と終始行動を共にします。
龍馬は彼のことを「彼は非常な才物である。外の者は大小(刀)を取り上げればほとんど食うにも困る者ばかりだが、陸奥だけは上手に世渡りをしていける」と高く評価しています。
勝海舟は「あれも一世の人豪だ。しかし陸奥は、人の部下について、その幕僚となるに適した人物で、幕僚の長としてこれを統率するには不適当であった。あの男は、統御もしその人を得たら、十分才を揮うけれども、その人を得なければ、不平の親玉になって、眼下に統領を踏みつける人物だ。あれがもし大久保(利通)の下に属したら、十分その才を揮い得たであろう」と評しています。
(4)明治維新後の活動と投獄
明治維新後は、岩倉具視の推挙で「外国事務局御用係」となっています。「戊辰戦争」(1868年~1869年)の際は、局外中立を表明していたアメリカと交渉して甲鉄艦「ストーンウォール号」購入に成功しています。
その後、兵庫県知事や神奈川県令などを歴任しますが、「薩長藩閥政府」の現状に憤激して官を辞し和歌山に帰っています。
1877年の「西南戦争」の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀りましたが、彼は土佐派と連絡を取り合っていました。翌年それが発覚して「禁錮5年」の刑を受け、投獄されています。
(5)ヨーロッパ留学
1883年1月特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学しています。ロンドンでは「内閣制度」など西洋近代社会の仕組みを猛勉強しています。ウィーンではローレンツ・フォン・シュタインの国家学を学んでいます。
(6)駐米公使から外務大臣となり「不平等条約改正」に成功
1886年に帰国し、外務省に出仕しています。1888年駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコとの間で「日本最初の平等条約」である「日墨修好通商条約」の締結に成功しています。
1892年第二次伊藤内閣で外務大臣に迎えられ、1894年にはイギリスとの間に「日英通商航海条約」を締結し、幕末以来の不平等条約である「治外法権の撤廃」に成功します。以後、アメリカ、ドイツ、フランスなど不平等条約を結んでいた15カ国全てとの間で条約改正(治外法権の撤廃)に成功しています。このような功績から彼は「日本外交の父」と呼ばれています。
彼は「藩閥打倒」と「議会制民主主義」の未達成を嘆きつつ亡くなったそうです。
私は「歴史は個人によって作られる」という考えを以前から持っています。伊藤博文や渋沢栄一、田辺朔郎もそうですが、陸奥宗光もしかりです。彼のような毅然とした考えを持って行動する傑出した外務大臣がいなければ、「不平等条約改正」は成功しなかったか、大幅に遅れたのではないかと思います。
2.陸奥亮子とは
(1)生い立ち
陸奥亮子(1856年~1900年)は旗本の金田蔀の妾の長女として江戸に生まれています。「ハーフ」のような美貌ですが、母親も日本人です。
明治の初め、新橋の芸者となり、「小鈴(小兼)」という源氏名でした。
板垣退助に愛された「小清」と並んで、「新橋の双美人」と呼ばれる美貌の名妓だったそうです。
(2)陸奥宗光の後妻となる
1872年2月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなり、同年5月に17歳で客であった宗光の後妻となっています。ちなみに先妻蓮子も元芸妓です。
1878年に陸奥宗光が「政府転覆運動に加担した疑い」で禁錮5年の刑に処せられ山形監獄(後に宮城監獄)に収監された時は、姑に仕えつつ、先妻の子2人と自身の子1人の子育てをしながら獄中の夫を支えました。彼は獄中から妻に宛てて沢山の手紙や漢詩を送っています。
(3)外交官夫人としての教養を身につける
彼はヨーロッパ留学中も妻に宛てて多くの手紙を書き、外交官夫人としての教養を身につけるよう指示しています。
彼女は夫が留学中、英語、文学、歴史、テーブルマナー、ファッションの勉強を、子育てをしながら必死で行い、外交官夫人として恥ずかしくない知識と作法を習得します。
(4)「社交界デビュー」を果たし、美貌と才気を賞賛される
1886年に彼が帰国して外務省に出仕すると、彼女は「社交界デビュー」を果たします。時は「鹿鳴館時代」と呼ばれる「欧化主義」の時代です。彼女は伯爵戸田氏共夫人の極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれました。
1888年、駐米公使となった夫とともに渡米すると、その美貌、個人的魅力、話術によって第一等の貴婦人と謳われ、「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称されました。
元々体が丈夫ではなかった上、気苦労も多かったからでしょうか、夫の死の3年後に44歳の若さで亡くなっています。
彼女を主人公にした大河ドラマがあっても面白いのではないかと私は思います。
3.陸奥宗光の名言
(1)「六訓」(子供たちに与えた教訓)
①諸事堪忍すべし、堪忍の出来る丈は必ず堪忍すべし。堪忍の出来ざる事に会すれば、決して堪忍すべからず。
②事の失敗に屈するべからず。失敗すれば失敗を償う丈の工夫を凝らすべし。
③名誉は実力で取り得るように。僥倖に求め得られるものではないと知れ。
④人より少なく苦労して人より多くの利益を得ようとするのは薄志弱行の者のやることだ。この考えが一度芽生えると、必ず生涯不愉快の境遇に陥る。
⑤人生には危険が多い。避けられるだけは避けよ。しかし避けられぬ場合、また避けては一分が立たない場合は、いかなる危険も避けるな。
⑥眠くなく、旅中、船や車でやることがないときは、胸中に何なりとも一つの問題を設けて研究しておけ。他日、その問題が実地入用になるとき大いに役立つはずだ。
(2)政治なる者は術(アート)なり、学(サイエンス)にあらず。故に政治を行ふの人に巧拙(スキール)の別あり。巧みに政治を行ひ、巧みに人心を収攬(しゅうらん)するは、即ち、実学実才ありて広く世勢に練熟(練熟)する人に存し、決して白面(はくめん)書生机上の談の比にあらざるべし。
(3)勝者を過褒(かほう/過大評価)し、敗者を過貶(かへん/過小評価)するは誠に人情の弱点なり。