ケネディ大統領との不倫の噂もあったマリリン・モンロー

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マリリン・モンロー2

私は有名なハリウッド女優のマリリン・モンローという名前は子供の頃から聞いていましたが、彼女の生前に映画は1本も見ていません。

というのも、彼女が亡くなったのは私が中学1年の時だったからです。新聞の訃報記事を見て「モンローって、まだ生きていたの?まだそんなに若かったの?」というのが率直な感想でした。「過去の映画スター」のように思っていたのです。

1.マリリン・モンローとは

(1)生い立ちと幼少期

マリリン・モンロー(1926年~1962年)は、本名ノーマ・ジーン・モーテンソンで父親はエドワード・モーテンソン、母親はグラディス・モンローで、ロサンゼルスで生まれました。

彼女が2歳の時両親が離婚し、母親が精神病を患ったため、幼少期の大半を孤児院と里親の家で過ごしています。ただ、里親も、良心的なボランティアというよりも里親に支給される援助金目当てで、次々と別の里親の家へたらい回しされるなど幸福ではなかったようです。

(2)最初の結婚と写真モデルからハリウッドへ

第二次世界大戦中の1942年、16歳の時に高校を中退し、ロッキード社の整備工であったジムと結婚します。その後夫が海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになったため、自活する必要から航空機部品工場に就職します。

マリリン・モンローの写真がヤンクに掲載

工場で働いていた1945年のある日、陸軍から取材に来た報道部員に見出され、写真を撮られます。この写真が陸軍の機関紙「ヤンク(YANK)」に掲載されたことから、ハリウッドへの道が開けます。夫のジムがモデル業に理解を示さなかったため、4年で離婚しています。

1946年、20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し、芸名「マリリン・モンロー」で契約し、1947年に「嵐の園」で端役デビューしますが、あまりぱっとせず、契約打ち切りとなります。しかし女優の夢をあきらめ切れず、コロムビア映画に移籍し「コーラスのレディたち」で準主役を務めています。

(3)女優からトップスターへ

マリリン・モンロー舞い上がるスカート

1951年に「アスファルト・ジャングル」「イヴの総て」に出演して注目されます。1952年の「ノックは無用」で準主役を務めた後、1953年の「ナイアガラ」で不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集めます。

続く1953年の「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」や1955年の「七年目の浮気」が大ヒットし、一躍トップスターとなります。

1954年には「帰らざる河」に出演しました。

Marilyn Monroe In "River Of No Return" – "One Silver Dollar"

ジョー・ディマジオとマリリン・モンロー

1954年には元大リーガーのジョー・ディマジオ(1914年~1999年)と結婚し、新婚旅行を兼ねて来日しています。彼女は来日中、米軍高官から「兵士慰問」の依頼があったため、米軍基地や朝鮮戦争休戦後も韓国に駐留していた国連軍駐屯地も慰問しています。

余談ですが、体調を崩した彼女に宿泊先の帝国ホテルで指圧マッサージをしたのが、「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」という言葉で有名な浪越徳治郎(1905年~2000年)です。彼は後にテレビで「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と述懐しています。

浪越徳治郎

しかし、この来日でモンローにはファンが殺到するほどの大人気だったのに対し、ジョー・ディマジオの影が薄かったことが影響したのか二人の仲が悪くなり1955年には離婚しています。

(4)脱セックスシンボル

彼女は典型的な「ブロンド・ボムシェル(Blonde bombshell)」(悩殺的な金髪美女)役を演じたことで有名で、1950年代で最も人気のあるセックスシンボルの一人でした。

しかし、彼女はそれに飽き足りず、1955年にニューヨークに移ってリー・ストラスバーグが主宰するアクターズ・スタジオで演技指導を受けています。「アンナ・クリスティ」「欲望という名の電車」が好評を博したことで彼女は自信を取り戻しました。

マリリン・モンローとアーサー・ミラー

1956年には劇作家アーサー・ミラー(1915年~2005年)と結婚しますが、1957年頃から精神不安定な状態が続き、睡眠薬を飲みすぎたり、精神病院に入院したりしています。1961年にはミラーとも離婚しています。

(5)ケネディ大統領兄弟との不倫

1959年頃から、マフィアとの関係の噂もあるフランク・シナトラの紹介でケネディと不倫していたようです。ケネディの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとの関係が噂されたこともあります。

1962年5月19日に開かれたケネディ大統領の45歳の誕生日パーティーにも出席し、「ハッピーバースデートゥーユー」を歌っています。二人の関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は彼女が出席するのを知ってわざと欠席したそうです。

(6)謎の死

1962年8月5日、彼女はロサンゼルス郊外の自宅の寝室で全裸で死亡しているのをメイドに発見されました。マスコミでは、「死因は睡眠薬の大量服用によるバルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報じました。

しかし不審な点も多く、当初から他殺説も囁かれていましたが、1980年以降は自殺説は影を潜め、何者かによる謀殺説が根強く唱えられています。

このような謀殺説が出てきたのは、彼女の死後、彼女がケネディ兄弟と不倫関係にあったことが複数の証言で暴露されたこと、彼女とケネディの仲を取り持ったのがマフィアと関係の深いフランク・シナトラであったことからFBIのフーヴァー長官が、ケネディとモンローの関係のみならず、ケネディとマフィアの関係についてたびたびケネディに忠告していたことなどが背景にあります。

2.マリリン・モンローの言葉

(1)お金が欲しいんじゃない。ただ素晴らしい女になりたいの。

(2)「冗談を言う女」に見られるのはかまわないけど、「冗談な女」に見られるのは御免だわ。

(3)ハリウッドはキスには10万円を払ってくれるけど、人間性には1銭も払ってくれないところです。

(4)一人になれた時、自分を取り戻せるの。

(5)犬は決して私に噛みつきません。裏切るのは人間だけです。

3.アンディー・ウォーホールによるシルクスクリーンの作品

アンディ・ウォホールのマリリン

上の絵はアンディー・ウォーホール(1928年~1987年)によるマリリン・モンローのシルクスクリーンの作品です。ご覧になった方も多いと思います。

彼は、アメリカの画家・版画家・芸術家で、「ポップアートの旗手」と呼ばれています。

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