私のような団塊世代にとっては、聖徳太子は「お札の顔」として昔からなじみ深い人物でした。
私が子供の頃は、1950年(昭和25年)発行の千円札も1957年(昭和32年)発行の五千円札も聖徳太子の肖像でした。そして一万円札が1958年(昭和33年)に発行された時も、やはり聖徳太子でした。お札のことを「聖徳太子」と呼ぶことがあるのもそのためです。
また、推古天皇は、甥の聖徳太子(574年~622年)を皇太子・摂政とし、治世中は太子を中心として政治を行いました。
そこで今回は聖徳太子についてわかりやすく詳しくご紹介したいと思います。
1.聖徳太子とは
聖徳太子(574年~622年)は、「飛鳥時代(592年~710年)」の中心的政治家で、父は用明天皇(第31代)で、母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后です。
用明天皇の母は「蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ、大臣・蘇我稲目の娘)」なので、彼は蘇我氏出身ということになります。
幼名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみおおうじ)で、のち上宮王(じょうぐうおう)とも言いました。
592年に即位した推古天皇の摂政として、仏教を基調とした政治を行いました。603年「冠位十二階」を定め、604年には「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」を制定しています。
「冠位十二階」は、家柄によって身分が決まる「氏姓制度」に代えて、個人の力量・才能によって地位を決めるもので昇進も可能であり、のちの官人の位階制の始まりとなりました。
「十七条憲法」は、官人貴族の服務規律であり、道徳規範でした。
607年小野妹子(おののいもこ)を隋に派遣して隋との対等の国交を開き、留学生・留学僧を送って大陸文化の導入に勤めました。また暦の使用、「天皇記」「国記」などの編纂を行いました。
彼は仏教に対して深い理解と信仰を示し、その著作「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」は独自の解釈を示すものと言われています。
また、法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺の7つの寺院を建立しました。彼は587年に起こった「丁未(ていび)の乱」で蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討ち滅ぼしましたが、その時四天王に祈念して勝利を得たので難波に四天王寺を建立したということです。
なお、「皇太子摂政の慣習」は推古天皇の時に始まりましたが、これは従来「大臣」「大連」に委ねられてきた国政総理の職掌を皇室に取り戻すことを狙ったものです。
彼の3人の側近は、高句麗の慧慈、百済系と思われる覚、新羅系渡来氏族の秦河勝でした。慧慈は仏教の師で覚は儒学の師でした。高句麗・百済・新羅の朝鮮半島の三国は互いに争っていましたが、彼は3人から東アジアの国際情勢を聞き、バランスの取れた情報を得ていたものと思われます。
彼は「仏教思想」や「儒教思想」は民衆を安定的に統治したり豪族勢力を牽制する上で、有用な手段と考えたのでしょう。
「冠位十二階」や「十七条憲法」は、豪族勢力を抑えて天皇を中心とした中央集権的官僚国家建設の準備を整えたものです。
外交面では、4~6世紀頃倭国(日本)が朝鮮半島南部に領有していた属領的諸国の「任那(みまな、にんな)」回復のための「新羅(しらぎ)征討」(*)が重大問題で、新羅問題を有利にし先進文化を輸入するためにも隋と国交を開始することとし、607年に小野妹子を隋に派遣したのです。
(*)「新羅征討」
日本書紀によれば、飛鳥時代に三度朝鮮半島への軍事行動計画がありました。562年に「任那(みまな)日本府」が新羅によって滅ぼされたため、これを回復するための「征討軍」です。
一度目の600年の戦いでは倭国が勝ち、新羅は降伏しました。しかし倭国軍が帰国した後、新羅は再び任那へ侵攻しました。そこで、601年には大伴連囓を高麗に派遣し、坂本臣糠手を百済に派遣して任那救援を命じています。
二度目の602年には、聖徳太子の弟来目皇子(くめのみこ)が新羅征討将軍に任命され2万5千人の兵を率いて筑紫国に屯営しました。しかし彼が病気になったため新羅への進軍を延期し、征討を果たせないまま翌年彼は亡くなりました。
三度めの603年には、来目皇子の兄の当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されました。しかし播磨国で彼の妻が亡くなったため帰還し、新羅征討計画は潰えました。
このように、彼は内政・外交・文化のすべての面で、日本の国益を第一に考えた政治を行ったと言えると思います。
ちなみに、彼は蘇我馬子との関係をうまく保っていましたが、彼の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)と馬子の息子蘇我入鹿(そがのいるか)の代になると対立することになります。山背大兄王が強大な力を持つことを恐れた蘇我入鹿は、643年に山背大兄王及びその息子の弓削王を暗殺します。これで聖徳太子の血筋は完全に途絶えることになります。
しかし、この事件によって実質最高権力者となった蘇我入鹿は皇位継承争いのライバルの反発を招き、645年「乙巳(いっし)の変」で中大兄皇子と中臣鎌足によって暗殺されました。
2.聖徳太子の言葉とエピソード
(1)言葉
①和を以て貴しと為す(十七条憲法)
②財物は亡び易くして永く保つべからず。ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし(遺詔)
(2)エピソード
日本書紀には、聖徳太子が十人の訴えを同時に聞いて、全員に的確に答えたという逸話が載っています。「豊聡耳」の名は、彼が聡明で訴訟裁定に優れた能力を持っていたことにちなんだものです。
羽生善治さんのような将棋の名人が、何人もの生徒を相手に、巡回しながら次々と将棋を指す風景をテレビで見たことがありますが、聖徳太子の伝説はこれと同じかそれ以上の「神業」のことを言っているのだと思います。