後白河法皇(後白河天皇)と言えば、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか?「源氏と平氏を操った天皇」とか「長年にわたり院政を行った法皇」といったところでしょうか?
ただこの時代は混沌としていて、なかなかわかりにくいというのが正直なところではないかと思います。
そこで今回は後白河法皇(後白河天皇)の生涯のうち、「保元の乱」までをわかりやすくご紹介したいと思います。
1.後白河法皇(後白河天皇)とは
後白河法皇(後白河天皇)(1127年~1192年、在位:1155年~1158年)は、第77代天皇です。鳥羽上皇(鳥羽天皇)(第74代)(1103年~1156年、在位:1107年~1123年)の第四皇子で、母は藤原璋子(後の待賢門院)です。
ちなみに、「上皇」と「法皇」の違いですが、「上皇」とは「太上天皇」の略で、「天皇の位を後継者に譲った天皇の称号」です。「院」と呼ぶ場合もあり、平安・鎌倉時代にあった「院政」はここから来ています。一方「法皇」とは「太上法皇」の略で、「出家した太上天皇の称号」です。
異母弟近衛天皇(第76代)の急死により即位し、第一皇子の二条天皇(第78代)に譲位(生前退位)後は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽と5代にわたって「院政」を行いました。
治世中は、「保元・平治の乱」、「治承・寿永の乱」と戦乱が続き、二条天皇・平清盛・木曽義仲との対立によって何度も幽閉・院政停止に追い込まれましたが、その都度あらゆる手段・権謀術数を駆使して復権を果たしています。
政治的には風見鶏的に情勢に応じて揺れ動きましたが、新しく興った鎌倉幕府とは軋轢を抱えながらも協調し、その後の公武関係の枠組みを構築しました。
南都北嶺のような寺社勢力には厳しい態度で臨む半面、仏教を厚く信奉して晩年には東大寺の大仏再建に積極的に取り組みました。
2.青年期(雅仁親王時代)
彼が生まれた時は、白河法皇(第72代)(1053年~1129年、在位:1073年~1087年)が権勢を振るっていました。「院政」は白河天皇が最初に始めました。ちなみに白河法皇は「天下三不如意」(賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの)で有名です。
院政を始めた白河法皇は、1095年に僧兵の強訴に対して院の御所を警備し、また皇位継承争いの対抗勢力を抑止するために源氏・平氏の武士を「北面の武士」として配置した人物です。
しかし1129年に白河法皇が崩御し、鳥羽法皇の時代(第75代崇徳天皇と第76代近衛天皇の治世)が到来します。堀河天皇(第73代)・鳥羽天皇(第74代)の治世は丸々白河法皇の院政の時代のため、スルーします。
崇徳天皇(1119年~1164年、在位:1123年~1142年)になったのは鳥羽法皇の第一皇子なので、第四皇子の雅仁親王は、皇位継承とは無縁の気楽な立場で、遊んでばかりの日々を過ごしていました。
その頃、田楽・申楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていました。彼は「今様」に常軌を逸脱するほどハマリ込んだため、貴族らの彼に対する評価は地に落ちたようです。鳥羽法皇も雅仁親王を「即位の器量ではない」とみなしていました。今風に言えば「ヘビメタやパンクにはまったどうしようもない道楽息子の皇族」といったところでしょうか?
鳥羽法皇はなぜか第一皇子である崇徳天皇を嫌っていました。実は崇徳天皇の母の藤原璋子が白河法皇の寵愛も受けており、「実は崇徳天皇は、白河法皇に寝取られて生まれた子で、憎むべき存在と考えていた」との説もあります。
そのため、鳥羽法皇は二番目の妻の藤原得子を寵愛し、雅仁親王ら藤原璋子の生んだ子は見放されるようになります。
崇徳天皇がいずれ息子の重仁親王に譲位すると、天皇の直系が我が子ではなくなることを恐れた鳥羽法皇は、「自分の子であることが確実な藤原得子の生んだ躰仁親王(後の近衛天皇)を崇徳天皇の養子にし、躰仁親王に譲位する」ように崇徳天皇を誘導しました。
崇徳天皇は本当は異母弟でも「養子」が天皇になれば「院政」が行えると考えて同意しました。しかしこれは、鳥羽法皇の罠でした。譲位の宣命には「皇太弟」と記されており、「養子」の話はなかったことにされていたのです。これでは院政も行えません。騙された崇徳上皇は失意のどん底に突き落とされます。
雅仁親王の最初の妃は源有仁の養女懿子ですが、守仁親王(後の二条天皇)を生んで急死します。
鳥羽法皇の強い願いで即位した近衛天皇は、1155年わずか17歳で亡くなります。そこで再び「皇位継承問題」が浮上するのですが、そこで候補に上がったのが雅仁親王の息子の守仁親王でした。なぜ守仁親王が選ばれたかというと、晩年の鳥羽法皇が寵愛した藤原得子の養子になっていたからです。
守仁親王は鳥羽法皇から見れば孫ですが、「養子」にすれば天皇の父として「院政」を続けることが出来るからです。
しかし、父が存命中なのにいきなり孫が即位するのはいかがなものか」という議論があり、最終的に雅仁親王(後白河天皇)が「守仁が成長するまでのつなぎ役」として即位することになったのです。言わば「ワンポイントリリーフ」です。
誰も悪評ばかりの後白河天皇に期待していませんし、彼自身も真面目に政務を行う気などさらさらなかったのです。
3.保元の乱
ところが、一人だけ後白河天皇の権力を盤石なものにしたいと躍起になっている貴族・学者の信西(1106年~1160年)という人物がいました。
彼の妻は後白河天皇の乳母で、後白河天皇を通じて自らの望む政治を行いたいと考えていました。信西は後白河法皇のことを「和漢に比類ない暗君」と見て、傀儡として操って自分の思い通りの政治を行えると考えたようです。
こうして、朝廷内の権力争いは複雑化し、大きく次の三つのグループに分かれました。
①後白河天皇をつなぎ役で終わらせたくない「信西」
②早く守仁親王を即位させたい裏の権力者「藤原得子」
③リベンジで重仁親王の即位を狙う「崇徳上皇」
一方、摂関家の藤原氏でも家督相続をめぐって異母兄弟の藤原頼長と藤原忠通が争っていました。
それぞれのグループ(勢力)の「皇位継承問題や家督相続問題をめぐる権力闘争に決着を付ける」ためには、「武士の力」(武力)に頼らざるを得なくなります。
鳥羽法皇が崩御した1156年、大きく「崇徳上皇派」と「後白河天皇派」に分かれて「保元の乱」という内乱が勃発します。
・崇徳上皇派:崇徳上皇、藤原頼長、源為義、平忠正
・後白河天皇派:後白河天皇、藤原忠通、信西、源義朝、平清盛、(藤原得子)
「保元の乱」が起きた頃、源氏と平氏は武士の二大勢力となっていましたが、それぞれ一枚岩ではなく、内部で勢力争いがあり、二派に分かれて「骨肉相食む」ことになりました。
結果は、後白河天皇派が勝利し、藤原頼長は敗死し、崇徳上皇は捕らえられて讃岐に配流されます。ちなみに崇徳上皇は菅原道真・平将門と並ぶ「三大怨霊」の一人です。
崇徳上皇方の武士を待ち受けていたのは親族同士による斬首刑で、源義朝は父の源為義を、平清盛は叔父の平忠正をそれぞれ斬首しました。
信西は、自らの武力としたい平氏の身分を上げ、逆に平氏に対抗しうる源氏を徹底的に潰すことで、その後の政治を有利に進めようと考えました。
しかし、源義朝は平清盛ばかりが出世することに強い不満を持つようになり、これが3年後に起こる「平治の乱」の遠因になります。
最初法皇や天皇は、番犬や警備員のような存在として武士を雇い入れ、身辺警護に当たらせていましたが、やはり武力を持つ者は強く、「飼い犬に手を噛まれる」のことわざとはちょっとニュアンスが違いますが、やがて武士に政治権力まで奪われてしまうことになります。
今風に言えば、「人間の役に立つようにと考えて使っていたロボットが人知を超えて(シンギュラリティ)暴走し、人間に危害を加えるようになる」といった感じでしょうか?これは近未来には起こりうる話です。