「洛中洛外図屏風」は教科書にも載っていますので、皆さんもご覧になったことがあると思います。しかし作者の一人岩佐又兵衛についてはあまり知られていません。
そこで今回は岩佐又兵衛と洛中洛外図屏風についてご紹介したいと思います。
1.岩佐又兵衛
(岩佐又兵衛自画像)
岩佐又兵衛(1578年~1650年)は、江戸時代初期の絵師で通称は「吃の又平(どものまたへい)」です。
彼は摂津国河辺郡伊丹(現兵庫県伊丹市)の有岡城主・荒木村重(1535年~1586年)の子として生まれました。荒木村重は織田信長の家臣でしたが、1579年信長に反逆を企てて失敗します。(有岡城の戦い)
落城に際して、荒木一族はほとんど惨殺されましたが、数え年2歳の彼は乳母に救い出され、石山本願寺に保護されます。
成人後、彼は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子・織田信雄に近習小姓役として仕えます。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったようです。信雄が改易後、浪人となった彼は勝以(かつもち)と名乗り、京都で絵師としての活動を始めました。
大坂の陣の直後の40歳の頃、福井藩主・松平忠直に招かれて、北ノ庄(現福井市)に移住し、忠直配流後の忠昌の代になってもとどまり、20年余りをこの地で過ごしています。ちなみに松平忠直は徳川家康の孫ですが、大坂の陣の戦功に報いられなかったため幕府に不満を持ち、乱行や不遜な行状が多く1623年に改易、豊後に配流となりました。菊池寛の小説「忠直卿行状記」にも描かれています。
1637年二代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、三代将軍徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移住しています。10年余り江戸で活躍した後、72歳で波乱の生涯を終えています。
余談ですが、狩野永徳のライバルである長谷川等伯(1539年~1610年)の養子になった長谷川等哲は彼の子供と言われています。
彼の作品には、「洛中洛外図屏風」のほかに、「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」などがあります。
2.洛中洛外図屏風
京都の市中やその郊外の名所や生活、風俗を描いた「洛中洛外図」は、同名の作品が日本に100作品以上あると言われています。
中でも有名なのが、岩佐又兵衛と狩野永徳の洛中洛外図屏風です。
(1)岩佐又兵衛の洛中洛外図屏風(舟木本。国宝、東京国立博物館蔵)
上図が岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風」(上:右隻・下:左隻)です。1614年~1615年頃の作品です。
この屏風の注文主については、歴史学者で東大名誉教授の黒田日出男氏は「洛中洛外図・舟木本を読む」で、印象的な「雪輪笹」の暖簾を手掛かりに、室町二条上ルの笹屋半四郎と推測しています。雪輪笹紋の暖簾の掛かった町家の裏庭に、注文主らしき人物(坊主頭、着流し)が描かれているということです。
ところでこの屏風は、戦後まもなく滋賀県長浜市の医師舟木邸で発見されました。舟木医師は少し前に彦根の古美術商から購入しましたが、発見者の美術史家・源豊宗氏はすぐに岩佐又兵衛の初期作と直感したそうです。
岩佐又兵衛の洛中洛外図屏風には、慶長末年の京の市民の活気に満ちた生活、特にその享楽的な側面を旺盛な好奇心と風刺精神によって描き出している点で、浮世絵などの風俗画のさきがけとして画期的な意味を持っています。この洛中洛外図によって、彼は「浮世絵の祖」「浮世又兵衛」とも呼ばれています。
並べると約7mの左右隻が、連続する構図の珍しいものです。南から見た京都の景観を東から西へ連続的に展開させ、鴨川の流れが左右の画面をつないでいます。
右隻に豊臣秀吉が建てた方広寺や豊国廟が、左隻には徳川家康が建てた二条城が対峙するように描かれ、中心に市街地が大きく描かれ、歌舞伎小屋や遊女屋など、庶民の生活も描かれています。建物や人々をクローズアップして取り上げているのが特色です。
左隻の三条大橋と高瀬川に架かる小橋が続くあたりには、祇園祭の様子が描かれています。また南蛮人や芸人、店先での商いの様子も描かれています。下方には東寺があり、堂内で読経している僧や、隅で若い女を抱きしめる僧の姿も描かれています。
右隻には五条大橋があり、花見の宴のあとで桜の枝や扇・日傘を持った集団が踊りながら賑やかに橋を渡っています。
五条大橋から四条大橋にかけての四条河原には、人形浄瑠璃・遊女歌舞伎などの芝居小屋がひしめいています。
(2)狩野永徳の洛中洛外図屏風(上杉本。国宝、米沢市上杉博物館蔵)
岩佐又兵衛の洛中洛外図屏風の方が、2,728人に上る人物が活き活きと描かれていて有名ですが、「唐獅子図屏風」で名高い狩野永徳(1543年~1590年)も「洛中洛外図屏風」(上図、上:右隻・下:左隻)を描いています。1564年~1565年頃の作品です。
絵の注文主は室町幕府第13代将軍足利義輝(1536年~1565年)です。足利義輝は上杉謙信に「上洛して管領に就任せよというメッセージ」を込めて贈るために狩野永徳に洛中洛外図を発注しました。しかし彼が1565年5月に三好三人衆によって暗殺されたため、同年9月に完成した絵は永徳の手許にとどまりました。
織田信長(1534年~1582年)が上洛した1574年、狩野永徳は次なる権力者の信長に接近します。洛中洛外図のことを知った信長は、1574年3月に「しばし」という目的で上杉謙信(1530年~1578年)に贈りました。これには「戦略的にしばし謙信を敵にしない」という意味が込められています。
こちらは、岩佐又兵衛のものと比べて画面の金色の雲が多いような印象ですが、描かれた貴賤老若男女の人数は2,485人に上るそうです。
右隻は西側からの景観で、御所が左端に描かれ、祇園会の山鉾と、鴨川と東山の名所が描かれています。
左隻は東側から北山・西山方面の景観で、花の御所・相国寺・公武の屋敷、嵯峨野・高雄・栂尾・北山・鞍馬などが描かれています。