司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で一躍幕末から明治維新に向けてのヒーローに祭り上げられた観のある坂本龍馬(1836年~1867年)ですが、彼が「近江屋事件」(1867年)で暗殺されたことには謎が多く残っています。
暗殺の実行犯は、京都見廻組の今井信郎、佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之介、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人だったことがわかっていますが、黒幕は誰だったかについてははっきりしていません。
1.坂本龍馬暗殺の実行犯「京都見廻組」の主要人物
(1)今井信郎
今井信郎(1841年~1918年)の先祖は徳川氏に従って三河から移住した譜代の旗本出身で、幕臣今井守胤の長男です。彼は「近江屋事件」の当時は、幕府の「京都見廻組」与力頭でした。直孫の今井幸彦氏(共同通信記者)の著書「坂本龍馬を斬った男」に龍馬殺害の実録が語られています。
組頭の佐々木只三郎から、「情報で坂本龍馬の隠れ家が判明。直ちにきゃつめを殺せ」の命を受け、彼が近江屋の二階座敷に入った時、八畳間に浪士風の男が二人座っていました。彼にはどちらが目指す龍馬なのかわからなかったので、片膝を折って、「坂本先生、お久しぶりです」と丁寧に頭を下げて挨拶しました。すると、右手にいた一人が顔をこちらに向けて「どなたでしたかなあ」と言ったので、彼は瞬間、太刀を抜き放ちざま、その男の額を力一杯さっと横に払ったということです。
彼は座った位置から横に薙いで斬ったのです。彼は直心影流(じきしんかげりゅう)の榊原鍵吉門下の免許皆伝、講武所師範で、「片手打ち」という独特の剣法を編み出した逸材で、剛剣の持ち主だったそうです。
なお、「京都見廻組」とよく似た組織に「新選組」があります。ともに会津藩の下で京都の治安維持に当たった組織ですが、「京都見廻組」は幕臣出身者で構成されたのに対し、「新選組」は浪人や農民など庶民階級で構成されるという「身分上の格差」がありました。
彼は1868年の鳥羽・伏見の戦いで斬り込み隊として参戦しましたが敗北し、江戸に戻った後、古屋作左衛門を隊長とする歩兵部隊「衝鋒隊」の副隊長として、甲州鎮撫に出兵し、江戸城無血開城後も会津から北越に転戦しました。
榎本武揚に従って北海道に渡り、「蝦夷共和国政府海陸軍裁判役兼軍監」となりましたが、1869年五稜郭が陥落し、投降しました。1870年、刑部省の尋問に対し、坂本龍馬暗殺に「見張り役として加わった」と自白して投獄(禁固刑、静岡藩へ引き渡し)されますが、1872年西郷隆盛の口添えにより特赦を受け、放免されています。その後静岡に住み、私立学校を設立したり、静岡県官吏になったりしています。
1877年に西郷隆盛による「西南の役」が勃発すると、警視局警部となり、部隊を率いて鹿児島へ向かいましたが、途中で終戦となってしまいました。後日彼が息子に語ったところによると、彼は「鹿児島に着けば寝返って西郷に加担し、新政府に一矢報いようとする計画だった」そうです。
五稜郭降伏人の助命は薩摩の尽力によるもので、今井は個人的にも西郷と脈絡相通ずるものがあったようです。
1900年になって、彼自身が雑誌「近畿評論」に「自分が坂本龍馬を斬った」と発表しました。なお、彼は晩年はクリスチャンとなっています。
(2)佐々木只三郎
佐々木只三郎(1833年~1868年)も、幕府の京都見廻組隊士で組頭でした。会津藩士の三男として生まれ、神道精武流を学んで「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範も務めました。幕府浪士組取締出役となり、1863年、「浪士組」を尊攘運動に利用しようとした清河八郎を暗殺しています。なお「浪士組」とは、1863年2月に将軍徳川家茂上洛に合わせて将軍警護のために作られた組織で、「壬生浪士、新選組、新徴組の前身」です。
のち京都見廻組の組頭となり、1867年、坂本龍馬の暗殺を指揮しました。
1868年の鳥羽・伏見の戦いで負傷し、1868年に亡くなっています。
(3)渡辺吉太郎
渡辺吉太郎(1841年~1868年)も、幕府の京都見廻組隊士です。彼は幕府の小普請組に所属し神奈川奉行所に勤務していましたが、神奈川奉行所時代から今井信郎と知り合いでした。
剣は今井信郎と同じく直心影流でしたが、1868年の鳥羽・伏見の戦いで戦死しました。
2.坂本龍馬暗殺の黒幕は誰か?
坂本龍馬は徳川幕府打倒に向けて、「海援隊」という商社を作り、「薩長同盟」を結ばせたりする大活躍をしますが、幕府側からばかりでなく、徳川幕府を倒して明治新政府樹立を目指す薩摩藩からも命を狙われる理由がありました。
というのは、国内での戦争を避けたかった龍馬は、「平和的な倒幕」である「大政奉還」を提案し、新政府は徳川慶喜を筆頭に、有力大名らの諸侯合議制にする公武合体論で動き出していたからです。
これでは、武力で徳川幕府を打倒して、薩摩藩や長州藩の下級武士たちを中心として全く新しい天皇主権の政府を樹立しようとする薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通の出る幕はありません。
(1)幕府・会津藩主松平容保(1836年~1893年)
1903年に佐々木只三郎(京都見廻組の組頭)の兄が、「坂本龍馬の暗殺を命じたのは会津藩主松平容保である」との証言を行いました。今井信郎の妻も、夫から長刀と一通の褒状を渡され、「これでもって俺が坂本と中岡を斬った。榊原先生にお目にかけてくれ。これは守護職から賜った褒状だ」と言われたとのことです。松平容保は龍馬暗殺事件の当時、京都守護職を務めていましたので、多くの人の納得を得やすい「最も順当な黒幕説」と言えます。
(2)薩摩藩・西郷隆盛(1828年~1877年)
薩長同盟などでは龍馬と協力関係にあった薩摩藩ですが、大政奉還後の新政府構想については、龍馬の考え方は薩摩藩にとって受け入れがたいものであったのは上に述べた通りです。
武力倒幕を敢行しようとする薩摩藩にとっては、龍馬は「邪魔者」でしかなかったのです。
坂本龍馬の居所を一番よく知っているのは、幕府側よりも薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通でした。
京都見廻組にとっては、1866年の「寺田屋事件」で伏見奉行の捕り方100人が寺田屋を急襲するも、龍馬によって2人が射殺された上逃亡される被害にあっていることもあり、西郷らが龍馬の居場所を教えて暗殺を唆した可能性はあります。
西郷隆盛が、佐々木只三郎らとどのようにコンタクトを取ったかについては次のような話があります。
佐々木只三郎は和歌の名手でした。そこで接触のために起用された人物が薩摩藩士高崎正風という和歌の達人でした。彼は佐々木の出身である会津藩の歌会に潜入しました。
剣の達人の渡辺吉太郎に接近したのは、武道に秀でた薩摩藩士海江田信義でした。渡辺の記録によれば、暗殺当日、龍馬が近江屋にいる時間帯の情報が見廻組にもたらされたそうです。
ちなみに、龍馬暗殺を自白した今井信郎の助命措置や特赦を取り計らったのは西郷隆盛です。
(3)幕府・紀州藩
海援隊士は、1867年に起きた「いろは丸沈没事件」の報復として薩摩藩が龍馬を暗殺したのではないかと強く疑いました。
「いろは丸沈没事件」とは、海援隊が借りていた「いろは丸」(長崎港から大坂に向かっていた)と、紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突し、「いろは丸」が沈没した事件です。
事故なのでどちらかが100%悪いということはないはずですが、賠償交渉で龍馬は「武器や金塊を大量に積み込んでいた」と主張して紀州藩を徹底的に追い込みました。
この交渉の結果、龍馬側の主張がほぼ通り、紀州藩が支払う額は8万3526両あまり(現在の貨幣価値で25億円~42億円)となりました。その後7万両に減額して支払われました。龍馬が暗殺される8日前でした。
紀州藩としては、龍馬に対して「憤懣やるかたない」「恨み骨髄」といった状況だったかもしれませんが、それだけで京都見廻組に龍馬暗殺を指示できる理由になるかというと、かなり無理があるように思います。
(4)幕府・勝海舟(1823年~1899年)
龍馬は暗殺される前、「自分の身は安全だ」と思っていた節があります。その理由は幕府の若年寄永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)の言葉です。
永井は龍馬が実現させた「大政奉還」の理解者で、龍馬は幕府とも良好な関係を築いていました。この永井の進言で、将軍徳川慶喜から「龍馬の捕縛禁止の命令」が出されていたのです。
龍馬暗殺の実行犯今井信郎は「禁固刑」を受けて静岡藩に引き渡しとなったはずですが、実は静岡藩の留置所には入っておらず、逆に静岡藩から毎月給料(現在の30万円前後)をもらっていたという史料が出てきたのです。
そして、そのように取り計らった人物が勝海舟だというのです。なぜ神戸海軍操練所で師弟関係にあった龍馬をなぜ海舟が暗殺する理由があったのでしょうか?
それは「龍馬が海舟を裏切った」からのようです。具体的には龍馬が策定した「新政府綱領八策」の中の高官の「参議」に海舟の名前がなかったからです。
また、龍馬は新政府のトップを徳川慶喜にしようと考えていたようですが、これなら「大政奉還」しても何も変わらないことになり、龍馬の新政府構想は海舟にとって受け入れがたいものでした。そういう意味で海舟の考えは西郷と同じです。
勝海舟と今井信郎とは以前からの知り合いで、ともに直心影流の剣術の免許皆伝で、講武所の師範を務めています。
しかし、将軍徳川慶喜から「龍馬の捕縛禁止の命令」が出されていたに、幕臣の勝海舟がそれを無視して龍馬暗殺を計画したと考えるのは無理があります。
以上の諸説を総合的に判断すると、命令を下したのは(1)の会津藩主松平容保で、(2)の薩摩藩・西郷隆盛が龍馬の居所情報を教えるなどして暗殺に加担したと考えるのが妥当だと私は思います。