エリザベス1世(1533年~1603年、イングランドとアイルランドの女王在位:1558年~1603年)の時代にイングランドは「アルマダの海戦」で、スペインの無敵艦隊を撃破しましたが、スペインは兵力では優勢だったはずなのになぜ敗れたのでしょうか?
日本でも織田信長(1534年~1582年)が今川義元(1519年~1560年)を破った「桶狭間の戦い」のように圧倒的な兵力差をひっくり返して勝利した例があります。
古代中国の故事「宋襄の仁(そうじょうのじん)」(*)のように、君主の無意味な仁義立てによって、戦いに敗れる例も稀にはあります。
(*)「宋襄の仁」<「春秋左伝僖公二十二年」から>
無益の情け。つまらない情けをかけてひどい目にあうこと。宋の襄公が楚(そ)と戦った時、公子の目夷(もくい)が「敵が陣を敷かないうちに先制攻撃しよう」と進言したが、襄公が「人の困っている時に苦しめてはいけない」と言って敵に情けをかけたために負けてしまったという故事
ただ通常の戦いの場合は、勝敗は様々な要因(時代に合った装備、優れた指揮官、巧みな作戦、兵士の士気、偶然の暴風雨のような自然現象など)があるものです。
今回は「アルマダの海戦」でのスペイン無敵艦隊の敗因とイングランド海軍の勝因について考えてみたいと思います。
1.アルマダの海戦
(1)アルマダの海戦とは
「アルマダの海戦」とは、1588年スペインのフェリペ2世はスペインの誇る「無敵艦隊」(アルマダ)を、ヘンリー8世(イングランド王)の宗教改革以来、宗教問題やイングランドのオランダ(ネーデルランド)独立戦争への介入、アメリカの領有権をめぐって対立の続いていたイングランドに向けて派遣しましたが、戦闘は嵐に見舞われ、軽砲装備の小型船で戦うイングランドに大敗を喫し、スペインは政治的にも軍事的にも衰退に向かいました。
なお、アメリカの領有権問題とは、イングランドの私掠船(海賊船)によるスペイン船やスペインの入植地に対する海賊行為のことです。
(2)戦争データ
年月日:1588年7月31日-8月8日 | |
場所: 英仏海峡、プリマス沖、ポートランド沖、ワイト島沖、グラヴリンヌ沖 | |
結果:イングランド、オランダの勝利 | |
交戦勢力 | |
イングランド王国
ネーデルランド連邦共和国 |
スペイン ポルトガル |
指導者 | |
チャールズ・ハワード(初代ノッティンガム伯爵) フランシス・ドレーク |
アロンソ・ペレス・デ・グスマン アレッサンドロ・ファルネーゼ(パルマ公) |
戦力 | |
軍艦34隻 武装商船163隻(200トン以上30隻) 快速船30隻 |
軍艦28隻 武装商船102隻 |
損害 | |
戦死50–100人 戦傷400人 火船8隻焼失 戦病死:数千人 |
戦死600人以上 戦傷800人 捕虜397人 喪失9~11隻 戦病死:20,000人 難破・行方不明:54隻 |
2.スペイン無敵艦隊の敗因
(1)ガレー船やガレアス船、ガレオン船のような大砲重装備の大型船が主体だったこと
もともとスペインの無敵艦隊は、波の穏やかな地中海での戦闘が主であったため、「ガレー船」(大勢の人力で櫂を漕いで進む軍艦)や帆船とガレー船の混合型の「ガレアス船」、大型帆船の「ガレオン船」のような大型船が主体でした。
「ガレアス船」は「ガレー船」より格段に大きく、3本のマストと前部と後部に楼閣を持ち、32本を超えるオール1本ずつに漕ぎ手が5人程度配置されていました。
大砲数も13~16門とガレー船の2~3倍の数を備えていましたが、重装備のため動きは鈍重で、海上での遭遇戦には向かず、密集艦隊戦での浮き砲台的な使用が前提でした。
波の荒い英仏海峡では、ガレアス船やガレオン船のような重量級の大型船は船体が不安定で、機動的な操船が難しい上に、砲弾の命中率の低下も招きました。
(2)撤退時の悪天候により大損害を蒙ったこと
1588年5月にメディナ・シドニア公率いる約130隻の無敵艦隊がリスボンを出港しましたが、7月末から8月はじめにかけて行われた一連の海戦のあと、グラヴリンヌ沖海戦でイングランドに敗北しました。
作戦続行を断念し、北海方向へ退避してスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指しましたが、アイルランド北側海域で暴風雨に見舞われ、難破・行方不明の船が54隻に上りました。
これは、元寇(1274年の文永の役と1281年の弘安の役)(いわゆる「蒙古襲来」)で、いずれの場合も蒙古軍が「神風」と呼ばれた暴風雨によって壊滅的打撃を受けた例とよく似ています。
3.イングランド海軍の勝因
(1)軽砲装備の小型船で機動的に戦ったこと
イングランドの「武装商船」は、実態的には「寄せ集めの海賊船」でしたが、機動的で小回りがきいたことがスペインの無敵艦隊を破った大きな原因だと思います。
これは、太平洋戦争末期の1945年に大日本帝国海軍が誇る世界最大の超弩級戦艦「大和(やまと)」が、アメリカの航空母艦から発進した多数の戦闘機・爆撃機・雷撃機によって集中攻撃されて蜂の巣のようになり、身動きが取れないまま自慢の大砲を発射することもなく撃沈された例とよく似ています。時代遅れの「大艦巨砲主義」が仇となったものです。
(2)海戦に巧みな海賊上がりの優れた指揮官がいたこと
①フランシス・ドレーク
サー・フランシス・ドレーク(1543年?~1596年)は、イングランドのゲール系ウェールズ人航海士・海賊(私掠船船長)・海軍提督です。
イングランド人として初めて世界一周を達成し、「アルマダの海戦」では艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破しました。
②ジョン・ホーキンス
ジョン・ホーキンス(1532年~1595年)は、イングランドの海賊・私掠船船長・奴隷商人・海軍提督です。「アルマダの海戦」の指揮官フランシス・ドレークの従兄弟であり、彼もこの海戦で活躍しました。
(3)兵士に報酬や栄誉を受けられる期待感があり、士気が高かったこと
エリザベス1世は前線基地のエセックス州のティルベリーで兵を鼓舞するための有名な演説(ティルベリー演説)を行いました。
豊臣秀吉も天才的な「人たらし」でしたが、エリザベス1世の人心掌握術もなかなかのものだったようです。
・・・いま貴方たちが目にしているように、私は貴方たちの中にやって来たのです。遊びでも気晴らしでもなく、戦いの熱気の真っ只中に、貴方たちの中で生きそして死ぬためにです。たとえ塵となろうとも我が神、我が王国、我が民、我が名誉そして我が血のために。
私はか弱く脆い肉体の女です。しかし、私は国王の心臓と胃を持っています。それはイングランド王のものです。そして、パルマ公、スペイン王またはいかなるヨーロッパの諸侯が我が王国の境界を侵そうと望むなら、汚れた軽蔑の念を持って迎えましょう。不名誉を蒙るよりも私は自ら剣を持って立ち上がります。
私自らが指揮官、審判官となり、貴方たち全員の戦場での勇気に報いましょう。私は既に報酬と栄誉に値する貴方たちの意気込みを知っています。私は王の言葉において約束します。貴方たちは正しく報われます。