1.「百聞は一見に如かず」とは
これは、「あることについて百回繰り返して聞くよりも、自分の目で一回見る方が確実だ」ということです。
「何度繰り返し聞いても、一度でも実際に見ることに及ばない。何事も自分の目で確かめてみるべきだ」という教えです。
2.「百聞は一見に如かず」の由来
これは「漢書」趙充国伝に由来することわざです。前漢の「宣帝(せんてい)」が、反乱を起こしたチベット系の遊牧民族を鎮圧するために、将軍の「趙充国(ちょうじゅうこく)」に必要な戦略と兵力を尋ねたところ、趙充国は「遠く離れた場所で戦略は立てにくいので、自分が現地に行って実際に見たものを地図に描き、策略を申し上げたい」と述べた故事によるものです。
紀元前61年のこと、西北に住むチベット系遊牧民の羌(きょう)が反乱を起こしました。これより前、羌の先零(せんれい)という一種族が、湟水(こうすい)の北で遊牧することを許されていましたが、彼らは草を追って南岸まで現れました。
この時鎮圧に派遣された漢の将軍が、不意に先零の主だった者千余人を殺害したので、先零は怒って他の種族の羌を誘い、漢軍を攻めたのです。その勢いは激しく、漢軍は大敗して退却しました。
そこで宣帝は、御史大夫丙吉を老将軍趙充国のもとに遣わして、誰を討伐軍の将にすべきか尋ねさせました。彼は「老臣に勝る者はありません」と答えました。趙充国はこのとき76歳になっていたのです。
彼は若い頃から対匈奴戦に従軍していました。武帝のとき、李広利将軍の配下として遠征しましたが、匈奴の勢いが強く全軍が包囲され、食糧も乏しく死傷者も多数出ました。この時、彼は兵百余人を率いて突進し、体に二十数カ所の傷を受けながらも、ついに囲みを破って全軍を救いました。武帝はその傷を見て驚き、車騎将軍に任じました。
ここから彼の対匈奴、対羌の生涯が始まったのです。その人となりは、沈勇で大略があり確かに下問を受けるのにふさわしい人物でした。
「将軍が羌を討つとすれば、どんな計略を用いるのか?またどれほどの兵を用いればよいのか?」と宣帝が下問すると、彼は「百回聞くより、一度見るほうがよくわかります(百聞は一見に如かず)。およそ軍のことは実地を見ずに遠くからは計りがたいもの、それゆえ願わくは金城郡に赴き、図面をひいて方策を立てたいと存じます」と答えました。
そう言ってさらに自分に任せてほしい旨を述べました。宣帝は笑って「よろしい」と言ったということです。
なお、上に画像に掲げた有名な「続き」は後世の人による創作です。ただ、この「続き」はよく考えたもので、我々が仕事や行動をする上で大いに参考にすべき教えだと思います。
3.「趙充国」とは
「趙充国」(B.C.137年~B.C.52年)は前漢の「武帝」(在位B.C.141年~B.C.87年)や「昭帝」(在位B.C.87年~B.C.74年)、「宣帝」(在位B.C.74年~B.C.48年)に仕えた将軍です。
彼は宣帝に答えた通り、金城に着いてから、こまかくその情勢を調べて、やがて「屯田」が上策であると上奏しました。騎兵をやめて歩兵1万人余りを残し、彼らを各地に分遣して平時には耕作させるというものでした。
やがてこの趙充国の策は採用され、彼はほぼ1年その地にとどまって、ついに羌の反乱を鎮めたということです。彼は長寿で85歳で亡くなりました。
余談ですが、最近の習近平主席率いる共産党一党独裁の中国による「チベットへの弾圧」は、このことわざのもとになった故事が生まれた2000年以上前からの「漢民族と異民族との攻防の歴史」の延長線上にあると言えなくもありません。また現在行われている「チベットへの漢民族移住政策」は、趙充国の「屯田政策」に倣ったものとも言えるかもしれません。