中村草田男は青年時代の心の苦悩を経てニーチェに出会い俳句に昇華させた。

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中村草田男

現代俳句で私が好きな人は、山口誓子、中村汀女、中村草田男(くさたお)などですが、今回は中村草田男についてご紹介してみたいと思います。

1.中村草田男とは

中村草田男(本名:中村清一郎)(1901年~1983年)は、清国(現在の中国)福建省厦門(あもい)で生まれました。父親は清国領事を務めていました。1914年に四国の松山中学に進学しますが、1918年に極度の神経衰弱となり1年間休学しています。

復学した頃に、ニーチェのツァラトゥストラはかく語りき」(*)に出会い、生涯の愛読書になります。前に記事に書いた「レンタルなんもしない人」も強い影響を受けた書物です。

(*)(筆者注)「ツァラトゥストラ」とは、古代ペルシャの預言者「ゾロアスター」のドイツ語読みで、「ゾロアスター教」の開祖。この本は、彼の言行に仮託して<超人><永劫回帰><力への意志>などを語ったもの。これらの言葉はわかりにくいので以下に説明します。

<超人>とは、「自らの確立した意思をもって超然と行動する人間」のことです。これに対して「人間関係の軋轢に怯え、生活の保障・平安・快適・安楽という幸福を求める一般大衆を「畜群」と批判しています。

<永劫回帰>とは、「人の生は宇宙の永遠の循環運動と同じように繰り返すものであるから、人間は今の一瞬一瞬を大切に生きるべきであるという思想」で、「生の絶対的肯定と、神・霊・魂のような虚構の全面否定」を説くニーチェの根本思想です。

<力への意志>とは、「人間を動かす根源的な動機」のことです。「生きている間に、できる限り良い所へ上り詰めようとする努力」は「力への意志」の表れであり、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものになろうとする意欲」とも表現されます。

1922年に松山高等学校に入学した直後に、可愛がってくれた祖母が亡くなったことで、不安と空虚に襲われ、哲学や宗教に、それを解決する道を求めるようになります。

1925年に東大文学部独文科に入学し、チェーホフやヘルダーリンを愛読しますが、1927年に再び神経衰弱となり翌年休学します。

この頃、斎藤茂吉の歌集「朝の蛍」を読んで、詩歌への目を開かれ、「ホトトギス」を参考にしながら「平安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱として句作を始め、「草田男」と号します。

1929年に高浜虚子に会い、復学した後「東大俳句会」に入り、水原秋櫻子の指導を受けます。

1931年、国文科に転じ、1933年に8年かかって東大を卒業しました。

このように青年時代の苦悩や深い思索のあったことが句作にも表れているからか、彼は「人間探求派」とも呼ばれています

彼と同じく「人間探求派」と呼ばれた加藤楸邨と石田波郷が「ホトトギス」を離れて、水原秋櫻子が主宰する「馬酔木(あしび)」に拠ったのに対し、草田男は「ホトトギス」に残り続けました。

ただ、彼は「ホトトギス」のスローガンである「客観写生・花鳥諷詠」は、「自己不在・人生逃避」に陥りかねないという危惧を持っていました。

2.私の好きな中村草田男の俳句

(1)校塔に 鳩多き日や 卒業す

(2)降る雪や 明治は遠く なりにけり

(3)万緑(ばんりょく)の 中に吾子(あこ)の歯 生え初むる

(4)冬の水 一枝(いっし)の影も 欺かず

(5)友もやや 表札古(ふ)りて 秋に棲む

(6)烈日に光と涙降りそそぐ

3.中村草田男の俳句についてのコメント

(1)これは卒業式の日、卒業生たちは期待と不安の入り混じった気持でしょうが、校塔に鳩が多くて、平和で祝福されているように感じたことを表現した句だと思います。

ただ、実際に草田男がこの句を作ったのは、彼の同級生が東大を卒業する時で、彼はまだ卒業できず見送る側でした。同級生の気持ちを代弁した句というわけですね。

(2)これは、1931年(昭和6年)、彼が30歳の時に母校の青南小学校を訪れた時の感慨を述べた句です。彼は雪の降る中を、建物も昔のままで懐かしい母校を眺めて思い出に耽っていたのでしょう。するとその時、校門から飛び出してきたのは「大正生まれ」の「昭和時代」の小学生たちです。

「明治生まれ」で「明治時代」の小学生だった自分と比べて服装やランドセルなどの持ち物もあまりにも違うので、時代が変わったことをつくづく感じたのでしょう。

(3)この句は、草木が見渡す限り緑になり繁茂する5月の頃、我が子の歯も生え始めた喜びを詠んだものです。子供の成長を生命力あふれる草木も祝福してくれているように感じたのでしょう。

(4)この句は、「ホトトギス」の武蔵野探勝会で、高浜虚子に従って立川市郊外に遊んだ折、普済寺という古刹で詠んだもので、「禅の趣」のある句です。

寒気の厳しい池の水面に影を落として静まり返っている冬木、葉を全て落とした枝を静かな鏡のような水面にくっきりと映している冬木の情景を見事に表現した句です。

冬こそ水も木も、一切の虚飾を捨て去って、偽りのない本来の相を見せるということです。

(5)この句は、久しぶりに友人を訪問すると、家の表札がやや古びて、いかにも「秋に棲む」といった落ち着いた感じになっていたというものです。

どちらかと言えば、うらぶれた侘しさも感じる句です。

(6)この句は、昭和20年(1945年)8月15日、終戦の詔勅を聞いて戦争が終わった感懐を詠んだものです。

カンカン照りの真夏の陽光が焼け野原となった東京に降りそそいでいたと思われます。学徒兵を含む多くの若人の命を奪った戦争の空しさ、多くの民家や建物を破壊し多数の無辜の民の命を奪ったアメリカの無差別爆撃の空襲のおぞましさなどさまざまな思いが胸に去来して涙を流したのでしょう。