「海国兵談」を著して海防の重要性と必要性を世に訴えた林子平については、歴史の教科書にも出てくるので名前はよく知られていますが、詳しいことは知らない人がほとんどだと思います。しかし、現在の日本を取り巻く国際情勢を見ると参考にすべき点も多いのではないでしょうか?
そこで今回は林子平について分かりやすくご紹介したいと思います。
1.林子平とは
林子平(1738年~1793年)は、江戸中期の経世家で、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれました。父が罪を得て除籍されたため、幼い頃は町医者の叔父林従吾に養われました。名は友直で、無六斎と号しました。
1756年、兄嘉膳が仙台藩士となり仙台詰めとなったため、一家は仙台に移りました。子平の身分は終生「無禄厄介」という不遇なものでしたが、これを逆用して仙台藩に経済政策などを進言した(ただし、採用はされませんでした)ほか、自由に江戸に出府し、あるいは長崎に赴いてオランダ商館長と知り合い海外事情を吸収するなど見聞を広めました。
江戸では、大槻玄沢(1757年~1827年)・桂川甫周(1751年~1809年)・宇田川玄随(1756年~1798年)などの蘭学者と交遊しました。
海外事情に通じ、1786年~1791年にかけて「海国兵談」善6巻を刊行して海防の必要性を説き、また「三国通覧図説」では蝦夷地の開拓を説きました。
しかし1792年幕府の忌諱(きき)に触れ、「世論を惑わし、体制を揺るがす危険な書」として発禁処分となり板木(はんぎ)も没収され在所(仙台)蟄居を命じられました。その後江戸に送られて禁錮に処せられました。ただし彼はその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生んで後世に伝わりました。
「親も無し妻無し子無し板木無し金も無ければ死にたくも無し」(六無の歌)と詠んで不遇のうちに没しました。
海防の緊要性を説き「海国兵談」を著した彼は、勤王を提唱し諸国を遊説した高山彦九郎(1747年~1793年)・歴代天皇陵の荒廃を嘆き「山陵志」を編纂した蒲生君平(1768年~1813年)とともに「寛政三奇人」と呼ばれました。「寛政三奇人」とは寛政期に尊王・外交に強い関心を示したあまり奇行もあった三人を指したものです。
2.「海国兵談」で彼が訴えたこと
1777年から1786年にかけて執筆した「海国兵談」(全16巻)で彼は、ロシアの千島列島・蝦夷南下の新情勢に対し、日本を守るために海防が喫緊の課題であることを力説しています。
海国にはそれにふさわしい軍備を要するとして、海軍を設立し、全国の海岸に砲台を設置することを緊急課題に挙げています。
彼は「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路」であると述べ、特に江戸湾防備を説いています。そして幕府の「鎖国無為」政策を批判しています。
ロシアのラクスマンが根室に来航し、通商を求めたのは1792年で、子平蟄居の年であったのは、幕府がいかに日本を取り巻く海外情勢から目を背け、現実を直視していなかったかを示すものとして象徴的です。
彼のこの「海国兵談」は警世の書として広く伝写され、海防論議が高まるにつれて尊王攘夷の志士たちを大いに刺激しました。
なお、1785年に著した「三国通覧図説」では、朝鮮・琉球・蝦夷の地理民俗紹介と、南下政策を進めるロシアへの防備策として蝦夷地開発の必要性を説いています。
3.現在の日本を取り巻く国際情勢
現在の日本を取り巻く国際上も、覇権を狙う中国の尖閣諸島周辺や東シナ海・南シナ海での軍事的挑発行動の継続、北方領土の不法占拠を続けるロシア、ミサイルを日本海に向けてたびたび発射して挑発する北朝鮮、反日反米路線を強化し北朝鮮との接近を続ける韓国など不安材料が山積しています。
日本政府には、このような厳しい現実を直視し、アメリカと連携して適時適切な対応をしてほしいものです。