西洋にはイソップ物語で有名な「アイソーポス(イソップ)」という有名な寓話作家がいますが、東洋にも「荘子」という奇想天外で不思議な寓話作者がいます。
アイソーポス(B.C.619年~B.C.564年)は古代ギリシャの寓話作家です。元は奴隷で、解放された後は寓話の語り手として各地を巡りましたが、それを妬まれてデルポイの市民に殺されたと伝えられています。
荘子(B.C.369年頃~B.C.286年頃)は古代中国の戦国時代の宋に生まれた思想家で、「道教」の始祖の一人とされています。
1.混沌の徳(こんとんのとく)
出典は「荘子」内篇應帝王篇、第七です。
南海の帝王を「儵(しゅく)」と言い、北海の帝王を「忽(こつ)」と言い、中央の帝王を「混沌(こんとん)」と言いました。
儵と忽とがある時、混沌の地で出会いました。混沌は両者を手厚くもてなしました。そこで儵と忽は混沌の徳(恩)に報いようと相談して言いました。
「人は皆七つの穴(目2つ、鼻2つ、耳2つ、口1つ)が備わっていて、これらをもって見たり、聞いたり、食べたり、呼吸をしている。しかし、混沌には7つの穴がない。ためしにこれ(穴)を開けてあげようではないか」と。
そこで、1日に1つ穴を開け、7日経つと混沌は死んでしまいました。
「儵」と「忽」は、どちらも「迅速、たちまちに」の意味があり、ここでは「せせこましい人間」を表すたとえの言葉として用いられています。
「混沌」は、「手の加えられていない無秩序な自然」を表す例えの言葉として用いられています。
「混沌の死」は、無秩序な自然(混沌)に人間らしさ(七竅)を加えることで、本来の自然がなくなってしまう様子を説いています。なお七竅(しちきょう)とは七つの穴のことです。
行き過ぎた知性化が何か大切なものを殺してしまうという教えです。
2.鵬程万里(ほうていばんり)
出典は「荘子」逍遥遊です。
北海の涯に「鯤(こん)」という名の魚がいる。鯤の大きさは何千里あるかわからない。鯤が化して鵬という名の鳥となる。鵬の背も何千里あるかわからない。
この鳥がひとたび力を込めて飛び立てば、翼は空一面にたちこめる雲かと思われるばかり、海面がどよめき動くほどの大風が吹き起こると、それに乗じて北海の涯から南海の涯に飛び移ろうとする。
斉諧(せいかい)という世の不思議を知る人の言葉によれば、鵬が南海に飛び移るには、海水にはばたくこと三千里、つむじ風に乗ってのぼること九万里、六カ月間も飛び続けた後、はじめてその翼を休めるそうな。
この言葉の意味は、「はるか遠く隔たった旅路・道程のたとえ」です。また、「限りなく広がる大海の形容」や「前途が洋々たることの形容」に用いられることもあります。
荘子は、この鵬を借りて、「世俗の常識を絶する無限に大いなるもの、何物にも囚われることのない精神の自由の世界に逍遥する偉大な者の存在」を示唆しようとしたのです。
それにしても、「鯤(こん)」(はららご、魚の卵)という至微至小(しびししょう)のものを、大いなる魚の名前とし、その鯤が鳥に成り変わったものが「鵬」だというのですからとても奇抜な発想と言えます。
「鵬程」とは、凡人には思いも及ばない遠大な事業・計画のたとえです。
「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」という言葉が「史記」にあります。「小人物には大人物の考えることや志はわからない」という意味ですが、「鵬程万里」と発想がどこか似ていますね。
3.轍鮒の急(てっぷのきゅう)
出典は「荘子」外物篇です。
荘周(荘子のこと)の家は貧しく食べる物が無くなったので、友人で地方の君主であった監河侯に穀物を借りに行きました。監河侯は荘周に、「よろしい。数日後に、私の領地から税金が手に入る予定だ。そうなったら君に三百金を貸そう。それでよいか?」と言うと、
荘周は怒って「私はここに来る道中で、私を呼ぶ声を聞いたのです。私が振り返ってみると、車のわだちの水溜まりにはまり込んで、今にも死にそうなフナを見つけたのです。私はフナに「どうした?フナよ」と問うと、フナが「私は東海の竜神の臣下です。どうか私に少しだけでも水を汲んで来てくれませんか?」と頼んできたのです。そこで私は言ったのです。「いいだろう。私はこれから呉の国に遊説に行くところだ。越の王に西江の水を一気に運んで来てもらおう。それでいいかな?」と言ってやると、
フナは怒ってこう言いました。「水がなくては生きていけない私は、今このわだちの水溜まりを頼るばかりです。たった一升のわずかな水で私の命がつながるのです。あなたのように悠長な調子でしたら、自分は干からびて干物になってしまいます。後日乾物屋の店先で私をお探しになれば、私と再会できるでしょうね。」
(今の私はそのフナと同じ心境です。)
この言葉の意味は、「目の前に差し迫っている危険や困難のたとえ」です。「轍」は「車が通った跡、わだち」のことで、「鮒」は魚のフナのことです。「轍鮒」とは、「車が通ったあと、泥の上にできたわだちに溜まったわずかな水の中でやっと泳いでいるフナ」のことです。
人間は上を見て栄耀栄華を望めばきりがありませんが、これはそんな贅沢な話ではありません。生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれて、わずかばかりの救いを渇望する者の心情を、往来の車の轍のあとの水溜まりに落ち込んだフナの危急に託して語ったものです。
4.荘子について
前漢の歴史家司馬遷(B.C.145年?~B.C.86年?)の著した「史記」に、荘子にまつわる次のようなエピソードがあります。
楚の「威王」(?~B.C.329年)が荘子の評判を聞きつけて宰相に迎えようとし、礼物を持って荘子を訪ねました。
すると荘子は、「千金は大したもの。宰相は最高の地位でしょう。しかし郊祭の生贄(いけにえ)になる牛をご覧なさい。長年、美食で養われ、錦繍で飾られ、最後には祭壇に曳かれて行く。その時、いっそ野放しの豚になりたいと思っても手遅れなのです。私は自由を縛られるよりも、どぶの中で遊んでいたい。気の向くままに暮らしたいのです」と言って断ったということです。
荘子の思想は、「あるがままの無為自然」を基本とし、人為を忌み嫌うものです。老子との違いは、老子は「政治色が濃い場合や俗世間で暮らす姿勢」があるのに対し、荘子は徹頭徹尾「俗世間を離れ、無為の世界に遊ぶ姿勢」です。