終戦後、日本語を「ローマ字」にしたり「フランス語」にする提案があった!?

フォローする



志賀直哉

私は、英語を中学・高校・大学と7年半勉強しましたが、あまり上達しませんでした。それで負け惜しみで言うのではありませんが、日本語、特に漢字には人一倍愛着を持っています。

朝鮮では漢字を捨ててハングルを導入」しましたが、日本でも戦後、「漢字を旧字体から新字体に変える国語改革」が行われました。私はこの国語改革は誤りだったと思っています。

しかしこれよりもっとひどい話があります。

戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に迎合したのか、「日本語をアルファベットのローマ字にする」とか、「フランス語を公用語にする」という提案がされたことがあるのをご存知でしょうか?

今回はこれについてご紹介したいと思います。

1.日本語を「ローマ字」にする提案

日本の国語表記の文字に「ローマ字」を採用しようという「ローマ字運動」は、幕末・明治時代からありました。

日本の近代化に伴う言語改革運動では、「漢字の廃止」が常に大きなテーマとなりました。

1867年に前島密(1835年~1919年)は、建白書「漢字御廃止之議」を15代将軍徳川慶喜(1837年~1913年)に上申しています。

漢字を廃した後の文字については、仮名とする議論もありましたが、1874年に西周(1829年~1897年)は「明六雑誌」で「ローマ字採用」を提唱しました。以後、1885年の外山正一の「羅馬字会」、1921年の「日本ローマ字会」設立などさまざまなグループが運動を続けました。

GHQは、日本人の精神を骨抜きにするには、漢字を全廃し平易なローマ字に変えさせて教育を行う必要があると考えたようです。

アメリカは教育使節団を派遣して日本の教育制度を査察し、その改革、ローマ字の採用を「勧告」しました。その報告書は1946年(昭和21年)春に公表されました。

戦前からあった「ローマ字会」や「カナモジカイ」は、年来の主張を一気に実現する好機と見て、しきりにGHQ民間情報教育局(CIE)に働きかけたようです。「漢字の学習に多くの時間をかけていたのでは科学の学習が遅れ、永久に日本は欧米に追いつけない」という主張でした。

私は、この主張は全く根拠のない「世迷い言(よまいごと)」だと思います。戦後湯川秀樹博士をはじめ、多数のノーベル賞受賞者を輩出したのをどう説明するのでしょう。彼らの多くは戦前の教育を受けた科学者でした。

2.「フランス語」を日本の公用語にする提案

その直後「小説の神様」と言われた志賀直哉(1883年~1971年)が「改造」昭和21年

4月号に、「國語問題」という一文を寄せました。

私は此際(このさい)、日本は思ひ切って世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘(まま)、國語に採用してはどうかと考えてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。

白樺派の作家は、武者小路実篤といい、この志賀直哉といい、浮世離れした人道主義者・理想主義者で、母国語である日本語学習・習得の大切さ、日本語は日本民族の歴史や文化などの伝統と密接に結びついていること、漢字はおろか日本語を国語として扱わないという無定見・不見識には驚くばかりです。

私は六十年前、森有禮が英語を國語に採用しようとした事を此戦争中、度々想起した。若(も)しそれが實現してゐたら、どうであったらうと考へた。日本の文化が今よりも遥かに進んでゐたであらう事は想像できる。そして、恐らく今度のやうな戦争は起こってゐなかったらうと思った。我々の學業も、もっと樂に進んでゐたらうし、學校生活も樂しいものに憶ひ返すことが出来たらうと、そんな事まで思った。吾々は尺貫法を知らない子供達のやうに、古い國語を知らず、外国語の意識なしに英語を話し、英文を書いてゐたらう。英語辭書にない日本獨特の言葉も澤山出来てゐたらうし、萬葉集も源氏物語もその言葉によって今よりは遥か多くの人々に讀まれてゐたらうといふやうな事までが考へられる。

若し六十年前、國語に英語を採用してゐたとして、その利益を考へると無數にある。私の年になって今までの國語と別れるのは感情的には堪へられない淋しい事であるが、六十年前にそれが切換へられてゐた場合を想像すると、その方が遥かによかったと思はないではゐられない。

文明開化」が叫ばれた明治時代初期の日本には、外国文化が一気に流入しました。西洋のものが何でも「ハイカラ」で新鮮に思えて、「国民総西洋かぶれ状態」になっていました。

そんな中で飛び出したのが「日本語廃止論」でした。文部大臣の森有礼が「日本語を廃止して英語を国語にすべし」と主張したのです。一部地域では、実際に日本語教育を止めてしまったため、地方から上京した受験生が、日本語で書かれた試験問題の意味を理解できず、試験官に「英訳」するよう要求し、試験会場が大混乱したこともあったそうです。

なお、「英語」を公用語としている国の大多数は、インドや南アフリカなどかつて「帝国主義列強」の一つであった「イギリス帝国」の植民地や領土だった国々です。

「フランス語」を公用語にしている国も、アフリカ西北部など「帝国主義列強」の一つであった「フランス」の旧植民地が多いようです。

志賀直哉の主張は、「ローマ字運動家」の主張以上に訳の分からない話です。戦争が起きた背後にヨーロッパの帝国主義列強によるアジア支配と搾取があり、それに抵抗しそれを排除したいという日本人を含むアジア人の願望など彼は全く考えていません。

国語を英語やフランス語にしたらどうして「オールハッピーの楽園」のように全てうまく行くと言えるのか理解に苦しみます。

彼は敗戦国の文化や伝統の破壊、外国語の強制的習得などを屈辱とも考えていないようです。

3.戦後の国語改革

貴族院議員だった山本有三(1887年~1974年)は、「国語を外国人の命令で変えられるのは耐えられない。自分たちでやるから」とGHQ民間情報教育局(CIE)に申し入れ、国語審議会を主宰し、漢字制限の具体化を着々と進めました。

「ローマ字会」や「カナモジカイ」も国語審議会の推進役として働きました。「文部省国語課」は戦争中の外地への日本語普及の仕事を失い、何か仕事を求めていたので国字改革に飛び付きました。「新聞社」は、長年念願の漢字使用制限の好機と見ました。この三者の協力で戦後の愚かしい国語改革は遂行されたのです。

1946年11月16日の内閣訓令と内閣告示で、1,850字の「当用漢字表」が告示されました。

「従来わが国で用いられている漢字は多すぎて、使い方も複雑なため、教育上または社会生活上多くの不便があった漢字を制限することは、国民の生活能力を上げ、文化水準を高める上に、資するところが少なくない」と趣旨を述べています。

GHQ民間情報教育局(CIE)が、21,000人の被験者を抽出して「識字率」を調査した結果、被験者の平均得点は100点満点で78.3点だったそうです。「教育上または社会生活上多くの不便があった」というのは全くのデタラメだったことがよくわかります。

私は個人的には、上の文章の赤字部分は、全く逆ではないかと疑問に思います。現代中国の文字は、1950年代に全面的に漢字を簡略化した「簡体字」となりましたが、日本の「新字体」よりもひどい改悪で、これが漢字発祥の国の文字かと疑いたくなるほどです。これでは、中国のほとんどの民衆は「古典を原文で読めない」状態となり、ある意味で「焚書坑儒」と同じ効果をもたらす「衆愚政治」のような気がします。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村