前に「自由律俳句」の俳人「種田山頭火」と「尾崎放哉」の記事を書きましたが、彼ら二人を育てた「自由律俳句の提唱者」である荻原井泉水とはどのような人物だったのでしょうか?
そこで今回は荻原井泉水についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.荻原井泉水とは
「荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)」(1884年~1976年)は、東京都出身の自由律俳句の俳人・俳論家です。自由律の俳誌「層雲」を主宰し、尾崎放哉や種田山頭火らを育てました。本名は幾太郎のち藤吉です。
この「井泉水」は、「納音(なっちん)」から付けた俳号です。
麻布中学の頃から俳句を作り始め、旧制一高では「一高俳句会」に参加しています。一学年下に尾崎放哉がいました。
1908年に東大文学部言語学科を卒業し、1911年に新傾向俳句機関紙「層雲」を創刊し主宰しました。同年、結婚しています。
「層雲」に、新傾向俳句への動きで先行していた「河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)」(1873年~1937年)も加わりました。1914年には「層雲」から初の自由律句集「自然の扉」を刊行しています。
1915年に彼は「季語無用」を主張し、自然のリズムを尊重した「無季自由律俳句」を提唱しました。季語を捨てることを拒んだ碧梧桐は「層雲」を去ることになりますが、代わって旧制一高の同窓の尾崎放哉や種田山頭火が加わり、「無季自由律俳句」を徹底して推進することになります。
1923年に妻が亡くなり、翌年には母も死去します。一時仏道を志して京都禅宗寺院東福寺塔頭に寄寓し、以後各地への遍歴の旅が多くなります。1929年には再婚して鎌倉に転居しています。
1940年、「大政翼賛会」が発足すると、「日本俳句作家協会」が設立され、理事に就任しています。また、「自由律」という名前が左傾主義的であるとして「内在律」と呼ばれることになり、彼も積極的に応じています。
「俳句をして国民の戦時意識を高揚するための言葉とならしめよ、といふことも時局下の要請の一つであらう。此点に於ては、むしろ欣然として、進んで其任につくべきである。(中略)私達の生きた気持をそのまゝ手榴弾のやうに投げつける内在律俳句の方が、その適任者として存分に働き得るのである」 — 『青年文化集 俳句と青年』
戦後も、「層雲」の主宰者として自由律俳壇を牽引し、1965年には自由律の俳人としては唯一となる「日本芸術院会員」に選ばれています。
また、昭和女子大学の教授も務めましたが、1976年に脳血栓のため92歳で亡くなりました。俳句と同様に自由奔放に生き酒に溺れて早世した弟子の種田山頭火(享年58)や尾崎放哉(享年41)と異なり、天寿を全うしました。
2.荻原井泉水の俳句
・空をあゆむ朗朗と月ひとり
・落葉の、これでも路であることは橋があって
・うちの蝶としてとんでいるしばらく
・みどりゆらゆらゆらめきて動く暁
・咲きいづるや桜さくらと咲きつらなり
・怒(いかり)にかつとして夢であったか
・月光ほろほろ風鈴に戯れ
・たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く
3.荻原井泉水にまつわるエピソード
(1)自由律俳句提唱の経緯
1911年に彼が創刊した自由律の俳誌「層雲」に、俳句革新運動の代表的人物の一人である「河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)」も加わりました。
ちなみに碧梧桐は、正岡子規の高弟として「高浜虚子(たかはまきょし)」(1874年~1959年)と並び称される人物です。彼は1902年に子規が没すると、1905年頃から従来の五七五調の形にとらわれない「新傾向俳句」に走り始め、1906年~1911年にかけて新傾向俳句の宣伝のため、二度の全国俳句行脚を行っています。
このように自由律俳句への動きとしては、碧梧桐の方が先行していました。
1915年に彼は碧梧桐の新傾向俳句の不徹底を批判して「季語無用」を主張し、自然のリズムを尊重した「無季自由律俳句」を提唱しました。しかし季語を捨てることを拒んだ碧梧桐は「層雲」を去ることになります。
その後、碧梧桐に代わって旧制一高の同窓の尾崎放哉や種田山頭火が加わり、「無季自由律俳句」を徹底して推進することになったのは前述の通りです。
(2)「カナモジカイ」評議員
「カナモジカイ」評議員を長く務めるなど、「国字改良諭」に賛同しました。
ちなみに「カナモジカイ」とは、漢字の使用を制限し、カタカナ書きを推進する「仮名文字専用諭」を唱える民間団体です。
伊藤忠商事の元相談役の伊藤忠兵衛氏も推進者の一人でしたが、私はこの「カナモジカイ」には反対の立場です。
蛇足ですが、私は戦後の「旧字体」を「新字体」に変えた「国語改革」も愚策だったと思っています。