近代哲学の祖と言われるカントの思想とは?

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カント

大正時代に学生の間で流行した「デカンショ節」の「デカンショ」は哲学者のデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だという話があります。

これについては、前に「デカンショ節にまつわる面白い話。歴史や名前の由来などを紹介。」という記事に詳しく書いていますので、興味のある方はぜひご覧下さい。

ところで、この三人の哲学者の名前は知らない人もいないほど有名ですが、それぞれの人物の生涯や思想については、詳しく知っている方は少ないのではないかと思います。

前回「近代哲学の祖と言われるカントとはどんな人物だったのか?」という記事を書きました。

そこで今回は、カントの思想についてご紹介したいと思います。

1.カントの思想の特徴

初期のカントは自然科学に関する論文を多く書いています。特にこの時代はアイザック・ニュートン(1642年~1727年)の活躍によって自然科学が大きく発展していました。

自然科学の発展はカントに大きく影響を与えており、それは倫理学も例外ではありませんでした。やがて、カントは自然そのものだけではなく、自然を知ろうとする人間の思考や心の原理を探求するようになります。

特に1780年以降、カントは3つの「批判書」(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)と呼ばれる代表的な著作を発表します。このことからカントの思想は「批判哲学」と呼ばれることもあります。

ところで、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の「批判」とはどういう意味でしょうか?

「批判」というと、「相手のことをやっつける」ような意味だと思う人も多いでしょう。

しかし、カントの「批判書」における「批判」とは、従来の「経験論」と「合理論」(後述)を批判して統合・超越し、「人間が知り得る限界がどこにあるのかを考えること」「私たちの能力の限界を確定する」という意味です。

カントは、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続く「ドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖」とされます。彼が定めた「超越論哲学」の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしています。

2.『純粋理性批判』

1781年(57歳)に、カントは最も代表的な著書となる『純粋理性批判』を発表します。

カントはそれまでにも多くの論文を発表していましたが、この著書の執筆のために、10年間沈黙の時期があったと言われています。ここでのカントの関心は、「認識」つまり「人間はどのように世界を知るのか?」ということでした。

純粋理性批判・真

純粋理性批判』の問題は「」(認識論)、つまり私たちにとって「正しい認識とは何か?」、「どうすれば正しい認識を獲得することができるか?」という点にあります。

カントは私たちの認識構造は感性、悟性、理性からなると考えていました。その内部的な仕組みとして「図式」や「カテゴリー」、「構想力」などがあると言っています。

本書の中でカントは、人間は対象に従って世界を知るのではなく、逆に世界を知る人間の認識のあり方に対象が従うのだという「コペルニクス的転回」と呼ばれる考え方を提示します。

これは、「太陽が地球の周りを回っている」という天動説から、「地球が太陽の周りを回っている」という地動説への転回を成し遂げたコペルニクスになぞらえたものであり、カントの中で最も有名な考え方の1つです。

3.『実践理性批判』『判断力批判』

カントは1788年(64歳)に『実践理性批判』、続いて1790年(66歳)に『判断力批判』という著作を発表します。

いずれの著作においても、カントの思想を貫いているのは『純粋理性批判』のコペルニクス的転回でも示されているように、「私たち自身のうちに何かを生み出す力が備わっている」という考えです。

『実践理性批判』では人間の意志が自ら自分自身に道徳的義務を課すということを、『判断力批判』では人間の反省的な判断力が美しいものや崇高なものを規定するという考え方を提示します。

実践理性批判・善

実践理性批判』の全体の問いは「」(道徳論)、つまり「私たちにとって道徳とは何か?」がテーマです。

カントの時代、道徳の判断基準はキリスト教に置かれていました。しかしカントはそれに満足しませんでした。なぜならカントは、理性で突き詰めて考えれば誰でも道徳は何かを了解できるし、もしそうでなければ道徳の本質を見極めたことにはならないと確信していたからです。

道徳の本質は何か?この問いに対してカントは「定言命法」によって答えます。

定言命法は、いわゆる「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というものです。これは、「欲求から離れて自律的に、しかも普遍的な仕方で自分に課したルールのみが道徳的である」ということです。

「誰からも命令されることなく、自分の意志で普遍的な良さを目指そうとする態度」が、定言命法のポイントです。

判断力批判・美

判断力批判』は、プラトンのいう「真善美」のうち「」(美学)を対象にした著作です。

私たちは何を求めるのか?何を欲するのか?」がテーマです。

美の領域を認識するのは「判断力」で、この判断力とは人間の「快・不快」を感じる能力だとカントは言います。芸術といってもカントは「自然を見て感じる美=自然美」を芸術としているので、我々現代人が想像する芸術の領域とはちょっとその範囲が違います。

悟性が認識する自然の領域において、判断力に基づく何らかの目的に沿って「物自体」をみれば、何らかの「美」を感じることができる、というのが、この領域です。

したがって、「自然の領域=真」の中で、「道徳の領域=善」の原理を用いて把握するのが「芸術の領域=美」だとして「判断力は、悟性と理性を媒介する」と「判断力批判」において全体を総括しています。

倫理学に関して、『実践理性批判』での議論はとても重要です。こうしたカントの考え方は、当時のヨーロッパの思想的背景を前提としています。

4.カントの思想的背景

この時代は、2つの思想が主流なものとして受け入れられていました。まず、1つはヨーロッパ大陸の伝統的な思想であった「合理論」という考えです。

そして、2つ目はイギリスに由来する比較的新しい思想であった「経験論」という考えです。経験論は文字通り私たちの経験が重要だと考えます。

(1)合理論

「合理論」とは、簡単にいうと、人間の思考や精神的な力に注目する考え方です。

たとえば、合理論の代表的な人物とされるデカルトは、「疑うことが出来るもの」を考えました。

その結果、唯一疑うことのできない「考える私」を発見し、「私は考える、それゆえに、私は存在する」(我思う、故に我あり)という知識が、経験に由来することのない確実なものだと考えました。

(2)経験論

「経験論」とは、たとえば、経験論の代表的人物であるロックは、生まれたばかりの人間の心は「白紙」のようなものであり、そこに知識が書き込まれていくのだと考えました。

つまり、私たちには生まれもった知識などなく、全ての知識は感覚を通して得た経験に由来するものだと考えました。

カントはこうした思想的背景を前提とし、自らの思想を紡ぎあげていきます。

私たち自身のうちに何かを生み出す力が備わっている」というカントの考えは、当時の潮流であった合理論と経験論から大きな影響を受けつつも、それらを共に乗り越えようとする格闘の中で生まれました。

5.神秘主義と経験主義の克服としての自由の思想

倫理学に関していえば、カントが乗り越えようとしたのは「神秘主義」「経験主義」と呼ばれるものです。それを乗り越えるためにカントが提示したのが、人間の自由という概念でした。

神秘主義」とは、道徳的な義務を神様のような神秘的なものによってもたらされると考えるものです。

簡単にいえば、道徳的な義務は「神様がそのように命令するもの」であり、私たちにはそうした神様の命令を感じ取ることが出来ると考えます。

経験主義」とは、道徳的な義務を具体的な利益や幸福によって説明するものです。

つまり、私たちが何かを道徳的な義務だと考えるのは、「そのようにした方が幸福になる(得をする)」という経験をしているからだと考えます。

カントの考えでは、私たちは神様によって生まれながらに道徳的義務を課せられているわけでもなければ、利益や幸福を得ることが出来たという経験によって道徳的義務を知るわけでもありません。

これらの考えはどちらも自らの外部に根拠を求めるという点で間違っているのであり、カントは道徳的義務を「私たちが自ら自分自身に与えるもの」と考えることで乗り越えようとしているのです。

このように、カントの倫理学は「自由の思想」であると言えます。つまり、私たち人間が自由であるということは、道徳や倫理の問題に関して重要な意味を持っているとカントは考えました。

6.『永遠平和のために』で政治問題に取り組む

以上のような道徳論に基いて著されたのが『永遠平和のために』です。ここでカントはかつての国際連盟、今でいう国際連合のもとになるような政治構想を行いました。

常備軍の全廃、諸国家の民主化、国際連合の創設などの具体的提起を行ない、さらに人類の最高善=永遠平和の実現が決して空論にとどまらぬ根拠を明らかにして、人間ひとりひとりに平和への努力を厳粛に義務づけています。

国家をひとつの人格として捉える。そうすると国家は対外的・対内的利害に動かされる傾向性をもっていると同時に、定言命法により道徳的法則を自分自身に課すような存在だということができる。でも国家は利害意識を放棄しようとしない。だから永遠平和状態に少しずつ近づくことしかできない。だから「つねに拡大しつつある国際連合」という考え方の方が役に立つ。

「結局、永遠平和状態に到達できないのなら、それを目指す意味なんてあるのか?」と思う人もいるかもしれない。

しかしそれは考え方として正しくない。なぜなら永遠平和状態がいつか達成されることは、自然の「摂理」が保証しているからだ(具体的にいつ達成されるのかは分からないが)。そのことに心配する暇があるなら、永遠平和状態に少しでも近づけるように努力するべきだ。

「まずもって純粋実践理性の国とその正義を求めて努力せよ。そうすれば汝の目的(永遠平和という恵み)はおのずからかなえられるであろう」。

余談ですが、カントは『永遠平和のために』という本の末尾、第2章の第3確定条項を説明するくだりで、海洋進出した欧州諸国のアメリカ・アフリカ・アジアにおける侵略・簒奪的姿勢を批判しつつ、中国(清)と日本の鎖国政策を、賢明な措置として言及しています。