「忠臣蔵」は、赤穂浪士「四十七士」が亡君浅野内匠頭の仇討ちのために吉良上野介を討ち取った物語としてよく知られています。
しかし、討ち入り後に切腹したのは「四十七士」ではなく「四十六士」だったというのは、忠臣蔵に特に興味を持っている人以外にはあまり知られていません。
そこで今回は、「切腹を免れた赤穂浪士の唯一の生き残り」である「寺坂吉右衛門」についてご紹介したいと思います。
1.「寺坂吉右衛門」とは
寺坂吉右衛門(1665年~1747年)は、赤穂藩の足軽で「赤穂浪士」の一人です。1702年12月14日の亡君浅野内匠頭の仇討ちに参加しましたが、泉岳寺へ向かう途中(あるいは討ち入り後に大石内蔵助の密命を受けて一行から離れたという説など諸説あります)に姿を消し、後に自首しましたが「お構いなし」として不問に付された人物です。
彼は吉田忠左衛門(1640年~1703年)の組下の足軽で、実直・誠実な性格だったようです。ちなみに吉田忠左衛門は60歳過ぎの人望ある長老で、大石内蔵助(1659年~1703年)の良き相談相手だった足軽組頭です。討ち入りの際は裏門隊の大将大石良金(通称「大石主税(ちから)」、内蔵助の嫡男)の後見を任されています。
足軽の身分の彼は「血判の義盟」には加わっていませんが、同志に加えてもらえるよう強く願いました。最初大石内蔵助は寺坂の身分を考えて躊躇しましたが、その熱意にほだされて最後には義盟に加えました。
2.討ち入り後の動静
(1)姿を消した理由
姿を消した理由については、「討ち入り後に大石の指示により、広島浅野家への密使となった」「討ち入り後に大石から、赤穂浪士の遺族に討ち入りの結果を連絡する密命を受けた」「単に怖くなって討ち入り前に逃亡した」「足軽のような軽い身分の者が討ち入りに加わっていることを大石が公儀に憚りがあるとして逃がした」などの諸説がありますが、真相は不明です。
後に吉田忠左衛門は「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」と語り、大石内蔵助は「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残しています。
しかし、この二人の話を文字通り解釈するのは間違いで、「大石の密命があって姿を消した寺坂を庇ったもの」と見る方が自然だと私は思います。
昭和11年に発見された伊藤家(吉田忠左衛門の娘婿の伊藤治興の家)の資料から、四十六士が四家にお預けになった後、寺坂が広島の浅野家に行ったことが確認できます。
伊藤治興(通称:十郎太夫)の「書置き」によれば、「寺坂吉右衛門が泉岳寺境内に入ろうとしたところ、寺内に入ってしまうと外に出られず、かねて吉田忠左衛門が申し含めておいたことが無駄になるとのことで、12月15日午前10時ごろ一同と別れ、12月29日に播州亀山に帰り着いた」とのことです。吉田忠左衛門が切腹の前日に伊藤治興に送った「暇乞い状」には、「吉右衛門のことはよろしくお願いいたします。うかつなことはしゃべらないようにお願いいたします」とあり、「討ち入り前に逃亡した不忠の士」への言葉とは思えません。
また堀部言真(堀部弥兵衛の甥)の書簡から、寺坂が赤穂藩医だった寺井玄渓のもとへ行っていることも確認されています。
寺坂は、伊豆大島への遠島に処された吉田忠左衛門の遺児にも忠義を尽くし、遠島の際の見送り・赦免後の出迎え・伊藤家までの護送など全てを行っています。
(2)幕府の処分を受けなかった理由
彼が討ち入りに加わりながら、幕府の追手に掛からなかったのは、全て大目付仙石久尚(1652年~1735年)の意向によるものです。浅野内匠頭の親戚である仙石久尚は、大石が出頭した大目付で、評定所では浅野びいきの判決を出した人物です。離脱後の寺坂には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手がかかりませんでした。
彼はその後、伊藤家(吉田忠左衛門の娘婿の姫路藩士伊藤治興)に仕えています。
3.晩年
晩年は江戸麻布曹渓寺の寺男となり、82歳で亡くなっています。後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられており、ここでの戒名は「遂道退身居士」となっています。
華々しく討ち入りをし、潔く切腹して果てた「四十六士」とは別の道ではありますが、彼は愚直に忠義を貫いて天寿を全うした人物と言えます。