明治天皇は即位直後に暗殺されて南朝系統の大室寅之祐にすり替わっていた!?

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1890年ころの明治天皇

歴史を振り返ると、安康天皇や崇峻天皇のような「明らかに暗殺された天皇」のほかに「暗殺された疑いのある天皇」がいます。

「孝明天皇の暗殺疑惑」は広く知られていますが、「明治天皇暗殺疑惑(すり替わり疑惑)」はあまり知られていません。

そこで今回は、「明治天皇暗殺疑惑(すり替わり疑惑)」を中心に、孝明天皇・安康天皇・崇峻天皇についてもご紹介したいと思います。

1.暗殺された疑いのある天皇

(1)明治天皇

明治天皇座像明治天皇

前に「南北朝正閏問題」の記事でも少し触れましたが、、第122代明治天皇(1852年~1912年)は、即位直後に暗殺されてすり替わっていたという説があります。

その根拠は、即位前の睦仁親王時代と即位後の明治天皇の人物の特徴があまりにも異なっているからです。

睦仁親王・写真中央の人

①睦仁親王は種痘を受けたため疱瘡(天然痘)に罹っておらず、「あばた」はありませんでした。しかし、明治天皇は疱瘡(天然痘)に罹ったため、疱瘡の後遺症として口の周りに「あばた」が残っていました。そのため自身の写真を撮られることを好みませんでした。

「御真影」は、お雇い外国人画家のキヨッソーネが描いた「肖像画」を写真に撮ったものです。また「あばた」を隠すために、髭(ひげ)を生やしています。

②1864年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官たちの悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13歳)は失神しました。しかし明治天皇は威風堂々として馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令したそうです。

③睦仁親王は幼少から虚弱体質で、毎年風邪をこじらせていました。また16歳になっても、宮中で女官と一緒に遊戯にいそしんでいました。しかし明治天皇は24貫(約90kg)の巨漢で、側近の者と相撲をして、相手を投げ飛ばしていたそうです。

④睦仁親王は16歳になっても、書は金釘流(つまり下手)で、政務にも無関心でした。しかし明治天皇は書が達筆で、学問にも熱心で教養豊かであったそうです。

⑤即位前の睦仁親王に乗馬の記録は残っていません。つまり馬に乗れませんでした。しかし明治天皇は、1868年1月の「鳥羽伏見の戦い」の際、馬上豊かに閲兵したそうです。

⑥即位前の睦仁親王の利き手は「右利き」でした。しかし明治天皇は「左利き」だったそうです。

以上のような事実から、即位前の睦仁親王と明治天皇とは「別人」ではないかという推理です。

私はこの他にも明治天皇にまつわるエピソードには、過保護に育てられた典型的な皇室の子供らしい「軟弱な性質で虚弱体質の睦仁親王」とは似ても似つかないものがあることに違和感を覚え、注目しています。

①日常生活は質素を旨とし、どれほど寒冷な日でも暖房は火鉢一つだけ。暑中も軍服を着用して執務を続けた

②外国嫌いで「攘夷一点張り」だった孝明天皇とは正反対に、日本の残すべき文化は残し、外国の取り入れるべき文化は取り入れるという態度だった

③当時の最新の技術であったレコードをよく聴き、唱歌・詩吟・琵琶歌などを好んでいた

④奈良時代に聖武天皇が「肉食の禁」を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでした

⑤無類の「刀剣愛好家」として知られ、1881年の東北巡幸で米沢市の旧藩主・上杉家に立ち寄った際には、上杉謙信以来の名刀の閲覧に夢中になり、翌日の予定をキャンセルした

⑥名刀を集めるだけでなく、「試し斬り」を好み、数多くの名刀を試し斬りで損傷させた

⑦外国の文化取り入れに積極的であったにも拘らず、「大の写真嫌い」であった

睦仁親王は即位直後に、父の孝明天皇と同様に岩倉具視一派に暗殺され、「何者」かがすり替わって明治天皇になったのではないかというわけです。

では明治天皇として即位したのは「何者」かというと、先祖は南朝初代の後醍醐天皇という「南朝の末裔」の大室寅之祐(おおむろとらのすけ)です。つまり、戦後「天皇の末裔騒動」を起こした熊沢天皇と同じ「南朝の末裔」です。

大室寅之祐は、伊藤博文率いる「力士隊」に以前所属していたとされる人物で、長州藩(現在の山口県熊毛郡田布施町)に住んでいたそうです。朝鮮系の部落民という話もあります。

「倒幕派」は、頑迷で退嬰的で「佐幕派」であった孝明天皇と、その皇子で虚弱体質で利用価値のない睦仁親王を暗殺し、長州に住んでいた「南朝の末裔」を擁立したというわけです。

これなら明治天皇が「自分は南朝方である」と語り、楠木正成像を皇居前広場に設置したのもうなずけます。

明治天皇と側室・子女

「大室寅之祐の子孫」であると自称する中丸薫の「天皇生前退位と神国・日本の秘密」という本があります。


天皇生前退位と神国・日本の秘密 「闇の権力」の日本占領を跳ね返す [ 中丸 薫 ]

明治天皇と側室の千種任子(ちぐさことこ)(1856年~1944年)との間に生まれたと自称する堀川辰吉郎(1891年~1966年)の娘が中丸薫(1937年~ )だそうです。

上の「明治天皇の側室と皇子・皇女の系図」では。側室の千種任子は、「二人の女の子(内親王)を生んだが夭逝した」とありますので、男子(親王)がいて成人までしているのであれば、この系図に載らないのは、奇妙なことです。

ちなみに堀川辰吉郎は、「昭和天一坊」とも呼ばれ「明治天皇のご落胤と僭称する詐欺師」との話もあります。

この本には、大室寅之祐が孝明天皇の息子の睦仁親王と入れ替わって明治天皇として即位した経緯が詳しく書かれています。

以降、京都に残った天皇(北朝)との対立が続く南北朝時代に入るが、その後、北朝側では足利義満が、自分の娘を皇室に嫁がせたり、さらには自分が北朝の女性との間に子を作り天皇にしてしまったため、その時点で、神武天皇以来続いて来た男系の皇統が途切れてしまった。

家の末裔幕末になり、長州藩にいた後北条の志士や吉田松陰が、やはり天皇家は本来の神武天皇の系統に戻すべきだと藩に進言し、長州藩により、天皇家の南朝への回帰作戦が開始された

大室寅之祐の家系、大室家毛利家に保護され長州に住み着いた。伊藤博文、岩倉具視らが、大室寅之祐に帝王学を徹底的に教え込み、最終的に孝明天皇の息子とすり替えて大室寅之祐を明治天皇として担ぎ上げた。

(引用:黒板五郎の徒然草|【歴史】明治天皇は、やはり大室寅之祐だった。北朝から南朝に戻った。)

(2)孝明天皇

第121代孝明天皇(1831年~1867年)はもともと、幕府を倒すつもりはなく、幕府と共存して皇室の地位を強めたいという考え方で、「皇女和宮降嫁」もその表れでした。

しかし、これは「倒幕派」にとっては都合が悪いことです。彼は1866年に疱瘡に罹りますが、病気回復中だったにもかかわらず、1867年に急死します。

明治天皇の外祖父である公家の中山忠能の日記にも、「天皇の病状を見ると、確かに不審な点がある。12日ごろ発熱し、16日に痘瘡と診断されたが、容態が快方に向かったところで激変したという」とあります。

幕末のイギリスの外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」には、「この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも断固として反対してきた。そのために、来たるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に直面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ」とあります。

1940年(昭和15年)に日本医史学会関西支部大会の席上で、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎氏が「孝明天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という趣旨の論説を発表しています。

最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者禰津正志(ねずまさし)氏です。彼は、医師たちが発表した「御容態書」が示すように、天皇が回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことに鑑み、「ヒ素による毒殺の可能性」を推定し、また犯人も戦前の佐伯説と同様、岩倉首謀・堀河実行説を唱えました。

倒幕派による毒殺説」があるのも、理由なしとしません。

2.歴史上暗殺されたことが明らかな天皇

(1)安康天皇

歴史上最初に暗殺された天皇は、第20代安康天皇(401年?~456年)です。

眉輪王(まよわのおおきみ)の義理の父に当たる安康天皇は、かつて眉輪王の父である大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺し、母である中磯皇女(なかしのひめみこ)を妃とし、眉輪王は連れ子として育てられました。安康天皇は、ある時妃との会話の中でふとその事実を漏らし、それを楼(たかどの)の下で遊んでいて聞いた7歳の眉輪王は、安康天皇が熟睡しているところを刺し殺しました。これが456年の「眉輪王の変」です。

事件後、その動機を追及された眉輪王は、「私は皇位を狙ったのではない。ただ父の仇に報いただけだ」と答えたそうです。

眉輪王は、葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の邸宅に逃げ込みますが、安康天皇の弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められて屋敷を包囲され、大臣の助命嘆願も空しく、眉輪王も葛城円大臣も共に焼き殺されました。

(2)崇峻天皇

第32代崇峻天皇(553年?~592年)は、蘇我馬子に暗殺されました。

蘇我馬子(そがのうまこ)(551年?~626年)は、蘇我稲目の子で飛鳥時代の豪族です。邸宅に島を浮かべた池があったことから「嶋大臣」とも呼ばれました。

572年、第30代敏達天皇の即位時に大臣となり、以降54年にわたり第31代用明天皇・第32代崇峻天皇・第33代推古天皇の四代に仕えて権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。

ちなみに彼は権力闘争を続けていた物部守屋(もののべのもりや)(?~587年)の妹を妻としています。

「仏教受容問題」(崇仏問題)では、排仏派の物部守屋や用明天皇の異母弟で皇位に就きたがっていて守屋に与した穴穂部皇子(あなほべのみこ)(?~587年)らと対立し、諸皇子・群臣を味方に引き入れて587年に排仏派を殺害し、朝廷における地位を確立しました。

その後、自身の擁立した崇峻天皇を殺害し、推古天皇を立てて聖徳太子とともに朝政を執りました。

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