童謡の誕生にまつわる悲しい、あるいは意外な興味深い秘話(その2)

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野口雨情

(野口雨情)

中山晋平

(中山晋平)

前に「からたちの花」などの「童謡の誕生秘話」をご紹介する記事を書きましたが、ほかにも興味深い話がまだあるのでご紹介します。

1.シャボン玉(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平)

野口雨情と中山晋平の二人はコンビとなって多数の童謡の名曲を世に送り出しました。

野口雨情(本名:野口英吉)(1882年~1945年)は、北原白秋・西條八十とともに「童謡界の三大詩人」と呼ばれています。茨城県出身で東京専門学校(現早稲田大学)中退後、職を転々と変えながら素朴な田園的情趣を主体とした作品を多く発表し、都会的風趣の北原白秋・西條八十と対照されました。

1923年に発表されたこの「シャボン玉」という童謡は、子供が無邪気にシャボン玉で楽しく遊んでいる様子が描かれていますが、「彼の夭逝した子供への鎮魂歌」だとも言われています。

なお、この曲は讃美歌461番「主われを愛す」に似ていると言われています。

1908年に彼は後に協議離婚することになる妻との間に長女みどりをもうけますが、生まれて7日目に亡くなっています。その後ある日のこと、村の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見て、娘が生きていれば今頃はこの子供たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩だというわけです。

雨情本人は何もこれについて書き残していませんので、あくまでも一つの説ですが、根拠は次の歌詞にあるようです。

シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた

社会主義詩人として出発した雨情は、北海道の「小樽新報」勤務中、同僚の石川啄木と主筆排斥運動を起こし解雇されたこともあります。

中山晋平(1887年~1952年)は、東京音楽学校を卒業した作曲家ですが、島村抱月・相馬御風作詞の「カチューシャの唄」、吉井勇作詞の「ゴンドラの唄」などの劇中歌のほか、野口雨情とのコンビで民謡の特徴を生かした童謡や歌謡曲を多数作曲しました。

二人のコンビの代表曲はほかに、「兎のダンス」「証城寺の狸囃子」「雨降りお月さん」「あの町この町」「黄金虫」「波浮の港」などがあります。

2.みかんの花咲く丘(作詞:加藤省吾、作曲:海沼實)

1946年8月25日に発表された「みかんの花咲く丘」は、「戦後生まれの童謡の中では最大のヒット曲」と言われています。

NHKでは敗戦で打ちひしがれた国民や子供たちを勇気づける目的もあって、1946年8月25日にラジオ番組「空の劇場」で、東京・内幸町の本局と静岡県伊東市の国民学校とを結ぶ「二元放送」をすることになりました。

放送には、当時12歳で人気絶頂の童謡歌手川田正子が出演し、作曲家の海沼實が作曲を任されていましたが、前日の24日になっても仕上がっていませんでした。

そこへ音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が、川田の取材のため、海沼と川田が滞在していた宿を訪ねて来ました。海沼は加藤に事情を説明し、必要な歌詞の大まかな流れを説明し、その場で作詞するよう頼みました。

加藤はまず主題から検討しました。放送が行われる静岡から加藤がまずイメージしたのは「みかん」でした。しかし当時、サトウハチロー作詞の「リンゴの唄」が並木路子と霧島昇の歌唱で大ヒットしており、「みかんの実」を歌うと先輩のサトウハチローから「二番煎じ」と嫌味を言われる恐れがあったため、あえて「みかんの花」の方を主題とすることに決めました。

海沼の指示した流れにみかんの花が咲く情景を盛り込んで1番と2番が完成し、3番には自らの体験を元に優しかった母を慕う思いを込めました。

原稿を受け取った海沼は東京に戻ってGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で詞の検閲を受け、検印を受けると直ちに伊東行の列車に乗り、列車の中で作曲を始めました。

車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと前奏が浮かび、伊東線の宇佐美駅付近でようやく曲が完成しました。

宿に着くと、海沼は作ったばかりの旋律を、口移しで川田に教えました。翌日の放送では川田はまだ歌詞を覚えておらず、彼が名刺の裏に書いた歌詞を見ながら歌ったそうです。

「名曲」ができるかどうかは、「それに要した時間」とは関係がないようです。しかし、加藤省吾と海沼實が大変な集中力で作詞と作曲に取り組んだことは間違いありません。

加藤省吾歌碑の前で妻と

加藤省吾(1914年~2000年)は、静岡県富士市出身の作詞家です。流行歌「丘を越えて」に触発されて作詞家を目指しましたが、印刷会社に勤務の傍ら自作の歌詞をレコード会社に売り込みました。「かわいい魚屋さん」が初ヒットとなり、1946年の「みかんの花咲く丘」が大ヒットとなりました。ほかに「隠密剣士の歌」や「快傑ハリマオ」の作詞もしています。

海沼實音羽ゆりかご会

海沼實(1909年~1971年)は、東京音楽学校(現東京音楽大学)卒業の作曲家で、在学中の1933年に「音羽ゆりかご会」を創設して、川田正子・孝子・美智子の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てました。

余談ですが、私が大阪21世紀協会に出向していた時、1983年の「大阪21世紀計画開幕式典」の曲を作曲家の芥川也寸志氏(1925年~1989年)に依頼しました。ところがなかなか曲が出来上がらず、合唱団の練習時間も必要なため関係者はやきもきしていたようです。これもかなり直前になってようやく出来上がったように記憶しています。音楽などの芸術作品は「無から有を生み出す」創造なので、生みの苦しみも大変だったのかもしれません。

3.背比べ(作詞:海野厚、作曲:中山晋平)

「背比べ」は1919年に雑誌「少女号」に詩が掲載され、曲としては1923年に「子供達の歌」に発表されました。

歌詞は端午の節句に背丈を測ってもらった子供の視点で書かれています。これは海野の17歳下の末弟春樹の視点から描いていると言われ、「兄さん」が海野です。

柱の傷が「一昨年」なのは、「昨年」は海野が東京にいて静岡県の実家に戻って来られず、弟の背丈を測ってやれなかったからです。

実家に帰れなかったのは、結核の治療中だったためとか、恩師の追悼式に出席していたためなど諸説があります。

「やっと羽織の紐(ひも)のたけ」とは、一昨年からの背丈の伸びが羽織の紐の長さと同じくらいだとする説が有力ですが、背丈自体が大学生の兄(海野厚)の羽織の紐を結んだ高さとする異説もあります。

海野厚(1896年~1925年)は、静岡県出身の童謡作家で、早稲田大学に学んでいます。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ、童謡作家になりました。中山晋平らとともに、「子供達の歌」を出版し、雑誌「海国少年」の編集長も務めました。結核のため、28歳の若さで亡くなっています。

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