「写真嫌い」だった西郷隆盛と大村益次郎と明治天皇!その理由は何か?

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大村益次郎

1.写真嫌いだった西郷隆盛と大村益次郎と明治天皇

私は、最後に述べるような事情で、幼児の頃の写真がないことが「トラウマ」のようになっていますが、歴史上有名な人物には、「写真嫌い」だった人がいます。

(1)西郷隆盛(1828年~1877年)

2018年のNHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」の第一回目の放送で、西郷隆盛の三度目の妻の「糸さん」が、上野の西郷隆盛像の除幕式の場面で、銅像をみて、「うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ」というセリフがあって意外に思われた方も多かったかもしれません。

エドアルド・キヨッソーネ

実は西郷隆盛の写真は一枚も残っていません。我々がよく目にする西郷隆盛の肖像画は、本人をモデルにして描いたものではなく、「お雇い外国人」のイタリア人画家のエドアルド・キヨッソーネ(1833年~1898年)(上の画像)が「顔の上半分は弟の西郷従道、下半分は従弟の大山巌の肖像画をモデルにして作り上げたものです。彼は西郷隆盛には一度も会っていません。

それなら「本人と似ていないと奥さんが言ったのも無理はない」と早合点した人も多かったでしょう。実は私もその一人でした。

しかし、よく調べてみると、エドアルド・キヨッソーネは西郷隆盛にゆかりの深い人のアドバイスも参考にして描いており、遺族や親族が「この肖像画こそ翁(隆盛)そのもの」と確認の上、糸夫人に贈呈したものでした。

そして、除幕式での糸夫人の発言「うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ」の真意は、「主人は礼儀を弁える人で、人前に出る時はこんな浴衣姿ではなく、きちんと正装していた」という意味だったようです。夫人としては、「西郷隆盛の正装姿の銅像」を想像していたのでしょう。

ところで、西郷隆盛が写真嫌いだったのは、暗殺などの身の危険を避けるためだったようです。

(2)大村益次郎(1824年~1869年)

大村益次郎は、幕末期の長州藩の医師・西洋学者・兵学者で、「維新の十傑」の一人に数えられています。もとの苗字は村田で、幼名が蔵六です。1977年のNHK大河ドラマ「花神」で、主人公として取り上げられました。日本陸軍の創始者でもあります。

彼は生涯に一度も写真を撮ったことがないと言われています。彼は「写真」のほか「洋服」も「船」も嫌いでこれらを合わせて「三きらい」として知られています。

彼の唯一の肖像画は、鋳銭司(すぜんじ)郷土館(山口市鋳銭司)に所蔵されています。この肖像画は、「お雇い外国人」のイタリア人画家のエドアルド・キヨッソーネが、大村益次郎の側近であった高橋朴庵が記憶に基づいて描いた写生を参考にして描いたものです。

靖国神社にある大村益次郎の銅像は、キヨッソーネの肖像画や遺族への取材を参考にしながら制作されたそうです。

彼の容貌は、一度見たら忘れられない特徴のある異相だったようです。頭が極端に大きく、顔も広く、眉毛が濃くて目は窪んで鋭い。さらに目と口の間が詰まっており、両目の間のしわを寄せると異相が現れたそうです。彼のあだ名が「火吹き達磨」と呼ばれるゆえんです。

彼も西郷隆盛同様に「暗殺」を恐れて写真を撮らせなかったのかもしれませんが、皮肉なことにその特徴的な顔のせいで面が割れて、刺客に襲われ、後日その時の傷がもとで亡くなりました。

(3)明治天皇(1852年~1912年)

明治天皇

西郷隆盛・大村益次郎と並んで、「写真嫌い」で有名なのが明治天皇です。

明治天皇も暗殺を恐れたのでしょうかそれとも「写真を撮られたくない別の理由」があったのでしょうか?

しかし、明治天皇の場合は、西郷隆盛や大村益次郎とは違って警護も厳重に行われているでしょうから、過度に暗殺を恐れる必要はないと思います。では写真を撮られるとまずい別の理由があったのでしょうか?

これについては、天然痘の傷跡(あばた)があるので写真を撮られるのを嫌がったとか、そもそも明治天皇は孝明天皇の子ではなく、すり替えられた別人なので写真を撮られると身元がバレるためとか様々な推測があります。

「明治天皇の御真影」(上の画像)は、お雇い外国人画家のキヨッソーネが描いた「肖像画」を写真に撮ったものです。また「あばた」を隠すために、髭(ひげ)を生やしています。

なお、「お雇い外国人」のイタリア人画家のキヨッソーネは、上記三人の肖像画のほか、明治の元勲や皇族の肖像画を多数制作しています。

2.私の幼児の頃の写真がない話

私は、幼稚園に入るまでの幼児の頃の写真が全くありません。幼稚園の時は、幼稚園の七夕祭りのスナップ写真と幼稚園の卒園式の集合写真、それと親戚の人に自宅の前で写してもらったジャンパー姿の写真など数枚あります。

私の母は大正12年生まれですが、涎掛けをした幼児の頃の写真があり、姉も写真館で撮った母に抱かれた記念写真があるので、「なぜ自分だけないのか」「捨て子だったのではないか」と気になっていました。

一度そのことを母に聞いたことがあります。その当時は食糧難で、生活も苦しく食べることに精一杯の「タケノコ生活」で、カメラも家にはなく写真館で写真を撮ることなどに頭が回らなかったとのことでした。終戦直後の「ハイパーインフレ」や「新円切り替え」などで大混乱の時代だったようです。

私が小学生のころ、同級生には「母子寮」から通っている同級生がいました。男の子は戦時中の国民学校の古着、女の子は古着のセーラー服を着ていたので、ほかの私服の同級生からは浮いていました。

私たち団塊世代の少し上の世代には「戦災孤児」が沢山いました。我々の世代でも、日本人の母親と進駐軍のアメリカ軍兵士との間に生まれ両親に見捨てられた「混血孤児」(GIベビー)や生活が苦しくて「捨て子」をする人も少なくなかったようです。子供向け雑誌にも、金持ちが捨て子を養子にする物語がよくありました。

今では考えられないくらい貧しい時代の日本だったことがわかります。

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