「日本三大怨霊」の一人である平将門の怨霊伝説とは?

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相馬の古内裏・歌川国芳

平将門の生涯と人物像については、前に「天皇になろうとして失敗した平将門とは?武士の力を示し後世への影響も大きい!」という記事で詳しくご紹介しましたが、今回は「日本三大怨霊」とされるようになった平将門にまつわる「怨霊伝説」をご紹介したいと思います。

1.「日本三大怨霊」

平将門は、菅原道真崇徳天皇(崇徳院)と並んで「日本三大怨霊」とされています。

この三人が「三大怨霊」と言われるようになった背景には、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きな影響を与えているようです。

そもそも「怨霊」とは、「自分が受けた仕打ちに対して恨みを持ち、その死後も祟(たた)りをもたらす者」のことです。

討ち取られた平将門の首は平安京に運ばれ「晒し首」にされました。日本の歴史上、「晒し首」になったのは平将門が最初と言われています。

平将門が怨霊とされるのは、この「晒し首」に起こったさまざまな出来事が原因とされています。

2.平将門の「怨霊伝説」

冒頭の絵は歌川国芳(1798年~1861年)筆の「相馬の古内裏」です。非常にデフォルメしたおどろおどろしい絵ですが、奇想天外で斬新です。現代のシュールレアリスム(超現実主義)のスペインの画家のサルバドール・ダリ(1904年~1989年)の絵のようですね。

(1)首の伝説

・晒し首は数ヵ月の間、目を見開いていた

・晒し首の前で歌人が歌を詠んだところ、晒し首が「俺の胴は何処にあるのか」と語った

・晒し首が自分の胴体を捜しに東方に飛び去ってしまった

また、関東に飛んで行った首は関東にたどり着いたという話もあれば、途中で地上に落ちてしまったという話もあり、首が落ちたと伝わる場所には今でも「平将門の首塚」と称されるものが残っています。

最も有名なのが東京都千代田区大手町にある「平将門の首塚」(将門塚)(下の画像)です。此の首塚には、移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも恐れられているそうです。

将門塚

・関東大震災後の「都市再開発」(復興計画)として、大蔵省の仮庁舎を建てようとして「将門の首塚」を壊そうとしたところ、工事関係者や大蔵省職員、大蔵大臣などの相次ぐ不審死が起こったため、仮庁舎を取り壊し、鎮魂碑を建てた

・戦後「戦災復興都市計画」として、GHQが「丸の内・大手町周辺の区画整理」にとって障害となるため、この地を撤去しようとしたところ、ブルドーザーが横転して中の人が亡くなるなどの不審な事故が相次いだため、計画を取りやめた

など不審死や不審な事故が相次いだため、計画をとりやめたという逸話です。

(2)調伏伝説

千葉県成田市の「成田山新勝寺」は、東国の混乱を恐れた朱雀天皇の密勅によって、寛朝僧正が、京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(940年)海路にて上総国尾垂浜に上陸し、平将門を調伏するために下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを開山起源に持っています。

このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないということです。

また、例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加しますが、将門が主人公であった1976年大河ドラマの「風と雲と虹と」の出演者は、成田山新勝寺の節分豆まきへの参加を辞退したそうです。

(3)祭祀伝説(将門を祀った神社)

平将門を祀った神社は、東京を中心に数多くあります。最も有名なのが神田明神です。

神田明神はもともと普通の神社として作られましたが、「平将門の乱」で将門の首がこの付近に埋葬されると、1300年ごろから平将門と神田明神の信仰が合わさり、1309年には主祭神として祀られるようになり、今に至っています。

神田明神で平将門に祈りを捧げれば、平将門の乱で勝負を決めた将門のように、勝負運が上がるという話も伝えられています。

(4)将門一族の伝説

軍記物語「源平闘諍録」(1337年頃までに成立)以降、「将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称した」という伝説ができました。

この伝説によると、将門は妙見菩薩のご利生で八ヵ国を従えましたが、凶悪の心で神慮を憚らず、帝威も恐れなかったため、妙見菩薩は将門の養子(実際には叔父)の平良文のもとに渡ったということです。

この伝説は、良文の子孫を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられています。

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