広島と長崎への原爆投下の本当の理由とは何だったのか?

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長崎原爆投下

アメリカ軍が1945年8月6日に広島に原子爆弾(原爆)を投下し、続いて8月9日には長崎に原爆を投下して、日本は8月14日に「ポツダム宣言」を受諾し、8月15日に終戦を迎えたわけですが、広島と長崎への原爆投下の本当の理由とは何だったのでしょうか?

1.広島と長崎への原爆投下に至る経緯

原爆ドーム長崎原爆鳥居

1945年8月6日に広島に「ウラン型」の原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、3日後の8月9日に長崎に「プルトニウム型」の原子爆弾「ファットマン」が投下されました。

広島では、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち、9万人~16万6千人が被爆から2~4ヵ月以内に死亡し、原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされています。

長崎では、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。

ところで原爆投下に至る経緯はどのようなものだったのでしょうか?

(1)「ヤルタ会談」と「ヨーロッパ戦線」でのドイツの降伏

ヤルタ会談

第二次世界大戦は、主に「ドイツ」と「アメリカ・イギリス・ソ連の連合軍」との戦いである「ヨーロッパ戦線」と、主に「日本」と「アメリカ」が戦った「太平洋戦争」です。

どちらも1945年にドイツと日本の敗戦で終結することが決定的となっていましたが、ドイツが西からはアメリカとイギリスに、東からはソ連から攻め込まれて挟み撃ちの状態で、ドイツが日本より早く敗北することが明らかでした。

そのため、アメリカ・イギリス・ソ連の3ヵ国は、1945年2月に、占領したドイツやヨーロッパの国々を、終戦後にどう扱うかを決める「ヤルタ会談」を、クリミア半島の保養地ヤルタで行いました。

ヤルタ会談の頃から、アメリカとソ連の対立は徐々に始まっていました。ソ連は資本主義を否定してどんどん支配地域を広げようとする社会主義国であり、アメリカはそれに危機感を感じる資本主義国です。本来社会的・政治的にお互いに協調できる相手ではありません。

ただ当時は、ドイツや日本という「共通の敵」がいたため、両者は手を結んでいました。

しかしドイツは1945年5月に降伏しました。これによってドイツの国土は各国が「分割統治」する状態となり、その直後からアメリカとソ連の緊張が高まり始めました。

ソ連は占領したドイツに社会主義国を作ろうとし、アメリカやイギリスはこれを阻止しようとして睨み合いを続けました。しかし「ヤルタ会談」で分割統治の約束が出来上がっていたため、ソ連の占領地が社会主義陣営に呑み込まれるのは時間の問題でした。

こうしてドイツは、社会主義国の東ドイツと、資本主義国の西ドイツに分割されてしまいました。

「ヤルタ会談」ではもう一つ、アメリカとソ連にとって重要な取り決めが行われていました。それは「ソ連の対日参戦」です。アメリカが日本との戦いをさらに優勢に進めるため、ソ連の対日参戦を要求していたのです。

これが後々、問題の種になるのですが・・・

(2)「太平洋戦争」での日米の状況

アメリカ軍は硫黄島や沖縄への上陸戦を始め、日本の各都市への都市爆撃(本土空襲)も続行し、日本は悲惨な状況になっていきました。

一方、硫黄島や沖縄への上陸戦や、「神風特別攻撃隊」の攻撃でアメリカ軍の士気の低下も見られるようになりましたが、「ヤルタ会談」でソ連の参戦を促していた手前、後退など悠長なことは言っておられませんでした。

ソ連はヤルタ会談で取り決めていた東ヨーロッパの扱いを無視して、それらの国をどんどん社会主義国化し、ソ連の属国にしていったのです。そのような事情で、ソ連とアメリカの関係はどんどん悪化しました。

そんなソ連が日本に参戦し、日本を占領すれば、ドイツ分割の悲劇が繰り返され、社会主義の更なる拡大を呼び込むことになります。

また、日本は太平洋に面した島国なので、ここがソ連に占領されると、太平洋方面に艦隊を出撃させるための絶好の軍港・前線基地を与えることにもなります。それはアメリカの戦略上、絶対に防がなければならない事態でした。

(3)ドイツの敗戦による原子爆弾の研究者・研究資料の流出

原子爆弾の理論は、戦争が始まる前から提唱されており、各国で研究が行われていました。その研究が最も進んでいたのが、ドイツ・アメリカ・ソ連です。

1938年にドイツの化学者・物理学者のオットー・ハーン(1879年~1968年)が「原子核分裂」を発見しました。そして1939年にレオ・シラード(1898年~1964年)(ハンガリー生まれのアメリカのユダヤ系物理学者)が「核を使って強力な爆弾を作れること」に気付き、アルベルト・アインシュタインに相談しました。

ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカに移住していたユダヤ人科学者のアインシュタインは、アメリカのルーズベルト大統領へ「ドイツが発見した原子核分裂を用いて強力な爆弾を作ることができるかもしれない。ウラン開発を進めるべきだ」という手紙を出しました。

ルーズベルト大統領はこの手紙を見て、「原子爆弾を作らないといけない」と考え、1942年に「マンハッタン計画」を秘密裏に立ち上げたのです。

アインシュタインは「平和主義者」として有名ですが、ルーズベルト大統領への核開発を勧める手紙を書いたことについて、彼は後に「ナチス・ドイツが核エネルギーを使って港全体を破壊できる新しいタイプの極めて強力な爆弾を作ることを懸念していた。当時はこれ以外に選択肢がないと感じていた。しかしドイツが開発間近ではなかったことを知り、この書簡は大きな誤りだったと思う」と述べています。

原子爆弾の圧倒的な破壊力はすでに予想されていたため、敵国に先に原子爆弾を作られてしまうと、政治的にも軍事的にも不利になります。

そのためアメリカは、1942年から研究開発(いわゆる「マンハッタン計画」)を開始し、イギリスとともに1944年の段階で、日本に原爆を落とすことに合意していました。

そんな中、ドイツは原爆の完成前に降伏しました。そしてドイツの首都ベルリンを陥落させたのはソ連軍でしたから、ドイツの原爆の研究者や研究資料の多くはソ連に持ち去られ、そのままソ連の核兵器開発を助ける結果となりました。

この事態に焦ったのはアメリカです。実際にはドイツの原爆研究はそれほど進んでいなかったのですが、原爆の情報は最大の極秘事項のため、研究の進捗状況はアメリカにはわかりませんでした。

ソ連より先に原子爆弾を完成させなければ、戦後の米ソの対立でアメリカは不利になります。

(4)「ポツダム会談」とアメリカによる原子爆弾の実用化

ポツダム会談

こうして「ヤルタ会談」後、アメリカとソ連の緊張がどんどん高まる中の1945年7月に、ソ連が占領したドイツ・ベルリン近郊のポツダムで、アメリカ・イギリス・ソ連の3ヵ国の二度目の会談が行われました。これが「ポツダム会談」です。

この会談では、主に敗戦が近い日本をどうするかが話し合われました。

ソ連側は、「準備が出来次第、対日参戦を行う。終戦後、各国が占領している地域は、そのままその国が統治する」と主張しました。

これは「ヤルタ会談」の決定と同じもので、日本に領土を広げたいソ連としては当然の主張でした。特にソ連は、太平洋方面への理想的な軍港・軍事基地を建設できる北海道の占領を望んでいたと言われています。

しかしアメリカは、「ソ連の対日参戦は状況次第。終戦後、日本は独立国家とする」と主張しました、

アメリカ側としては、ソ連に日本を占領されては困る上に、日本はもともと資本主義国で、ソ連とも対立していたため、終戦後は資本主義陣営の味方にできると同時に、「ソ連に対する盾」にもなると考えていたからです。

こうして両者の意見が対立したまま会談は何日も続きましたが、このポツダム会談の最中の7月16日にアメリカは世界初の核実験「トリニティ実験」を行い、原子爆弾の実用化に成功します。

これはアメリカのトルーマン大統領が、ポツダム会談の切り札とすべく開発を急ピッチで行うよう指示していた結果です。

(5)8月のソ連の本格参戦前に、日本を降伏させるというタイムリミットが生まれる

早速トルーマン大統領は、ソ連側に対し「核実験の成功と核兵器の実用化」を通告しました。しかしソ連のスターリン書記長は全く動じませんでした。彼はスパイ活動によって、すでに承知していたからです。

結局「ポツダム会談」はソ連側のペースで進み、アメリカは全くいいところなく終了しました。

ポツダム会談によって、「8月中にソ連は対日参戦を行う。各国が占領している地域は、そのままその国が統治する」という、ほぼソ連側の主張が通ったものが決定されました。

この結果、アメリカは「8月のソ連の本格参戦前に、日本を降伏させなければならない」というタイムリミットができたことになります。

(6)広島と長崎への原爆投下とソ連の対日参戦

そのため、アメリカは速攻で日本に降伏を促し始めます。

しかし当時の日本は「本土決戦」を盾に、「天皇制の護持」などできるだけ有利な条件で終戦に持ち込もうと、のらりくらりと交渉を引き延ばす外交戦術を取っていました。

一方、アメリカには「原子爆弾」という切り札がありました。

トルーマン大統領は、ポツダム会談中の7月26日には、すでに原爆投下の指示を出していました。ソ連に対して原子爆弾の存在をアピールするには、実際に投下する必要があります。

今の北朝鮮の金正恩総書記による「ミサイル発射実験」のようなものですね。

アメリカ国内ではこの頃、「威圧目的なら、投下する都市に事前通告した方がいいのではないか?」とか、「使用可能なことをアピールするだけなら、人のいない所に落とせばよいではないか?」という意見も出ていたのですが、上層部は全て拒否しました。

やはりその効果を国内外に見せる必要があると判断されたようで、開発者側から「実戦データがほしい」という声もあったようです。

なお、原爆投下候補地には、広島と長崎のほかに、新潟・京都・小倉もあったのですが、これらの候補地は、地形が平坦で、効果を計りやすいためだったようです。

こうして、7月末には準備が始まり、8月6日、広島への原爆投下が実行されました。一瞬にして都市は完全な焼け野原となり、10万人以上の一般市民が亡くなりました。

一方、ソ連もアメリカが終戦を急いでいることを当然知っていましたので、ポツダム会談中から日本侵攻の準備を急いで進めていました。

日本とソ連は当時「日ソ中立条約」という不可侵条約を結んでいましたが、ソ連はそれを一方的に破棄して、8月8日の深夜、日本に宣戦布告し、8月9日には侵攻を開始しました。

中国にあった日本の占領地「満州」への一斉射撃が始まりました。

8月9日、アメリカは今度は長崎への原爆投下を実行しました。再び都市は一瞬で全滅し、7万人以上の一般市民市民が犠牲となりました。

8月6日から8月9日までの米ソの動きは非常に急で、「原爆投下」を巡って、両国が急いでいたことがわかります。

8月14日、北海道の北の「北方領土」で、ソ連軍が侵攻を開始し、現地の守備部隊と交戦に入りました。

そしてソ連の参戦と二度の原爆投下によって、8月14日、日本政府はついに「ポツダム宣言」を受諾して「無条件降伏」し、太平洋戦争は終わりました。

しかしソ連は、日本の敗戦を知っても侵攻をやめませんでした。ここでやめるとアメリカの思うつぼで、「ここまで準備して侵攻開始したばかりなのに今更やめられない」として、諸外国の非難も無視して侵攻を続け、そのまま「北方領土」を占領してしまいました。

しかし、さすがにもう「終戦」となっているためそれ以上は進むことが出来ず、北海道を制圧することなくソ連軍も侵攻を停止しました。

ソ連軍が日本の無条件降伏を無視して進軍を継続したため、戦闘は9月まで続きましたが、9月中頃には終了しました。

2.原爆投下の本当の理由

広島と長崎への原爆投下については、「日本がなかなか降伏しなかったため」とか「戦争終結のために仕方がなかった」などと言われますが、果たしてそうなのでしょうか?

アメリカ政府の原爆投下に関する公式見解は、「日本に衝撃を与えて降伏させ、本土侵攻によって失われたはずの100万人の米兵の生命を救うためである」「本土決戦を行えば、アメリカ人だけでなく日本人も多く犠牲になっていただろう」というものです。

(1)ソ連の対日参戦を極力抑える

アメリカ側から「ソ連の対日参戦」を要請した手前、参戦するなとは言えません。しかし、ソ連が北海道や日本の北半分を占領することになれば、ドイツの悲劇の二の舞になります。

それは資本主義陣営の盟主であるアメリカにとって不都合なことで絶対に阻止する必要がありました。

これは大戦終結後の世界の主導権争いで社会主義陣営のソ連の優位をもたらすことになるからです。

(2)原子爆弾の威力を見せつけ戦後の主導権を握る

世界で最初に原子爆弾を開発したアメリカが、実戦で原子爆弾の威力を見せつけることで、戦後のアメリカとソ連による世界の主導権争いを有利に進めることができるからです。

(3)アメリカのみで日本を降伏に追い込む

アメリカは、日本の占領政策の都合上有利と判断して「天皇制を存続」させました。これは戦争中から研究されていたことです。

もしアメリカが戦争終結を急いだのであれば、ポツダム宣言から「天皇制存続を保証する条項」を外す必要はなかったはずです。

しかしこれにはソ連などの反対があって「天皇制存続を保証する条項」を入れることはできませんでした。

そうなると、アメリカの力で日本を降伏に追い込む必要があり、原子爆弾が最も手っ取り早い方法だったのでしょう。

(4)事前警告なしの人体実験

「戦争の早期終結」が目的であれば、十分な外交上の警告を行った上でないと説明がつきません。要するに原爆投下は、警告なしに一般市民を大量虐殺したものです。

開発者側が原爆の威力と殺傷力を試したかったという意図が透けて見えます。

日本の降伏を決定づけたのは、原爆投下というよりも「ソ連の対日参戦」でした。日本はソ連と「日ソ中立条約」を結んでいた上、「和平交渉の仲介」を依頼していたぐらいでした。

頼みとしていたソ連が突然「対日参戦」したのですから、日本の和平交渉が絶望的になったのも同然でした。

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