暴君ネロとはどのような人物だったのか?なぜ暴君になってしまったのか?

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皇帝ネロ

古来、「暴君」は洋の東西を問わず存在しました。中でも特に有名なのは、古代ローマの皇帝ネロです。

独裁者になると、何でも自分の思い通りになるため、傲慢になり、残虐な行為も平気でするようになる傾向はあります。しかし、もともと異常性格でもない限り、「暴君」になる原因が何かあるはずです。

今回は「暴君ネロ」の生涯について考えてみたいと思います。

1.古代ローマ帝国の第5代皇帝

古代ローマ帝国の第5代皇帝ネロ(37年~68年、在位:54年~68年)は、カエサルやアウグストゥスの血をひくユリウス=クラウディウス朝の最後のローマ皇帝です。

ローマ皇后の母・小アグリッピナと執政官の父・グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスとの間の息子です。

母は、大アグリッピナ(初代皇帝アウグストゥスの孫娘)と軍人ゲルマニクスとの間の子です。父は、皇族女性の大アントニア(マルクス・アントニウスの娘)と、元老院議員ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスとの間の子です。

ややこしいのでわかりやすく言うと、彼の母・小アグリッピナ(15年~59年)は「初代皇帝アウグストゥスのひ孫」です。

そして彼女は第3代皇帝カリグラ(12年~41年、在位:37年~41年)の妹なので、カリグラはネロの伯父にあたります。

皇帝カリグラは、精神に変調をきたして狂気の振る舞いを見せるようになり、ネロを育てていた小アグリッピナを、何の前触れもなく「国家の敵」だと非難し、流刑に処しました。

ネロの母・小アグリッピナは、暴君となったカリグラが暗殺されるとローマに戻り、カリグラの跡を継いだ第4代皇帝クラウディウス(B.C.10年~A.D.54年、在位:41年~54年)の妻に収まりました。

しかも、彼女は息子のネロをクラウディウスの後継者とすることに成功し、54年にクラウディウスを毒キノコ中毒に見せかけて毒殺し、ネロを皇帝に即位させました。

このように彼はローマ皇帝の正統な血をひく皇帝と言えますが、血なまぐさい争いが彼の幼少の頃から起きていました。

彼はローマの大火でキリスト教徒の迫害を行うなど、典型的な暴君として知られています。

2.初期の善政

16歳で皇帝になった最初の5年間は、師のストア哲学者・政治家・詩人のセネカ(B.C.4年頃~A.D.65年)の補佐もあり、善政を行いました。

セネカは、後世「ネロの5年間」「5年の良き時代」と呼ばれる善政を実現した立役者です。

下の画像の右がセネカで、左がネロです。

セネカ(右)とネロ(左)

3.暴君ネロの悪行・乱行

しかし、次第に狂気を発し、乱行が多くなりました。

(1)ローマの大火でキリスト教徒を迫害

64年7月にローマに大火が起こりました。競技場の下から出火した火は9日間燃え続け、ローマを焼き尽くしました。

大火で燃えた地域は、ネロの黄金宮殿「ドムス・アウレア」の建設予定地であったため、「ネロが新しい都市計画を思いついて、自らローマに火をつけた」との風聞が立ちました。

彼はその風聞を打ち消すために、キリスト教徒の放火であると断定して大迫害を行いました。

それまでキリスト教についてはほとんど知られていませんでしたが、この出来事で人々にその存在が知られるようになりました。

ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑と決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたということです。

この時、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロやパウロも殉教しています。

さらに陰謀の疑いがあるとして、自らの師であったセネカを捕らえ、自死を命じました。

帝政期ローマの政治家・歴史家のタキトゥス(55年頃~120年頃)は「年代記」のなかで、次のように書いています。

ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない。

(2)母・小アグリッピナとの陰惨な関係の末に母を誅殺

母・小アグリッピナは先夫との間に生まれたネロを連れ子に、皇帝クラウディウスの妃となりました。権力欲の旺盛な彼女は、我が子ネロを皇帝にしようとクラウディウスの娘オクタウィア(40年~62年)と婚約させ、次に皇帝暗殺を計画して成功し、どさくさ紛れにネロを皇帝に即位させました。

ネロは政略結婚の相手だった正妻を嫌い、解放奴隷だった侍女のアクテを恋人にした頃から母離れが始まりました。

息子の離反に怒った母が、密かにクラウディウスの遺児ブリタンニクス(41年~55年)を皇帝に立てようと画策すると、その動きを察知したネロは55年に宮廷の晩餐でブリタンニクスを毒殺しました。母親の手法を息子がまねたわけです。

やがてネロは、取り巻きのオトの妻ポッパイアを愛人にします。ポッパイアがネロを操る母・小アグリッピナを遠ざけようとすると、小アグリッピナはネロと背徳の関係を結びます。

この噂はたちまちローマに広まり、ネロにとって母親であり愛人の一人である小アグリッピナは彼の重荷になって行きます。そこで彼は59年に小アグリッピナを騙して誅殺します。

また愛人のポッパイアが自分を正妻にするよう要求したため、正妻のオクタウィアを子供を産まなかったことを理由に離縁した上で、最後は密通の嫌疑をかけて幽閉し、62年に自殺を強要しました。

下の画像は、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの描いた「母親を誅殺した後の皇帝ネロ」(1878年)です。

母を謀殺した後の皇帝ネロ

(3)悪口を言っただけで元老院議員を処刑

62年にプラエトル(法務官職)にあった者が宴席でネロの悪口を言った咎で死刑になったことから始まって、多くの元老院議員が処刑されました。

65年には元老院議員ピソを皇帝に擁立する計画「ピソの陰謀」が発覚し、ピソに連座してセネカも自死を命じられました。

3.ギリシャに渡り、古代オリンピックにも自ら参加

芸術の愛好家でもあった彼はギリシャで4年に一度開催される「オリンピア祭(古代オリンピック)」に対抗して、60年に5年に一度開かれる「ネロ祭」を創設しました。なお、この「ネロ祭」は彼が68年に亡くなったため、2度開催されただけでした。

「ネロ祭」は音楽・体育・戦車の三部門からなっていました。そのうち、彼は竪琴・詩・弁論の3種目に出場しました。元老院は皇帝がそのような行動をするのを阻止しようと、出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしましたが、彼はこれを拒否し、堂々と出場して勝利するとこれを拒否したそうです。

最後の数年間はローマを離れ、強い憧れを抱いていたギリシャに渡り、アテネで戦車競争や・歌舞音曲に熱中しました。67年には古代オリンピックにも自ら参加し、優勝したそうです。

ただしこの優勝は、主催者側が大胆な「出来レース」を行ったもので、獲得した栄冠は1800にも及んだそうですが、多くの不正があったようです。

4.元老院が「廃位」を決定し、追い詰められて自殺

このようなローマ皇帝らしからぬ行動によって、完全に皇帝としての人望をなくし、元老院も彼の「廃位」を決定しました。

ネロは元老院から「国家の敵」と宣告され、逮捕のために兵が差し向けられました。彼は召使の家に逃げ込みましたが、結局逃げ切れないことを悟り、自死しています。

彼の最後の言葉は、「この世から一人の偉大な芸術家が消え去る」だったとされています。

ネロは、家庭教師セネカの教育もむなしく、道徳哲学にも政治にも興味がなく、ローマ社会の中で放蕩な振る舞いを続け、義弟・母・妻・部下など邪魔になった人物を次々と殺害し、師のセネカまでも自死に追いやりました。

ダモクレスの剣」の故事にもあるように、皇帝などの独裁者は常に暗殺や裏切りなどの身の危険を感じて疑心暗鬼となり、誰も信じられない異常な精神状態に陥りがちで、ネロもそのような状態がエスカレートして行ったのかもしれません。

かつてのソ連の独裁者スターリンや現代の北朝鮮の金正恩委員長と似ているように思います。

5.ローマの大火の要因と新都市計画

(1)大火となった要因

64年の大火がキリスト教徒による放火かどうかは定かでありませんが、全ての建物がコンクリート造りか石造だったローマでなぜこれだけの大火になったのでしょうか?

その理由は、当時の建物の水平材(梁や天井、床)が木材だったからです。梁がそのまま外側に突き出したバルコニーを伝わって延焼し、その火が逃げ惑う人々の頭上に降り注いだのです。

また、大火災となった最大の理由は、当時人口100万人に急増していたローマは、4階建て・5階建ての集合住宅が密集する過密都市になっていたことです。

(2)大火後の新都市計画

大火後の新都市計画では、道路を広げるとともに、建物は4階建てまでに制限され、必ず中庭を設けることとし、床には木材使用が禁止され、天井には石材が奨励されました。また消火用の貯水槽や水道を張り巡らせることになりました。

ネロはローマの都市部を改造する壮大な計画を立てました。ギリシャ文化に憧れていた彼は、ギリシャ人の理想郷「アルカディア」をローマに再現しようと考え、焼け跡に建設した広大な宮殿を「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」と名付けました。

前庭には巨大なネロの立像を建て、海や野山を模した庭園には動物を放し飼いにし、各部屋には金箔を張り詰め、宝石で飾り、食堂の天井には象牙の鏡板が嵌め込まれ、浴場には海水と硫黄泉を引いたということです。

16世紀には地下の洞窟「グロッタ」(下の画像)として知られており、その室内装飾はルネサンス美術にも大きな影響を与えました。

前に「現実逃避の為政者の功績としての文化の開花」という記事を書きました。足利義政や、ルイ15世・ルイ16世、徽宗ほどではありませんが、ネロにも文化的影響は残したと言えます。

ドムス・アウレア地下洞窟ドムス・アウレア壁画

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