1.「両国橋の別れ」
忠臣蔵の名場面の一つに大高源吾(おおたかげんご)と宝井其角(たからいきかく)との「両国橋の別れ」があります。
大高源吾は俳諧にも造詣が深く、「子葉(しよう)」という俳号を持っています。
討ち入りの日の夕方、「大歳(おおとし)」(大晦日)の煤(すす)払いの「煤竹(すすだけ)売り」に身をやつした大高源吾は、両国橋で俳諧仲間の宝井其角と偶然出会います。
其角は源吾の身なりを見て、その落ちぶれようが本当だと勘違いして、もう会うこともあるまいと自分の羽織を与えます。そして、「最後に付け句を」と橋の上から隅田川の流れを見ながら、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と出します。
(この意味は、年月がたつと、人の運命は大変変わるものだ。特に落ちぶれた時は、年末の時が余計に身にしみる。水の流れは止まらず、流れていくように、人の身(運命・・この場合は源吾を指す)も本当に分からないものだ、というものです。)
これに対して源吾は、その夜が吉良邸討ち入りですから「明日待たるる その宝船」と返したのです。
(意味は、明日になれば討ち入りは終わる。長年の願いがかなう。吉良を討つことができれば、最高だ。万一失敗しても、皆で切腹するのだから、なき主君の下へいける。ともかく、長年の念願であった本懐を遂げることができる。宝船みたいだ。というものです。)
其角はこの意味が分からず、その足で俳諧の指導をしている旗本土屋主税の屋敷へ赴き、その話をします。(ちなみに土屋主税の屋敷は吉良邸の隣にあります)すると土屋はこの「付け句」の謎を解くのです。
出来過ぎた話で、事実ではないと思いますが、大高源吾・宝井其角・土屋主税をうまく結びつけた感動的な場面となっています。
2.「大高源吾」とは
「大高源吾」(1672年~1703年)は、浅野内匠頭の「中小姓(ちゅうごしょう)」だった赤穂藩士です。ちなみに「中小姓」とは、侍と足軽の中間に位置する下級武士です。彼は膳番元方・金奉行・腰物方を兼ねていました。大石内蔵助に最も信頼された一人です。
江戸では「脇屋新兵衛」の変名で、俳諧師水間沾徳(みずませんとく)に弟子入りし、俳諧師の宝井其角とも親交がありました。また吉良家出入りの茶人山田宗徧(やまだそうへん)を通じて吉良邸の動静を探っています。
彼は山田宗徧を通じて、「12月14日に吉良屋敷で茶会があること」を突き止めています。
彼は、1701年に大石内蔵助からの指示で「江戸急進派」をなだめる説得役を任されます。ただし「木乃伊取りが木乃伊になる」形で江戸急進派に同調してしまいます。
大石内蔵助は、命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるために「神文返し」を実行しますが、この際同志の所を回る使者として彼と貝賀弥左衛門が選ばれています。
討ち入り直前に母に宛てた手紙では、討ち入りの思いを吐露するとともに老母の気持ちを思いやっています。
内々の大事も、いよいよ首尾よく御座候て、も早二、三日中に打ち申す事に御座候。これまでは八幡大菩薩、観世音菩薩の御守りして存じの外た易く埒あき申候。討込み候ての本望遂げ申す段、あわれあわれ思うままにあれかしと願い申候。今更何事を申し上ぐべき事も御座なく候。是かぎりの文にて御座候。何かの事もみなみな前世の約束と思召し、いたく御嘆き遊ばれまじく候。何ぞ此節まで手馴れ候もの形見に送り上げ申し度く候へども、衣類等の様なるものは遣し難く、余りに垢つき候ままここ許にて兎にも角にも致し申す可く候。肌に着け申候物にて御座候まま守袋進じまいらせ候。まことにまことに先立ちまいり候不孝の罪、後の世も恐しく存じ奉候へども全く私事に捨て候命ならず候まま其の罪御許し下されただただ兎にも角にも深く御嘆き遊ばされず御念仏頼み奉候。刀は親父の御差し成され候刀にて御座候。刃のわたり二尺三寸程御座候大長刀持ち申候。此の度の事と存じ心のままに出で立申候。人に勝れし働き仕る可く候とあっぱれ勇み申候まま此段少しも少しも御気遣ひ遊ばし下さるまじく候。山を裂く刀も折れて松の雪
辞世は「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」です。
3.「宝井其角」とは
「宝井其角」(1661年~1707年)は、服部嵐雪・向井去来らと並ぶ「蕉門十哲」の一人の俳諧師です。
彼が師匠の松尾芭蕉を上方に招いて酒造りで有名な高槻市・富田(とんだ)で接待した時の俳句に次のような面白いものがあります。
「今朝(けさ)たんと呑めやあやめの富田(とんだ)酒」
これは「回文(かいぶん)俳句」で前から読んでも後ろから同じになります。ひらがなに直すとよくわかります。
「けさたんとのめやあやめのとんたさけ」
なお、「あやめ」というのは江戸時代に富田地区(現在の高槻市)で最も大きな酒蔵「紅屋」で作られていた酒の銘柄です。