今テレビ番組の「プレバト」俳句が、夏井いつき先生と「シュレッダー富美男」と揶揄されている「永世名人」の梅沢富美男との絶妙の掛け合いで大人気となっています。
ところで「女流俳人」としてすぐ思い浮かぶ名前は、江戸時代の加賀千代女でしょう。「蜻蛉釣り 今日はどこまで 行ったやら」と「朝顔に つるべ取られて もらひ水」という俳句で有名ですね。
このほかは、中学校の国語の時間に習った中村汀女ぐらいではないでしょうか?しかし詳しいことはあまり知らない人がほとんどだと思います。
そこで今回は中村汀女についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.中村汀女(なかむらていじょ)とは
中村汀女(1900年~1988年)は、地主で村長も務めた斎藤平四郎とテイの一人娘として熊本県飽託画図村(現熊本市)に生まれました。本名は「破魔子(はまこ)」です。
昭和を代表する女流俳人で、星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女と並んで「四T(4T)」と並称されています。
1918年に熊本県立高等女学校を卒業しましたが、その頃から句作を始め「ホトトギス」へ投句もしています。彼女は俳人の杉田久女(1890年~1946年)に憧れてファンレターも出しており、久女との交流はその後も長く続きました。
1920年に熊本市出身の大蔵官僚(税務)の中村重喜と結婚し、以後夫の転勤と共に、東京、横浜、仙台、名古屋など全国各地を転々とし、後に東京に定住しています。
結婚で中断していた句作を32歳で再開して、高浜虚子(1874年~1959年)に師事し、1934年に34歳で「ホトトギス」同人となっています。
1940年に出した「咳の子の なぞなぞあそび きりもなや」などを収めた句集「春雪」は、同じく1940年に出た星野立子の句集「鎌倉」とともに高浜虚子に称賛され、虚子門下の代表的女流俳人となりました。
戦後の1947年には俳誌「風花(かざはな)」を創刊・主宰しました。また新聞の俳句選者やラジオ・テレビを通じて俳句の普及に努めました。1980年「文化功労者」となり、1984年には「日本芸術院賞」を受賞しています。
「台所俳句」などと揶揄されることもありましたが、家庭の日常を情感豊かに詠んだ温かみのある素直で伸び伸びとした抒情的な俳句で知られています。
「台所俳句」との批判に対して彼女は「私たち普通の女性の職場ともいえるのは家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がなぜいけないのか」(「汀女自画像」)と主張し、女性の生活を肯定しています。
彼女は俳句について、次のように述べています。
私たちは、折に触れ、ものに触れ、何かを言いたいのです。美しいものを見つけたら、ことばに出して讃嘆し、人にも告げたくなります。季節にしたがう日常の暮らしの中で、心に響くものを柔らかく、つつましやかな気持で十七文字に表すのが俳句です。
俳句というものは、むつかしい学問や格式を必要とせず、万人が楽しめる文学として生まれ、そして今日まで発展してきたものですから、だれでも、気軽に、自分たちの周囲から、美しい詩を見つけて、十七文字にすることです。
悲しいことも、辛いことも、十七文字に詠むことによって、不思議に自分から離れてしまいます。思いを文字につづるということは、ほんとうに不思議な強い力を持っています。そして十七文字に表現するために自分を見つめる、つつましい自分がそこに生まれるのを覚えます。 (中村汀女 俳句入門)
下の画像は画家の鎌田勝美氏(1937年~ )による彼女の肖像画です。
2.中村汀女の代表的な俳句
・咳の子の なぞなぞあそび きりもなや
・とどまれば あたりにふゆる 蜻蛉かな
・秋雨の 瓦斯(ガス)が飛びつく 燐寸かな
・外(と)にも出よ 触るるばかりに 春の月
・たんぽぽや 日はいつまでも 大空に
・我に返り 見直す隅に 寒菊赤し
3.中村汀女とともに「四T」と称された女流俳人
(1)星野立子(ほしのたつこ)
星野立子(1903年~1984年)は、高浜虚子の次女で、虚子に師事し、初の女性主宰誌「玉藻(たまも)」を創刊しました。
明るく伸びやかな感性の日常詠が特色です。自らも認めるように、父である虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」の忠実な実践者でした。
・ままごとの 飯もおさいも 土筆かな
・囀を こぼさじと抱く 大樹かな
・朴の葉の 落ちをり朴の 木はいづこ
・しんしんと 寒さがたのし 歩みゆく
・父がつけし わが名立子や 月を仰ぐ
・昃(ひかげ)れば 春水の心 あともどり
(2)橋本多佳子(はしもとたかこ)
橋本多佳子(1899年~1963年)は、東京出身の俳人で、本名は「多満(たま)」です。祖父は筝の山田流家元の山谷清風で、父は官僚でした。菊坂女子美術学校日本画科を病弱のため中退しています。
1917年に建築家で実業家の橋本豊次郎と結婚し、福岡県小倉市(現在の北九州市)に「櫓山荘(ろざんそう)」を建築して移り住んだ後、高浜虚子が来遊したことを機に句作を始めました。杉田久女が俳句の手ほどきをしています。
1927年に「ホトトギス」雑詠に「たんぽぽの 花大いさよ 蝦夷の夏」が初入選しています。
1929年に杉田久女から山口誓子(1901年~1994年)を紹介され、1935年から山口誓子に師事しています。同年4月には水原秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人になっています。
・ひと日臥し 卯の花腐し 美しや
・踊りゆく 踊りの指の さす方へ
・鴬や かまどは焔 をしみなく
・春空に 鞠とどまるは 落つるとき
・雪はげし 抱かれて息の つまりしこと
・夫(つま)恋へば 吾に死ねよと 青葉木莵(あおばずく)
(3)三橋鷹女(みつはしたかじょ)
三橋鷹女(1899年~1972年)は、千葉県成田市出身の俳人で、本名は「たか子」です。
1916年に成田高等女学校を卒業後、上京して次兄・慶次郎の元に寄寓しましたが、彼が若山牧水・与謝野晶子に師事する歌人であったため、彼女も作歌を始めました。
1922年に剣三の俳号を持つ俳人でもある歯科医の東謙三と結婚し、俳句の手ほどきを受けています。
1929年に夫妻で原石鼎の「鹿火屋」に入会し原に師事しましたが、のちに脱会し小野蕪子の「鶏頭陣」に入会し小野に師事しています(ただし、のちに脱会)。
戦後、新興俳句系の「俳句評論」等に携わりました。
写生の方法によらず、自在な口語表現・新興俳句の詩的表現などを駆使して、女性の情念を詠む激しい前衛的な句風で、当時の女性俳人の中でも異色の存在でした。しかし晩年は孤独と幽玄の度合いを深め「老いながら つばきとなって 踊りけり」や「墜ちてゆく 燃ゆる冬日を 股挟み」のような鬼気迫る句も残しています。
・この樹登らば 鬼女となるべし 夕紅葉
・みんな夢 雪割草が 咲いたのね
・ひるがほに 電流かよひ ゐはせぬか
・しやが咲いて ひとづまは憶ふ 古き映画
・鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし愛は 奪うべし
・白露や 死んでゆく日も 帯締めて