戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名の大谷吉継(大谷刑部)(1559年~1600年)は、病気のために崩れた顔を隠すために白い布で覆っていたと言われています。
一方、古代中国には「イケメンすぎて常に仮面をつけて戦った」という伝説のある「蘭陵王(らんりょうおう)」がいます。冒頭の画像は、広島県の宮島行きのフェリー乗り場前にある「舞楽・蘭陵王」の像です。
そこで今回は蘭陵王についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.蘭陵王とは
「蘭陵王」と呼ばれるのは、古代中国南北朝時代(439年~589年)の北斉の皇族出身の武将高長恭(こうちょうきょう)(541年~573年)という実在の人物です。
突厥や北周との戦いで勇名を馳せましたが、後に主君に忌まれて死を賜りました。勇猛かつ容姿に優れた貴公子で、戦勝を記念して作られた楽曲が日本にも伝わり、雅楽「蘭陵王(陵王)」として知られています。
「仮面の伝説」については、中世西洋の騎士の甲冑(下の画像)ほどの重装備ではないと思いますが、当時将兵は戦闘時、兜とともに鉄の仮面をつけて頭と顔を防御していたそうなので、彼だけ特別ということではなかったのかもしれません。
(1)北斉王朝
当時中国は南と北に分裂して抗争しており、北には「北魏」という国がありました。しかしやがて衰退して二人の実力者が台頭し、それぞれが北魏の皇帝を傀儡にして国政を壟断しました。
一人は宇文泰で西方に割拠して「西魏」を建国し、後に息子が簒奪して「北周」となりました。東方では高歓が割拠して「東魏」を建国しました。「蘭陵王」は高歓の孫の一人です。
高歓の後を継いだ高澄(「蘭陵王」の父)(521年~549年)は、父親のような英雄ではありませんでしたが、有能な実務家で、侯景をはじめとする危険分子を粛清して高一族による独裁政権を確立し、相国・斉王となって簒奪の準備を進めていましたが、549年に暗殺されてしまいます。
すると高澄の弟の高洋(526年~559年)が暗殺者を殺害して、即座に権力を掌握しました。高洋は斉王位を襲い、さらに魏帝から皇位を奪い、550年に自身が皇帝となって新王朝を開きました。これが「北斉」の「文宣帝」です。
本来であれば家督は高澄の系統に渡るはずでしたが、「蘭陵王」の叔父である高洋が実力を背景に奪ってしまう形になってしまいました。
以後の皇位は「蘭陵王」の叔父たちや従兄弟たちに渡ってしまい、高澄の息子たちは本家筋でありながら一皇族という微妙な立場に立たされることになりました。
(2)高長恭(蘭陵王)の生い立ちと王号拝命
高長恭(蘭陵王)は高澄の四男として生まれました。高澄には6人の男子がありましたが、蘭陵王の母の名前や出自は伝わっていません。
叔父の「文宣帝」は文武に優れた皇帝でしたが、一方酒乱で残忍な暴君でした。
文宣帝の長男の第2代廃帝時代の560年、彼は徐州の「蘭陵王」に封じられました。
第4代武成帝(537年~569年)は暴虐な皇帝で、甥たちを苛烈に迫害しました。「蘭陵王」の2人の兄は殺害され、それを非難した弟の安徳王は鞭を打たれて重傷を負いました。
それでも「蘭陵王」は武成帝に忠実に仕え、軍功を挙げたので重用されました。武成帝最晩年の565年には開府儀同三司・尚書令に任じられる重臣となりました。
ある時、武成帝は褒美として20人の女性を妾として与えましたが、彼は1人を受け取っただけでした。
(3)北周との戦いと逸話、伝説の誕生
北斉の皇族には軍事的才能に優れた者が多く、彼の祖父の高歓はもとより、叔父の文宣帝や武成帝のような放蕩者もひとたび戦場に立つと、目覚ましい働きを示しました。
564年に北周が攻めて来た時には、斛律光・段韶らの将軍とともに芒山で戦い敗走させました。
さらに包囲された洛陽への援軍のために、500人の騎兵を率いて突撃を行い、包囲網を突破しました。
しかし洛陽城西北の金墉城にたどり着いたものの、城内ではあまりにも急に包囲が崩れたので相手の正体を疑って動けませんでした。そこで彼は兜を脱いで素顔を見せたところ、援軍とわかり反撃を行ったので北斉軍の大勝利となりました。
立役者である彼を讃えるために「蘭陵王入陣曲」という歌が作られ、兵士たちがこれを歌いました。この故事が後世に伝わり、「蘭陵王は自身の優しげな面貌が士気に響くのを慮り、仮面をつけて戦場に立った」という伝説が生まれたのです。
(4)死を賜る
武成帝の息子の第5代皇帝・後主(556年~577年)の代でも重用され高官を歴任しましたが、後主は惰弱な暗君であったため、武勲輝かしい従兄に次第に害意を抱き始めました。
それを察した彼は、保身を図るために戦利品を着服したり、病気の治療をしなかったり、引退しようともしましたが、許されませんでした。
結局、後主の猜疑から逃れることができず、服毒して死ぬよう命じられました。観念した彼は、後主に弁明するべきという妻の鄭氏の提案を断り、鴆毒(ちんどく)をあおりました。
上の画像は愛知県一宮市にある真清田神社所蔵の「蘭陵王」の舞楽面です。1211年の作で重要文化財となっています。
2.蘭陵王を題材にした雅楽の「蘭陵王(蘭陵王入陣曲)」
「蘭陵王」は雅楽の曲目の一つで、管弦にも舞楽にも奏されます。別名「蘭陵王入陣曲」で、短縮して「陵王」とも呼ばれます。
管弦演奏時には「蘭陵王」、舞楽演奏時には「陵王」と表します。
この曲の由来となった伝説によると、蘭陵王はわずか五百騎で敵の大軍を破り洛陽を包囲するほどの名将でしたが、「音容兼美」と言われるほど美しい声と優れた美貌であったため、兵士たちが見惚れて士気が上がらず、敵に侮られるのを恐れ、必ず獰猛な仮面をかぶって出陣したということです。
3.蘭陵王を題材にしたその他の作品
中国ドラマ「蘭陵王妃~王と皇帝に愛された女~」も「蘭陵王」を題材にしたドラマです。
あらすじ:時は(中国)南北朝時代、北方では斉と周が勢力を競う中、両国とも国内では権力をめぐって骨肉の争いを繰り広げていました。ある時、「天下統一の秘密を封印したとされる『青鸑鏡』を手にした者が天下を得る」という予言が世に広まります。
557年、魏晋南北朝末期、戦乱とかけ離れた白山村に住む老巫女・楊林氏は、天女の血を受け継ぐと言われる孫の雪舞と斉・蘭陵王との不吉な運命を予見してしまいます。
十数年後、美しく聡明な女性に育った雪舞は、楊林氏が危惧していた蘭陵王と運命の出会いを果たしてしまいます。次第に惹かれ合う二人でしたが、そこには幾多の困難が待ち受けていました。
斉と周が天下を争う中、蘭陵王はその勇敢で柔和な人柄から、兵士や民のみならず皇帝からも厚い信頼を受けていました。しかし皇太子・高緯はそんな蘭陵王に嫉妬心を募らせ、彼を陥れる策略を立てていました。
一方、斉の敵国・周では、少主・宇文邕が宿敵の蘭陵王を葬り、天女(雪舞)を得て天下を取ろうと目論んでいました。
乱世を終わらせることができる唯一の人物でありながら、蘭陵王は1年以内に死ぬ運命にありました。そこで彼女は愛する人の運命を変えるために、村を出て行くことを決意します。
身寄りのない美しい娘・雪舞は、密命を受けて周国の皇帝の弟である大司空・宇文邕(うぶん・よう)に嫁ぐことになります。しかしそこで事故のために記憶を喪失します。刺客と疑われた彼女は身の危険を感じて宇文邕の元から逃げ出します。
逃避行の途中で、戦乱の真っただ中にいた将軍・蘭陵王に命を救われます。そして蘭陵王に懐かしさを覚え、胸の高まりを感じるのでした・・・