現代は「写真」が普及しましたので、人物の個性や特徴をデフォルメした「似顔絵」というジャンルのほかは「肖像画」の需要はあまり多くないと思いますが、19世紀に写真が発明される前は、王侯貴族や富豪たちは盛んに肖像画を描かせました。
肖像画は、「権力や権威・威厳の誇示」という側面もありますが、写真と同様に「愛する人の面影を留める」という目的もあります。また「芸術作品」としての一面もあります。
しかし肖像画の伝統は、現代の「超写実絵画」に継承されています。
前に「デュ・バリー夫人」の記事でも少し紹介しましたが、皆さんはルブラン夫人という美貌の肖像画家をご存知でしょうか?上の画像は彼女が26歳の時(1781年)に描いた自画像です。確かに可愛らしい美人ですね。
1.ルブラン夫人とは
ルブラン夫人は「18世紀で最も成功したマリー・アントワネットの宮廷画家」です。
美しい自画像(上の3枚も)をたくさん描いているのも特徴です。
かつて富士フイルムの使い捨てカメラ「写ルンです」のCMで、「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」という面白いキャッチコピーがありましたね。
彼女は「実物よりほんのちょっぴり美しく描いた」ことで、宮廷社会から絶大な人気があったようです。
余談ですが、彼女とは逆に国王一家を醜悪に描いてアピールしたのはスペインの宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤ(1746年~1828年)です。「カルロス4世の家族」がそれです。ゴヤとしては「それなりに描いた」ということかもしれません。特に暗愚そうな国王と狡猾で底意地の悪そうな王妃の表情はゴヤの精一杯の風刺でしょう。
(1)生い立ちと少女時代
ルブラン夫人、本名エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755年~1842年)は、画家ルイ・ヴィジェの娘としてパリに生まれました。
最初、親から絵画教育を受けましたが、後にガブリエル=フランソワ・ドワイアン、ジャン=バティスト・グルーズ、クロード・ジョセフ・ヴェルネほか、当時の大家たちから助言を受けるようになり、10代前半頃には、すでに職業画家として肖像画を描いていました。
アトリエが無許可営業のため差し押さえられてからは、組合のサロンに彼女の作品を快く展示してくれた「聖ルカ組合」に申し込み、1774年に会員になりました。
(2)画商と結婚
1776年に画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚しました。そして彼女は当時の貴族の多くを肖像画に描き、画家としての経歴を開花させました。
(3)マリー・アントワネットの宮廷画家となる
その後、マリー・アントワネットの肖像画を描くためにヴェルサイユ宮殿に招かれました。王妃は彼女の肖像画の出来栄えに大変喜び、その後数年間彼女は王妃や子供達、王族やその家族の肖像画を数多く依頼されました。
(4)フランドルとオランダへの旅
1781年に彼女は夫とともに、フランドル(現在のベルギー)とオランダへの旅に出ました。フランドルの大家の作品に刺激されて、新しい技法も試みました。この旅で彼女は後のオランダ王ウィレム1世を含む数名の貴族たちの肖像画を描きました。
(5)フランスの王立絵画彫刻アカデミー会員となる
1783年、彼女は「歴史的寓意画家」としてフランスの王立絵画彫刻アカデミー会員に迎えられました。
彼女の入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーの幹部に反対されましたが、マリー・アントワネットが自分のお抱え画家である彼女の利益になるように、夫のルイ16世に相当な圧力をかけたため、彼らの反対は国王の命令によって覆されました。
(6)フランス革命の間はイタリア・オーストリア・ロシアで暮らす
1789年に起こった「フランス革命」で王族が逮捕された後、彼女はフランスから逃れて数年間イタリア・オーストリア・ロシアで暮らし、画家として働きました。
ここでもかつて貴族の顧客と付き合った経験が役立ち、ローマでは作品が大絶賛され、ローマの聖ルカ・アカデミーの会員に選ばれました。
ロシアでも貴族から歓迎され、女帝エカチェリーナ2世の皇族の肖像画を多数描きました。ロシア滞在中に彼女は、サンクトペテルブルク美術アカデミーの会員となりました。
(7)革命政府転覆後にフランスに戻る
革命政府転覆後の1802年、彼女はフランスに戻りました。ヨーロッパ上流階級からの引く手あまたの中、イギリスを訪れ、バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描いています。
(8)ナポレオンの妹の肖像画も描いたがナポレオンと折合いが悪くスイスへ
ナポレオン・ボナパルトの妹の肖像画も手掛けましたが、ナポレオンとの折合いが悪くなり、1807年にフランスを離れてスイスに赴き、ジュネーブ芸術推進協会の名誉会員となりました。
(9)王政復古後にフランスに戻り、安住の地とする
1814年にフランスが王政復古すると、ルイ18世に手厚く迎えられ、フランスを安住の地としました。
彼女は86歳でこの世を去るまでに、660の肖像画と200の風景画を残しています。
画家としては名声を博しましたが、夫は賭博好きであり、一人娘も長じてから素行が悪くなるなど家庭的には恵まず、幸福な家庭は築けませんでした。
彼女の墓碑銘は、「Ici, enfin, je repose…」(ここで、ついに、私は休みます・・・)です。
私の勝手な想像ですが、この短い墓碑銘には「長年にわたって王侯貴族の多くの肖像画などの仕事をこなしてきて気苦労もあったがマリー・アントワネットに可愛がられ充実していた。しかしフランス革命の嵐の中で王族が処刑されたりして、フランスを離れて外国での生活を余儀なくされた。そこでも貴族たちの注文に応じて肖像画の仕事ができ、評判もよっかった。王政復古でやっとフランスに帰って来られ、安住の地を得た。しかし家庭的には賭博好きの夫や娘の素行の悪さに悩まされたりして随分疲れた。しかし、これでようやく休める」という万感の思いが込められているのではないでしょうか?
2.マリー・アントワネットとの関係
彼女が描いたマリー・アントワネットの有名な肖像画の一つにヴェルサイユ宮殿に展示されている「マリー・アントワネットと子供達」があります。
この絵は王妃の人気回復のために、彼女の母親としての魅力を強調して描かれたと言われています。
しかし皮肉なことに、その満ち足りた姿がかえって民衆の反発を招き、革命の抑止力にはなりませんでした。
マリー・アントワネットの肖像画も多く描いていますが、上の2枚の画像のように、ポーズが全く同じで服装が異なるものもあります。
現代風に言えばプロカメラマンが、異なる服装でファッションモデルに同じポーズを取らせて撮影している感じでしょうか?
彼女とマリー・アントワネットは、画家と王妃を超えた友人関係を築いていたと言われています。
3.ルブラン夫人のその他の主な作品
(1)アリアドネーに扮したハミルトン嬢(1790年)
(2)バッカスの巫女に扮したエマ・ハミルトン(1790~1791年)
(3)ポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(1797年)
(4)水浴びをする女性(1792年)
(5)ポリニャック公爵夫人の肖像(1782年)
(6)アレキサンドラ・ゴリシャーナ姫と息子の肖像(1794年)
(7)プロイセンのルイーズ王妃(1801年)
(8)ザイールに扮する女優ジュゼッピーナ・グラッシーニ(1804年)
(9)エカチェリーナ・ヴァシリエヴナ・スカヴロンスキー伯爵夫人の肖像(1796年)
(10)ヴィジェ=ルブラン夫人と娘ジュリー(1786年頃)