前に「源頼朝」「源頼家」「源実朝」の鎌倉幕府源氏三代の記事を書きましたが、そこに『吾妻鏡』『愚管抄』という書物が頻繁に出てきましたね。
『吾妻鏡』は鎌倉時代の歴史書で、『愚管抄』は鎌倉時代の慈円による史論書です。
そこで今回は『吾妻鏡』についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.『吾妻鏡』とは
(1)『吾妻鏡』のタイトルの意味
「吾妻」は、「東(あずま)」すなわち東国武士(坂東武者)たちを指しています。
「鏡」は、『大鏡(おおかがみ)』(平安後期の歴史物語)や『今鏡(いまかがみ)』(平安末期の歴史物語)などの書名にもありますが、私たちが日ごろ使っている鏡(ミラー)そのものです。
万葉仮名(まんようがな)で「可我見」すなわち「我を見るべ(可)し」と書きますが、これは「(鏡が)私を見てあなたの姿を映し、自身を省みなさい」という意味になります。
そのことから、「鏡」とは「お手本、教訓」の意味も持つようになり、先ほど登場した作品も古老の昔話という形で歴史の教訓を伝え、模範を示しているのです。
ちなみに「鎌倉武士の鑑(かがみ)」などと言いますが、この鑑も鏡と同じ意味です。
つまり『吾妻鏡』とは「教訓が込められ、模範とすべき東国武士たちの歴史」ということになります。もちろん反面教師も登場しますが・・・
余談ですが、「鏡」の語源は、目に映る姿を見るものの意味で「かげみ(影見)」が転じたとする説、輝いていて見るものの意味で「かがみ(耀見)」が転じたとする説、古くは祭具として用いられていたことから、「神」に通じるとする説など諸説あります。
(2)『吾妻鏡』の内容
『吾妻鏡(あずまかがみ)』(『東鑑』とも書く)は、鎌倉時代に編纂された歴史書で、内容は鎌倉幕府の前半、すなわち鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の話から第6代将軍・宗尊(むねたか)親王まで6代の将軍記となっています。
鎌倉幕府の歴代将軍を軸に、東国の武家社会の歴史が詳細に記載されていることから、一級史料として高い評価を得ています。
治承4 年(1180 年)の以仁 (もちひと) 王・源頼政の平家追討の挙兵に始り、文永3年 (1266年)6代将軍宗尊親王の上洛までの87年間の事績を日記体に編修したものです。
全52巻で構成されていますが全体の巻数は不明です。ただし第45巻は所在不明であり、第1巻~第24巻までが源氏三代、そのうち15巻は源頼朝の将軍記となっています。
1183年、1196年、1197年、1198年、1242年、1249年、1255年、1259年、1262年、1264年に関してはほぼ欠落しています。
記事は各将軍 (源頼朝、頼家、実朝、藤原頼経、頼嗣、宗尊親王の6代) に分けられ、各将軍1代の前に、当時の天皇や上皇、摂政、関白の略歴を載せ、月日を追って将軍在任中の治績を記録しています。
幕府当局に保管されていた史料や、武士から提出された史料のほか、京都の貴族の日記などを利用していますが、対象は幕府とその配下の武士の事柄に限定され、京都の貴族の間に起った事件や、幕府に属さない武士相互の抗争などはほとんど扱っていません。
2.『吾妻鏡』の特徴
(1)鎌倉幕府の正史ではなく、「将軍年代記」
『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正史ではなく、編年体で書かれた「将軍年代記」であり、「源氏に厳しく北条に甘い」という特徴を持っています。つまり「北条氏のバイアス」がかかっています。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍年代記です。
(2)文章は編年体
文章は「編年体」、すなわち、かつての日本の公式の歴史であった六国史、『日本書紀』や『続日本紀』から『文德実録』『三代実録』に至る公式の歴史と同じように、つまり天皇によって分けて歴史を書いたのと同じように、将軍職や将軍の交代を一つの基準にして歴史を書いているという年代記の形をとっています。
(3)源氏三代将軍には厳しい評価で北条得宗家の執権政治に甘い評価
第一に源氏の三代の将軍に対してその評価が非常に厳しいということです。それに対して、二番目に、北条義時以降の北条得宗家の執権政治に対しては非常に甘く評価が高いという特徴が挙げられます。
第一の特徴としては、例えば、第2代将軍の源頼家は自分の家来、御家人が愛している女性を奪いとったとか、蹴鞠に凝ったりして政治を顧みなかったというような調子で書かれています。
また、源実朝は日本の文化史にも残る『金槐和歌集』を編纂し、歌人としても有名ですが、その実朝が和歌に熱中しすぎ、後鳥羽上皇に対して忠誠を誓うあまり、鎌倉・東北の御家人たちのことを気にとめない公家肌の人物だった、すなわち暗黙のうちに「実朝は武人ではない」というニュアンスで書かれています。
さすがに、日本の武家政権の最初の棟梁であった初代の頼朝に対する露骨な批判はありません。しかし、頼朝に対するそこはかとない批判が散りばめられています。
頼朝というと、あの英雄であり、兄を慕い、兄のために働いた義経を最後に殺害し、さらに同じ兄弟の範頼まで自分の手で殺害に追い込んでいくというように、非常に冷酷な人物という印象があります。
その時に必ず出てくる人物として、義経のことを讒言(ざんげん)し、頼朝に義経の悪口を告げ、頼朝の義経に対する疑いを深めた人物として、梶原景時がいます。この梶原景時に対する評価、梶原景時は悪い家臣であったということを、『吾妻鏡』は摺りこんでいるのです。
つまり『吾妻鏡』は、結果として、源頼朝という武家の大棟梁、政権の創始者としての評価を間接的に押し下げることに貢献した書物だということです。
(4)得宗家への高い評価で北条執権政治の正統性をアピール
まず貞永年間につくられた有名な「御成敗式目(貞永式目)」によって、法の制定による「法治主義」(法の支配)を武家政権で初めて打ち立てたと評価しています。
さらに評定衆や引付衆といった職制を定め、政策決定をグループ化することによって「集団的な政策の運営」、すなわち「合議制」というある種の日本型の民主主義の基盤をつくったのも泰時であるという形で語られています。
『吾妻鏡』は、一体、いつごろ書いたのかというのは、多くの謎に包まれています。
二つの説があり、14世紀に書かれたという説を挙げる専門家たちがいます。もう一つは、二つの時代に分けて書かれたのではないかという説があります。すなわち、前半部については13世紀後半、後半部については14世紀初頭ではないかという二段階説をとっている学者もいます。
作者は、北条氏が執権として実権を確立してからの鎌倉幕府の家臣が武士・寺社・公家の日記や、訴訟の記録などの史料を収集して執筆し、幕府中枢(執権・北条氏関連)の複数の人物が編纂したものと見られます。
執筆の目的は、明らかに「北条執権政治の正統性アピール」で、「歴史は勝者によって作られる」ということを如実に示しています。
4.『吾妻鏡』の写本
『吾妻鏡』は、戦国時代に徳川家康が治世に資するために愛読して以来、世に広まりました。当時は印刷技術がなかったので、「写本」によって広まりました。
『吾妻鏡』の写本には、「北条本」「吉川本(きっかわぼん)」「島津本」「黒川本」などがあります。
「北条本」は、戦国時代の1590年に豊臣秀吉が小田原攻めし、小田原城が降伏開城した際に北条氏から黒田官兵衛に贈られたもので、江戸時代初期の1604年に黒田長政から徳川秀忠に献上されました。
下の画像は「吉川本」の右田弘詮(みぎたひろあき)による序文です。ちなみに右田弘詮とは、戦国時代の大内氏の重臣です。
弘詮は文人としても知られ、宗祇や猪苗代兼載といった当時一流の文化人と親交がありました。弘詮はそれら文化人から、「吾妻鏡と号す関東記録」があり「文武諸道の亀鑑」と聞いていましたがなかなか目にすることが出来ませんでした。
しかし文亀元年(1501年)頃、その「写本」42帖を手に入れることが出来、数人の筆生を雇い書き写させて秘蔵しました。それは治承4年(1180年)から文永3年(1266年)と、現在知られる範囲ではありましたが、なおその間に20数年分の欠落がありました。
このため弘詮は諸国を巡礼する僧徒、または往還の賓客に託して、京はもちろん畿内・東国・北陸に至るまで尋ねまわり、ようやくにして欠落分の内5帖を手に入れました。これを最初の書写と同じ形式で書き写させて全47帖とし、その目次も兼ねて年譜1帖を書き下ろし全48帖としました。大永2年(1522年)9月5日のことです。その後書きにはこう記されています。
望む人ありといえども、かつて披見を許すべからず。暫時たりといえども室内を出すべからず。いわんや他借書写においておや。もし子孫において、この掟に背かば、不孝深重の輩となすべし。
弘詮の『吾妻鏡』は今日では“吉川本”と呼ばれています。記事に3年分の欠損はありますが、現在では『吾妻鏡』の最善本と目されています。
江戸時代には、諸大名が競って『吾妻鏡』を読んだと言われています。