西行が妻子を捨ててまで出家し漂泊の旅に出たのはなぜか?

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西行

西行といえば、諸国を行脚して多数の和歌を詠み、古今和歌集に94首(収録数第一位)もの歌が採用された歌人ですが、なぜ西行は妻子を捨ててまで出家し漂泊の旅に出たのでしょうか?

1.西行法師とは

西行(1118年~1190年)は、元は鳥羽上皇(1103年~1156年)に仕えた「北面の武士」であり、僧侶・歌人でもあります。俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)です。

佐藤氏は平将門を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫で、富裕な武門の家柄でした。

彼は流鏑馬などの武芸にも蹴鞠や和歌にも秀でた眉目秀麗な若武者で、宮中の女官の憧れの的となり、女性関係も盛んだったようですが、なぜか23歳の若さで出家して最初「円位」と名乗り、後に「西行」と称するようになりました。これは「西方浄土へ行く」という意味合いがあるのでしょう。

出家の際に、衣の裾に取り付いて泣く4歳の子供を、縁側から蹴落として家を捨てた時に詠んだというエピソードが残っているのが次の歌です。

「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」

西行秋の夕暮れの歌

出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲しましたが、その後は心の赴くままに諸所に草庵を営み、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、2000首を超える多くの和歌を残しています。

1144年頃に奥羽地方へ赴き、1149年頃に高野山に入っています。1168年には中四国に旅して讃岐国の崇徳院の墓参を行い、弘法大師の遺跡巡礼もしています。1177年には伊勢二見浦に移っています。

1186年には東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために二度目の奥州下りを行っています。この途中に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが「吾妻鏡」に記されています。

彼の独自の歌風は、室町時代の連歌師宗祇(1421年~1502年)や江戸時代の俳諧師松尾芭蕉(1644年~1694年)にも大きな影響を与えました。

「新古今和歌集」所収の秋の夕暮れを詠んだ三首の名歌「三夕の和歌」(*)の一つ「心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮れ」は彼の歌です。

(*)「三夕の和歌」のあとの二首は次の通り

・さびしさはその色としもなかりけり槙(まき)立つ山の秋の夕暮れ (寂蓮)

・見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ (藤原定家)

ただし、都に近くにも住み、藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい)(1114年~1204年)とその周辺の人々を歌友として歌道に精進しています。

桜の花を愛した西行は、生前から桜の木の下で死にたいと願っていたようで、次のような歌を詠んでいますが、実際にもその通り如月の望月(釈迦の命日)の翌日の2月16日にこの世を旅立ちました。

「願わくは 花の下にて春死なん その如月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」

2.妻子を捨ててまで出家し漂泊の旅に出た理由

大きく分けて二つの理由が挙げられています。

(1)友人の急死説

「西行物語絵巻」によると、「親しい友(佐藤範康)の死を理由に北面を辞した」と記されています。二歳年上の若い親友の急死によって、人の世のはかなさを痛切に思い知らされたからということのようです。しかしこれは説得力がないように私は思います。

(2)失恋説

これはかなり有力な説で4つの説があります。

①「源平盛衰記」では、「高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが、『阿漕(あこぎ)』の歌(*)を詠みかけられて失恋した」とあります。

(*)「阿漕」の歌について

次の古歌のことです。

伊勢の海阿漕が浦に引く網もたびかさなれば人もこそ知れ

なお古今和歌六帖には次の歌があります。

逢ふことを阿漕の島に曳く網のたびかさならば人も知りなむ

「阿漕が浦」は、伊勢国安濃(あの)郡(現在の三重県津市)の海岸です。伊勢神宮に供える魚をとるため禁漁地でしたが、ある漁夫がたびたび密漁して見つかり捕らえられたという伝説があります。この伝説をもとに上の二首の歌が作られました。

「阿漕が浦に引く網」ということわざにもなっています。意味は「隠し事もたび重なると人に知られてしまうことのたとえ」です。

②近世初期成立の「西行の物かたり」では、「御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、次の逢瀬を尋ねると『あこぎであろう』と言われたので出家した」とあります。

③瀬戸内寂聴(1922年~2021年)は、自著「白道」の中で、「待賢門院への失恋説」を取っていますが、美福門院説」もあるとしています。

④五味文彦は「院政期社会の研究」の中で、恋の相手を上西門院に擬しています。

私は③の「待賢門院への失恋」説が真相に近いのではないかと思います。

ちなみに待賢門院とは「待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし/たまこ)」(1101年~1145年)で、白河法皇の愛人だった女性で、鳥羽上皇の中宮です。一度は関係を持ちましたが、17歳も年上の彼女から「関係が続けば人に知られる」と言われて振られてしまったようです。

出家の8カ月前に詠んだ歌は「空になる心は春の霞にて世にあらじとも思ひ立つかな」です。

出家の後も恋の歌を詠んだ西行であれば、「叶わぬ恋に世をはかなんで出家した」というのは十分あり得る話です。

百人一首には彼の次のような歌が取られています。「嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」

なお美福門院とは藤原得子(ふじわらのとくし/なりこ)(1117年~1160年)で、鳥羽上皇の皇后です。上西門院とは上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ)(?~1183年)で、待賢門院璋子に仕えた女流歌人です。

(3)武士という職業に嫌気がさし、無常観・厭世観に陥った

私は、この「待賢門院璋子への失恋」に加えて、「北面の武士という殺し合いも避けられない職業に嫌気が差し、無常観・厭世観に陥っていた」のではないかと思います。

ちなみに彼は平清盛(1118年~1181年)と同い年です。

彼の出家後には、1156年と1159年には崇徳上皇と後白河法皇と藤原摂関家との争い(内乱)である「保元・平治の乱」がありました。

この時「武家の棟梁である平氏と源氏の一族が入り乱れて兄弟・親子同士の骨肉相食む争い」も起きています。

また1180年~1185年には平清盛を中心とする平氏政権に対する源氏の反乱である「治承・寿永の乱」が起きています。

もし彼がそのまま「北面の武士」を続けていれば、これらの争乱に参戦して、命を落としていたかもしれません。

彼に捨てられた妻子には大変気の毒ですが、彼自身の人生および日本文化にとっては良い選択だったのではないかと思います。

3.西行の恋の歌

西行は桜と月を愛した歌人として知られていますが、恋の歌も多く詠んでいます。いくつかご紹介します。

桜と月の歌も、単に風流に美しいと思って詠んだものもあるでしょうが、桜や月を見るたびに恋しい人への思いが募って詠んだと思われる歌もあります。

余談ですが、西行の時代の桜は葉と花が同時に出る「山桜」です。「古事記伝」を書いた本居宣長が愛したのも山桜でした。

山桜

現代の我々が見る桜はほとんど「ソメイヨシノ(染井吉野)」ですが、これは江戸時代に「エドヒガン(江戸彼岸)」と「オオシマザクラ(大島桜)」を交配して作られた品種です。

・いとほしやさらに心のをさなびて魂(たま)ぎれらるる恋もするかな

・恋しきをたはぶれられしそのかみのいはけなかりし折の心は

・なにとなくさすがに惜しき命かなありへば人や思ひ知るとて

・逢はざらんことをば知らで帚木の伏屋と聞きて尋来にけり

・知らざりき雲居のよそに見る月の影を袂に宿すべきとは

・弓張の月にはずれて見し影のやさしかりしはいつか忘れん

・面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて

・面影に君が姿を見つるよりにはかに月の曇りぬるかな

・うち向ふそのあらましの面影をまことになして見るよしも哉

・嘆くとも知らばや人のおのづからあはれと思ふこともあるかな

・涙川深く流るる澪ならば浅き一目に包まざらまし

・身の憂さの思ひ知らるることはりに抑へられぬは涙なりけり

・何とこは数まへられぬ身の程に人を恨むる心なりけん

・待かねて一人は臥せど敷妙の枕並ぶるあらましぞする

・逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりける我心かな

・花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける

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