皆さんは「乞食路通」あるいは「八十村路通」という名前をお聞きになったことがあるでしょうか?
江戸時代の俳人としては松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶や宝井其角などが有名ですが、八十村路通はほとんど知られていません。
1.八十村路通とは
八十村 路通(やそむら ろつう)(1649年~1738年)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人で、「近江蕉門(おうみしょうもん)」(近江における松尾芭蕉の門人グループ)の一人です。
ちなみに近江蕉門には、膳所藩士の菅沼曲水や膳所藩医師の濱田洒堂(珍碩)など武士階級をはじめ僧侶、商人、医師、農民まで幅広く人が集りました。
2.芭蕉との出会い
『蕉門頭陀物語』によれば、芭蕉が草津・守山の辺で出会った乞食が路通でした。乞食(乞食坊主)が和歌を楽しなむとの話に、芭蕉は一首を求め「露と見る 浮世の旅の ままならば いづこも草の 枕ならまし」と乞食が詠んだところ、芭蕉は大変感心し、俳諧の道へ誘って師弟の契りを結び、路通(又は露通)の号を乞食に与えたのです。
かつて欧米人には「黄禍論」のような日本人などのアジア人を蔑視する人種差別意識が強くありました。(現代の欧米人にも深層心理には、日本人に対する蔑視や人種差別意識があると思いますが)
「欧米人が日本の乞食が新聞を読んでいるのを見て驚いた」とか、「終戦後に占領軍のGHQが、一般の日本国民の計算能力の高さや識字率の高さに驚嘆した」という話を聞いたことがあります。帝国主義列強の欧米がイエローモンキーと蔑称で呼び差別した日本人を含む黄色人種が、欧米人より高い能力を持っていることは許し難く受け入れ難いことだったのでしょう。
「乞食の路通が和歌を詠む」のは、芭蕉にとってこれと同じような驚きだったのでしょう。
3.出自
路通の出自については、『猿蓑逆志抄』において「濃州の産で八十村(やそむら、又ははそむら)氏」、また『俳道系譜』においても「路通、八十村氏、俗称與次衛門、美濃人、大阪に住む」と記されています。
また、『芭蕉句選拾遺』において路通自ら「忌部(いんべ/いむべ)伊紀子」と、『海音集』では「斎部(いんべ/いむべ)老禿路通」と記しています。神職の家柄とも言われますが乞食となり、漂泊の旅に出たと言われています。
出生地についても、「美濃」から「大阪」、「京」、「筑紫」、「近江大津の人で三井寺に生まれる」と様々な説があります。
「寺内生れ」には、その言葉自体に薄倖な生い立ちが感じられますし、路通の境涯をすでに暗示しているようです。
いちおう三井寺で修行僧として青年時代を過ごしたようですが、『蕉門名家句選』の路通の項には「俗念多く、また奔放にして驕慢な言動が同門の不評・反感を買う」とあるので、どうもまともに精進していたとは思えません。
その驕慢な言動が災いしたか、一時、師である芭蕉に勘当されました。しかし、そういう生来の気儘さが功を奏したのか、記録によると九十歳という当時では異例の天寿を全うしています。
森川許六による『風俗文選・作者列伝』に記されている通り「路通はもと何れの所の人なるか知らず」、路通は漂泊者であり、近江の草津・守山辺りで芭蕉と出会ったと多くの書が示していることだけが事実と確認できます。
4.生涯
路通は芭蕉との出会いの後江戸深川の採荼庵に芭蕉を訪ねたとされ、『笈日記』によれば元禄元年(1688年)9月10日江戸素堂亭で催された「残菊の宴」、それに続く「十三夜」に宝井其角・服部嵐雪・越智越人らと共に参加していることが、路通が記録された最初の資料とされます。また、句が初めて見えるのは元禄2年(1689年)の『廣野』からで、元禄3年(1690年)『いつを昔』にも句が載っています。
元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)芭蕉が河合曾良を伴い「奥の細道」の旅に出ると、路通も漂泊の旅に出て近江湖南周辺を彷徨い、越前敦賀に旅から戻った芭蕉を迎え、大垣まで同道したとされます。
芭蕉が故郷伊賀に帰ると、路通は住吉神社に千句奉納を行い近畿周辺を彷徨った後、元禄3年(1690年)には大津に出てきた芭蕉の下で濱田洒堂との唱和を行いました。
その直後、師の辿った細道を自ら踏むため旅立ち、出羽等に足跡を残し、同年11月江戸に戻ると俳諧勧進を思い立ち翌元禄4年(1691年)5月『勧進牒』初巻を刊行しました(ただし初巻のみで終わりました)。『勧進牒』の内容は選集として一流と言え、同じ元禄4年(1691年)の『百人一句』に江戸にて一家を成せる者として季吟・其角・嵐雪等と共に路通の名があり、俳壇的地位は相応に認められていました。
ただ『勧進牒』において「一日曲翠を訪い、役に立たぬことども言いあがりて心細く成行きしに」と言い、また元禄4年(1691年)7月刊行された『猿蓑』において「いねいねと 人に言われつ 年の暮」と詠むなど、蕉門において疎まれていたことが伺えます。
『勧進牒』出版の前からその年の秋にかけ、路通は芭蕉と京・近江を行き来し寝食を共にしていたところ、向井去来(むかいきょらい)の『旅寝論』によれば「猿蓑撰の頃、越人はじめ諸門人路通が行跡を憎みて、しきりに路通を忌む」、越智越人(おちえつじん)は「思うに路通に悪名つけたるは却って貴房(支考)と許六なるべし」と語っています。
ちなみに貴房(支考)とは、各務支考(かがみしこう)で、許六とは、森川 許六(もりかわ きょりく)のことです。
茶入れを盗んだとされ、森川許六は『本朝列伝』において、路通のことを「その性軽薄不実にして師の命に長く違う」と記しています。
いずれにしても、向井去来・越智越人・各務支考・森川 許六などの「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」(*)のような芭蕉を支える経済力がある有力な門人たちから見れば、乞食同然の路通は排除すべき軽薄な異端児だったのかもしれません。
(*)「蕉門十哲」とは次の十人のことです。
宝井其角(たからい きかく)(1661年~1707年) 蕉門第一の高弟。江戸座を開く。
服部嵐雪(はっとり らんせつ)(1654年~1707年) 其角とならんで蕉門の双璧をなす。
向井去来(むかい きょらい)(1651年~1704年) 京都嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有。芭蕉より野沢凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢される。
内藤丈草(ないとう じょうそう)(1662年~1704年)
森川許六(もりかわ きょりく)(1656年~1715年)晩年になって入門。画の名人で芭蕉に画を教える。
杉山杉風(すぎやま さんぷう)(1647年~1732年) 本名は杉山市兵衛。蕉門の代表的人物で芭蕉の経済的支援者。深川の芭蕉庵の近くに「採荼庵」(さいだあん/さいとあん)という庵があった。
各務支考(かがみ しこう)(1665年~1731年)
立花北枝(たちばな ほくし)生年不詳~1718年) 「奥の細道」の道中の芭蕉と出会い入門。
志太野坡(しだ やば)(1662年~1740年) 芭蕉の遺書を代筆。
越智越人(おち えつじん)(1656年~1739年)尾張蕉門の門人。「更科紀行」の旅に同行。
元禄6年(1693年)2月の芭蕉から曲翠宛の手紙において、路通が還俗したことが記され「以前より見え来ることなれば驚くにたらず」と述べ、また『歴代滑稽傳』に勘当の門人の一人として路通が記されています。
その後、路通は悔い改めるべく三井寺に篭もったとされます。元禄7年10月12日(新暦1694年11月28日)芭蕉の臨終に際して、芭蕉は去来に向かい「自分亡き後は彼(路通)を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添え破門を解きました。
芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出、また『芭蕉翁行状記』を撰び師の一代記と17日以降77日までの追善句を収め元禄8年(1695年)に出版しました。
元禄12年(1699年)より数年、岩城にて内藤露沾の下にて俳諧を行い、宝永元年(1704年)冬には京・近江に戻り、晩年享保末年頃大阪に住んでいたと伝えられます。路通の死亡日時は元文3年7月14日(新暦1738年8月28日)という説がありますが、定かではありません。
正津 勉(しょうづ べん)氏は「乞食路通 風狂の俳諧師」という本の「あとがき」に次のように記しています。
路通は、最底辺たる宿命にいささかなりとも屈することがなかった天晴な俳諧師。いつどこで野垂れ死にしていても、おかしくない薦被り者なのである。いまふうにいえば格差社会、ネグレクトのはてのホームレス、漂流棄民とでもいえようか。
路通句作は、心底の発露だ。そこにはいまこそ聴くべき、呻きや、嗤い、沈黙、号泣、憤り、呟きや、ひめた声がいきづいてる。心底の発露だ。路通の句作は。
余談ですが、路通は「乞食井月(こじきせいげつ)」と呼ばれた幕末から明治の俳人・井上井月(いのうえせいげつ)(1822年~1887年)や、自由律俳句を詠んだ「放浪の俳人」種田山頭火(たねださんとうか)(1882年~1940年)に相通じるところがあるようです。
実際、種田山頭火は、昭和14年9月16日の「日記」に、「私は芭蕉や一茶のことはあまり考へない。いつも考へるのは路通や井月のことである。彼等の酒好や最後のことである」と書いています。山頭火は、路通と井月を「自分の先達なり」と定めていたようです。
5.八十村路通の俳句
・いねいねと人にいはれつ年の暮
「あっちへいけ」と人に厭われて今年も暮れようとしている、という自分の境涯を客観視した句
・火桶抱ておとがい臍(ほぞ)をかくしけり
あまりの寒さに火桶を抱いて、下あごと臍(へそ)がくっつくほどかがんで、あわせて恥多く鬱屈した胸中をも隠してしまおう
・はつ雪や先(まづ)草履(ぞうり)にて隣まで
初雪なので嬉しくて、ちょいとお隣さん(芭蕉庵?)に草履がけで飛んで行って、挨拶でもして来ようか
・元朝や何となけれど遅ざくら
元日元朝だからといって、お目出度いことなどない。花期に遅れて咲く桜花、そいつが物珍しく見える程度のことよ
・ころもがへや白きは物に手のつかず
「衣替え」は陰暦4月朔日(ついたち)、その日に袷(あわせ)に替える。けれど着たきりの汚れた鼠衣(ねずみごろも)の身なので、いやどうにも「白」の袷には手が通しがたいものよ。忘れてくれるな、自分は乞食坊主だから。
・鴨の巣の見えたりあるはかくれたり
芦や蒲(がま)などの間に掛けた水鳥の巣を見ていると、水面にふっと浮いたかと思うと沈み、沈んだかと思うといつの間にか浮いていて、面白いさまよ
・蜘(くも)の巣の是(これ)も散行(ちりゆく)秋のいほ
主(あるじ)のいない庵(いおり)は、冷たい風に木の葉は吹き飛ばされ、今しも軒端の蜘蛛(くも)の巣も風に破られ散ろうか
・残菊はまことの菊の終りかな
「重陽(ちょうよう)」(陰暦9月9日)を過ぎて咲いている菊、秋の終わりまで残った花がけなげにも枯れ尽きない姿を見るにつけ、しっかりと心しておこう。今すぐにも来る厳しい冬が偲ばれる
・後の月(のちのつき)名にも我が名は似ざりけり
師の芭蕉から賜った「我が名」路通は、風雅の路に通じよとの期待を込めての命名とおぼしく、加えて行方定めぬ身を含んでのこと。その通りこれからも、止むことなく歩き続けるばかりだが、それならば「初名月」(陰暦8月15日夜の月。中秋名月)に対して言う「後の月」(陰暦9月13日夜の月。名残の月。豆名月。十三夜)という呼び方は馴染まぬものよ
・肌のよき石にねむらん花の山
この俳句には、次のような前書が付いています。
「嗚呼、いづれの時、いづれの里、いづれの狂人か、同じく此のむねをあはれまむ。つながれたる庵は主に返し、彼の鍋は人にうちくれて、身は笠ひとつのかげを頼みて、行衛なき方をそたのしみけり」
つまりこの句のモチーフは、「漂泊への憧憬」です。師匠の松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出た心境と表面的にはよく似ていますね。
しかし、芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出た動機には「各地の門人たちとの交流・交歓のほか、新たな門人の獲得をめざし、あわせて金銭的な援助(開催した句会での謝礼など)も期待していた」ことや、「各地の有力者からの歓待を受けるグルメの旅を楽しみたかった」こともあったと私は想像しますが、路通の場合は純粋に「漂泊への憧憬」があったのではないかと思います。
・きゆる時は氷もきえてはしる也
固い氷も溶けて水になり、迸(ほとばし)り流れ去ってゆく。自分も今、意を決して長屋間借りを捨てて行雲流水の身となろう
・日にたつや海青々と北の秋
御師、見晴るかす敦賀の湊の目路のかぎり、なんと爽やかな心の底まで透き通る海の青さでありましょう
・母にはうとき三井寺の小法師
自分はなにゆえあってか母と縁薄き身なれば、いつとなく「三井寺の小法師」となり、今に至るよ
・鳥共も寝入つてゐるか余吾(よご)の海
「余吾の海」とは、近江国伊香郡(現在の長浜市)、琵琶湖の北にある山間の小さな湖「余呉湖」のことです。寂寞とした冬の湖の畔に行き暮れて宿の当てもなくたたずんでいると、波の動きのままに揺られ、羨ましいことに水鳥らは枯れ芦の陰に浮き寝をむさぼっているが、今頃どんな夢を結んでいるのやら
・芭蕉葉は何になれとや秋の風
秋風が破れかかった芭蕉葉を吹きやまない、いったい芭蕉葉にどうなってしまえといって吹きまくるのやら
・白山(はくさん)の雪はなだれて桜麻(さくらあさ)
「桜麻」は麻の一種で、花の色または種子をまく時期からの呼称。「白山の雪」と「桜麻」の彩の対比が鮮やかな句、これは初めて「加州(加賀)」へ足を踏み入れる際の挨拶の句
・身やかくて孑孑(ぼうふら)むしの尻かしら
おまえは尻を上にして浮遊するような「ぼうふらむし」、可笑しくも哀しい奴だよ。自嘲・自虐の句
・つみすてゝ蹈付(ふみつけ)がたき若な哉
野に萌え出た若菜を摘んだものの、持ち帰るあてもなく、仕方なく捨てて去り際に、踏みつけないように気を付けて行こう
・あかがりよをのれが口もむさぼるか
「あかがり」はあかぎれのこと
・芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ
枯れ芦が、おいでおいでと招く様子も物寂しくあるが、何となく亡き人を思わせるように、そのうちに散ってしまうさまは哀切きわまるよ
・しやんとして千種の中や吾亦紅(われもこう)
秋のおびただしい草群の中でひとり「しやんと」細い身を立てている吾亦紅よ、自分もまた汝のごとく気を腐らせず、気を取り直して旅を続けて行こう
・はづかしき散際見せん遅ざくら
九十歳まで生きた路通の自嘲の句
松助の『路通十三回忌序』には次のようにあります。
師翁路通、齢九十の春も過て、初秋の十四日、浪花江の芦間に見失ひ侍けるも、十とせ余り三とせなるらん。・・・そのかみ翁の はづかしき散際見せん遅ざくら と八十余歳の筆をふるはれしも、なつかしきまま、門人渓渉が写しおける一軸の像にむかひて、文月某日袂をうるほす。
・彼岸まへさむさも一夜二夜哉
寒さに凍えて「一夜二夜」と数え過ごすしかない。どうしろって一体全体、生まれからして過ちならばどうすりゃいいのか