第一次世界大戦の原因・経過・結末とは?日本の動きも紹介

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第一次世界大戦

2022年2月24日に起こった「ロシアによるウクライナ侵略」は、当初短期決戦で決着するような予想もありましたが、結局6ヵ月に及び、今は一進一退の膠着状態に陥っています。

今や欧米では「ウクライナ疲れ」や「ゼレンスキー疲れ」も起きています。しかし最悪の場合、第三次世界大戦に突入する危険性も孕んでいます。

そこで今回は、ロシアとウクライナの戦争の今後を占う意味も兼ねて、第一次世界大戦の歴史を振り返ってみたいと思います。

1914年から4年間続いた第一次世界大戦は、列強といわれる「帝国主義国家」の覇権を争う、帝国主義を背景とした最初の世界大戦です。

第一次世界大戦は、「欧州大戦」とも呼ばれるように主戦場はヨーロッパで、日本も連合国として参加しましたが「忘れられた戦争」とも言われるように印象の薄い戦争です。

そこで今回は、第一次世界大戦の原因・経過・結末ならびに日本の動きなどについて、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.第一次世界大戦とは

第一次世界大戦の概要と終戦

1914年から1918年まで続いた第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリアを中心とした「同盟国」とイギリス・ロシア・フランスを中心とした「連合国」との対立を背景に起こった、まさに総力戦ともいえる人類史上初の世界大戦です。

① 同盟国 …ドイツ帝国・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国  ※イタリアは、もともと同盟国でしたが、イギリスとのロンドン秘密条約(1915年)を締結後に同盟を脱退し、第一次世界大戦には連合国として参戦

② 連合国  …イギリス・フランス・ロシア帝国・日本・アメリカ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・中華民国・イタリア

戦闘機や偵察機、潜水艦や戦車、化学兵器(毒ガス)や機関銃などの武器が使用された結果、今までの戦争の形とは大きく変容します。このことによって、兵力以上に技術による戦力の増強、国家総動員が戦争の勝利の要因になり、軍人のみだった戦争の影響が国民にまで拡大していきました。

7000万人以上が参戦し、900万人以上以上の軍人と700万人以上の徴兵された一般市民が死亡した、死亡者数の多い戦争の1つです。アメリカの参戦により連合国側の勝利で終わった第一次世界大戦後、わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発してしまいます。

第一次世界大戦は、戦後も大きな傷跡を各国、特にドイツに残しました。戦勝国が敗戦国のドイツに巨額の賠償金を課した結果、ドイツでは「ハイパーインフレ」が起きました。

第一次世界大戦後の敗戦国ドイツの悪夢のような猛烈なハイパーインフレは「1918年から1923年までの約5年間で物価は1兆倍」という「天文学的数字」になりました。

ドイツのハイパーインフレ

ヨーロッパの不安定な政情が続いたため、「第二次世界大戦に向けた地殻変動」といわれ、その揺り返しが「第二次世界大戦」となりました。

2.第一次世界大戦の原因

サラエボ事件

19世紀になると、ヨーロッパ諸国では産業が発達したことで生産過剰状態が続き、世界同時不況という状況に陥ります。生産品が自国の中では売り切れなくなるのです。

そこで、各国はこの不況から脱却すべく、そして市場を増やすべく、植民地支配に力を入れ出します。多くの国がヨーロッパの列強国の植民地などにされ、特にアフリカや東南アジアはメインターゲットでした。当時のアフリカは、エチオピアとリベリア以外の全土が植民地とされてしまうほどでした。

この植民地確保は多くの紛争を生み、さまざまな対立が生まれました。フランスを牽制するためにドイツはオーストリア・イタリアと「三国同盟」を結び、対してイギリスはフランスとロシアと「三国協商」を結びます。イギリスはこの協商によって、ドイツを包囲することができました。

こうなると、欧州各国は互いに牽制し一触即発の状態です。例えば、ドイツは、ロシアの動き次第でフランスとの挟み撃ちにされる可能性があるため、まずは中立国であるベルギーを攻め、次にフランス、そしてロシアを攻めるというシュリ―フェン・プランを打ち出しました。また、イタリアはドイツがベルギーに侵攻したタイミングで動くと宣言していました。

そんな中、第一時世界大戦の直接的な原因となった「サラエボ事件」が起こります。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が反オーストリア運動結社「黒手組」(黒い手)の1人であったセルビア人によって暗殺された事件です。

この事件が第一次世界大戦の引き金となりました。

オーストリアはセルビアに対して宣戦布告をし、対してセルビアの後ろ盾であったロシアが総動員令を出しました。一方で、待ってましたとばかりにドイツはシュリ―フェン・プランを始動し、対してイギリスはドイツに宣戦布告、と次々に攻め出したのです。

「サラエボ事件」によって、ヨーロッパ戦争がはじまり、その後は日本、そしてアメリカも参戦するという、世界規模の戦争へと発展していきました。

3.第一次世界大戦での日本の動き

第一次世界大戦は「同盟国」と「連合国」との戦争だったのに、遠く離れた日本がどうして参戦したのでしょうか?

それは1902年に結んだ「日英同盟」と、中華民国での勢力の拡大を狙っていた日本にとって舞い込んできたチャンスであったからです。

① 日英同盟

イギリスがほかの1ヶ国と戦ったときには日本は中立を守り、2ヵ国以上と戦った場合はイギリスの味方をするというのが「日英同盟」でした。だからこそ、第一次世界大戦はイギリスが参戦している時点で、日本は参戦しなければならなかったのです。ちなみに、この同盟は日露戦争でも適用されていて、イギリスは中立の立場をとっていました。

② 中華民国での勢力拡大のチャンス

日本はこの機会に中国本土に進出しようと狙いました。そこで、日本がまず宣戦布告した国はドイツ帝国です。名目はもちろん、同盟国であるイギリスと対峙しているドイツの基地を攻撃することです。そこで、ドイツの租借地であり、ドイツの海軍基地があった山東半島を占領しました。

さらに中華民国に対して日本は「ドイツから奪った山東半島の権利は日本が引き継ぐことなどを求める二十一か条の要求を突きつけました。

袁世凱が受け入れたこの条約は、実はこのときの条件の多くは孫文が二十一か条の要求の交渉中に日本に宛てた日中盟約案での内容とほぼ一致しており、必ずしも中国側が嫌々受けるほどの内容ではありませんでした。むしろ、外交交渉では中華民国側が有利に交渉を進めたほどです。そして、袁世凱の死後に国務総理となった段祺瑞(だんきずい)は西原借款などの日本からの財政支援を受けながら、第一次世界大戦に参戦することを決めたのです。

一方で、国民感情としては対日ボイコット運動や排日運動が起こり、親日派批判が起こったのですから、第一次世界大戦は日中関係が悪くなる大きなきっかけとなったともいえるでしょう。

4.第一次世界大戦の経過

第一次世界大戦の写真

開戦時期は一般的に、1914年7月28日にオーストリアが宣戦布告した日が開戦日とされています。オーストリアの皇位継承者「フランツ・フェルディナント夫妻」が6月28日に、セルビア国内に勢力を置く暗殺グループによって暗殺される「サラエボ事件」によって引き起こされました。

その他にもドイツとロシアが宣戦布告した「8月1日」、ドイツがフランスに宣戦布告した「8月3日」、イギリスがドイツに宣戦布告した「8月4日」も大きな節目として考えられています。流れとしては、当初はオーストリアとセルビアの局地戦闘で終わる可能性もありましたが、セルビアを支援するロシアが参戦し、ドイツも同盟国オーストリアの戦闘のために参戦します。この時点で、大戦争に発展すると判断したロシアが、総動員令を下したのです。

そしてロシア・フランス同盟があったために、フランスもドイツに宣戦布告をせざるえなくなりました。イギリスは当初中立を目指していましたが、ドイツがベルギーに侵攻した為にドイツに宣戦布告をしています。この4つの日付が第一次世界大戦の大きな節目となったといえるでしょう。

戦争が始まった段階では、ヨーロッパの戦争に留まっていました。しかしなぜ世界大戦に発展したのかというと、「列強の威信維持と、相互の読み違いが重なったため」と言われています。

まず「威信維持」ですが、帝国主義を提唱していたヨーロッパ列強国は、植民地は支配国のいうことを聞く、もし従わなければ武力でたたく、これが大前提でした。ところが時代はナショナリズムが勃発時期であり、バルカン諸国も欧州列強のように強くなりたかったのです。民族意識が高まってきて、自分たちの国家を作りたいという意識が強まってきていました。

列強の皇位継承者が暗殺されて、列強諸国のメンツ問題が発生します。メンツを潰されて何もしないわけにもいかず、この事件を機に当事国を叩いて威信を示したいという思惑があったのです。こうして、ヨーロッパ列強の威信をかけて、オーストリアはセルビアに宣戦布告をしました。

そして「読み違いが重なった」という事情ですが、セルビアを支援するロシアは動員すれば、オーストリアが引き下がるだろうと考えていたといいます。しかし動員はオーストリアと同盟関係のドイツに圧力を掛けたと捉えられ、ロシアも事情を説明しないからドイツも対抗して総動員令を出しています。そういう行き違いが重なり、戦闘が大規模化していきました。

その混乱に便乗して、遠く離れた日本などでも戦争に突入します。1902年に結ばれた「日英同盟」を理由にイギリスが2か国以上と戦うと参戦せねばならなかったために、参戦することとなりました。日本としては、この戦乱を中国への支配拡大のチャンスと捉えていて、ドイツ帝国に宣戦布告し中国のドイツ占領地を攻撃し、占領しています。そして1918年にはアメリカ合衆国も参戦し、こうしてアジアやアメリカを巻き込む世界大戦へと発展していったのです。

5.第一次世界大戦の結末

第一次世界大戦は、1918年の11月11日に休戦条約に調印されたことで終結しています。戦勝国は、連合国側といわれたイギリス・ロシア・イタリア・セルビア・日本などです。敗戦国は、中央同盟国といわれたドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアでした。

約4年間続いた第一次世界大戦は、1918年にはイギリス・フランス・アメリカといった連合国が優勢となり、9月にはブルガリアが陥落、10月にはオスマン帝国とオーストリア帝国が降伏しました。11月にドイツはアメリカのウィルソン大統領が提唱していた「14ヶ条」を受諾する旨をアメリカに通告し、11月3日にドイツ革命が起き、同月9日には皇帝ヴィルヘルム2世が亡命、11日に休戦条約に調印することにより第一次世界大戦は終結に至ったのです。

なお、「スペイン風邪」が「パンデミック」となった原因の一つに第一次世界大戦による兵士の間での「スペイン風邪」の蔓延がありました。これについては、「サーズ・マーズ・スペイン風邪」の大流行はどのようにして収束したのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

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