空海が弘法さんやお遍路さんなどで日本人に広く親しまれているのはなぜか?

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空海像

私は個人的には仏教やキリスト教、イスラム教などの宗教を全く信じていません。しかし、空海(弘法大師)だけは、東寺の「弘法市(弘法さん)」や、四国の「お遍路さん」などで私にもなじみがあり、なぜか親しみを覚えます。

このように空海が日本人に広く親しまれているのはなぜでしょうか?

今回は空海について考えてみたいと思います。

1.空海とは

空海(弘法大師)(774年~835年)は、讃岐国出身の平安時代初期の僧で、真言宗(しんごんしゅう)の開祖です。俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)です。

日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)(767年~822年)とともに、日本仏教の大勢が「奈良仏教」から「平安仏教」へと転換していく流れの劈頭に位置し、中国から「真言密教」をもたらしました。816年、真言密教の道場として高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建立しています。

能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」の一人に数えられています。

12歳で儒学を学び始め、15歳の時、都に出て叔父阿刀大足(あとのおおたり)から儒学を学んでいます。18歳で高級官僚を養成するための大学に入学して学びますが、まもなく退学し、仏教的な山林修行を始めます。20歳で得度し、22歳の時に東大寺で戒律を授戒されています。

「空海」という名前の由来は、彼が悟りを開いた洞窟「御厨人窟(みくろど)」での出来事です。

青年時代の彼はこの室戸岬東側に位置する隆起海蝕洞で修行していましたが、この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の名を得たとされています。

ここでの難行の最中に、「口に明星が飛び込んできて悟りを開いた」ということです。

御厨人窟(みくろど)空海の空と海

2.遣唐使に選ばれて唐に渡り天才ぶりを発揮

彼はもともと官僚をめざして学んでいましたが、20歳前後で仏教に関心を持ち、各地を放浪して仏教を学んでいます。

遣唐使に選ばれたのも、当初は僧侶としてではなく、「医薬を学ぶため」としてでした。しかし悪天候で渡航が延期されると、翌年にはなぜか「学問僧」として唐に渡っています。

唐に向かった空海の船は、南へ流され福建省へと流れ着きました。最初彼らは海賊ではないかと疑われました。しかし彼の書く文字と文章が美しいため、その疑いはすぐに晴れました。

彼は唐で20年学ぶ予定でしたが、あらゆる才に長けていた彼はわずか2年で密教・土木技術・測量術などをマスターしました。

そしてさまざまな経典・仏具・仏画・書籍を携えて帰国しています。彼は「虚しく往きて実(み)ちて帰る」と述べていますが、入唐の成果がいかに大きなものであったかを端的に示しています。なお、これは「虚往実帰(きょおうじっき)」という荘子にある言葉が由来です。

3.空海が日本人に広く親しまれているのはなぜか?

最澄の場合は、「比叡山延暦寺」「僧兵の強訴」「織田信長による比叡山焼き討ち」などが思い浮かび、「権威主義」や「仏教勢力の権威を笠に着た横暴」などのマイナスイメージがありますが、最澄についてのイメージはほとんど浮かんできません。

しかし空海の場合は、「東寺の弘法市(弘法さん)」という年中行事や「四国のお遍路さん」という文化、「弘法も筆の誤り」ということわざや「五筆和尚の神業伝説」などの伝説や伝承があるため、昔から現在に至るまで、日本人に親しまれ、愛され続けているのではないかと思います。

そして、そこには「真言密教」という宗教色や胡散臭さはほとんどありません。これが宗教を全く信じない私でも親しみを覚える理由だと思います。

(1)東寺の弘法市(弘法さん、東寺縁日)

初弘法終い弘法

もともと「縁日」とは、神仏がこの世と縁を持つ日とされており、この日に参詣すると大きな功徳があるということです。

東寺では空海入寂の3月21日を期して、毎月21に御影堂で行われる御影供のことを指しています。当初は年に1回行われていたものが、1239年以降は毎月行われるようになったそうです。

1月21日の「初弘法(はつこうぼう)」と12月21日の「終い弘法(しまいこうぼう)」が有名ですね。

(2)四国のお遍路さん

同行二人お遍路さん

四国八十八箇所を巡り歩く「お遍路」の行者のことです。単に「お遍路」とも言います。多くは単独で行いますが、「常に弘法大師と共にある」という意味の「同行二人」という言葉を書いて身に付けます。

(3)ことわざ・慣用句

①弘法にも筆の誤り

空海は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになりましたが、「應」の一番上の点を書き忘れ、「まだれ」を「がんだれ」にしてしまいました。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれています。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っていますが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれています。

②弘法筆を選ばず

文字を書くのが上手な人間は、筆の良し悪しを問わないという意味のことわざ。ただし、性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった、という、全く逆の意味の言及があります。良い道具の選択が重要であることも世には多く、「弘法筆を選ぶ」のように全く逆に転じた言い回しもあります。

③護摩の灰(ごまのはい)

「弘法大師が焚いた護摩の灰」と称する灰を、ご利益があるといって売りつける、旅の詐欺師のことです。後に転じて旅人の懐を狙う盗人全般を指すようになりました。

(4)「空海の神業」の伝説

五筆和尚

「空海の神業」というのは、遣唐使船で唐に渡った空海が、時の順宗皇帝から宮殿の壁に文字を書くよう命じられると、左右の手に筆を持ち、左右の足にも筆を挟み、口にも筆を銜(くわ)え、五本の筆でもって王羲之(おうぎし)の五行の詩を同時に書き、更に一間に墨汁を注ぎかけると、たちまち巨大な「樹」の文字が浮かび上がったので、皇帝が舌を巻いて、「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与えたという伝説です。

(5)「いろは歌」の作者

「いろは歌」は一般には、空海が作ったものと言われています。彼は、中国で皇帝から「五筆和尚」の称号を与えられたくらいの天才ですから、日本語の字母を重複させずに過不足なく(「ゐ(ヰ)」と「ゑ(ヱ)」も入っています)織り込んで、一つの意味のある歌を作ることも出来たのでしょうが、見事というほかはありません。

(6)「平仮名」の発明者という説

空海が平仮名を作ったという説もあります。

(7)「弘法大師が持ち帰った灸法」

「灸」は、約3000年前の古代中国で発明されました。日本へは律令制度や仏教とともに伝来しましたが、江戸時代に「弘法大師が持ち帰った灸法」として新たな流行となり、現在も各地に「弘法の灸」と呼ばれて伝わっています。

(8)「うどんは弘法大師が唐から伝えた」という言い伝え

民間伝承に過ぎないという説も確かに多くあるが、「うどん空海請来説」のなかに次のような一文がある。「うどんは、空海が唐から持ち帰った「唐菓子」が源流といわれています。「唐菓子」は、小麦粉にアンコを入れて煮たもので「混沌(こんとん)」といわれていました。それが「検飩(けんとん)」となり、煮て、熱いうちに食べるものだから「温飩(おんとん)」となり、それが転じて「饂飩(うんとん)」となり現在の「うどん」になったと言われています。(山野明男「うどん伝来の一考察」より)

(9)大師信仰

お遍路さんの多い香川県では、「何かわからないことがあると、お大師さまの仕業にして安心する」という「大師信仰」が根強くあるそうです。

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